第2話 まだ、助けに入るな
床は、いきなり抜けなかった。
最初に中央の継ぎ目が持ち上がり、次いで反対側が沈んだ。石材同士が押し合い、細かな欠片を吐き出しながら、広間全体がゆっくりと傾いていく。
事故は映画のように始まらない。
爆発も、悲鳴も、決定的な崩壊も、たいてい最後に来る。その前には必ず、何かが耐えかねている時間がある。音、振動、臭い、温度、いつもとは違うわずかな傾き。人間の側が、それを警告として受け取るかどうかだ。
「水晶から離れろ!」
俺が叫んだ直後、傾いた台から巨大な水晶が滑り落ちた。
兵士の一人が反射的に受け止めようとしたが、人の頭ほどもある石の塊を腕だけで止められるはずがない。水晶に押し潰されかけた兵士を真田が横から突き飛ばす。
「滝沢さん! 結界です、結界! さっき出たやつ!」
「出せと言われても、使い方なんて聞いてない!」
眼鏡の青年――滝沢直人が悲鳴に近い声を上げた。
「盾みたいなのを想像してください!」
「そんな雑な説明で命を預けるな!」
「じゃあ、自分で何とかしてください!」
「やってる!」
切羽詰まっているのに、二人の会話は妙に学生じみていた。
それでも滝沢が両手を突き出すと、床すれすれに半透明の膜が広がった。転がってきた水晶が膜へぶつかり、柔らかな布に包まれたように速度を落とす。
「出た……出たけど、これ、ずっとは無理です!」
「水晶は放っておけ! 人を外へ出してください!」
「でも、王国の祭具が――」
「祭具は怪我をしません!」
俺は返事を待たず、最も近い扉へ走った。
両開きの扉は閉まったままだった。兵士二人が前に立ち、外から何かが入ってくるのを防ぐように槍を構えている。
「開けてください」
「王命なく開けることはできない」
「では、王様に聞いている間に床が抜けたら、この扉の前で全員仲良く死にますか?」
「無礼な!」
「礼儀の話は外に出てからにしてください。鍵はどこです」
兵士が槍の柄を俺の胸へ押しつけた。
「一歩下がれ。勇者であろうと、これ以上の狼藉は許さん」
「俺は勇者じゃないそうです。だから、遠慮しません」
槍をつかんで押し返そうとしたが、相手は鎧を着た現役の兵士だ。四十一歳の事務方に力で勝てるはずもなく、逆に腕をひねり上げられた。
「痛い、痛い。分かりましたから、腕は外さないでください。外すなら扉のほうをお願いします」
「この状況で、よく減らず口を――」
再び大きな振動が走った。
扉の上から石の装飾が落ち、兵士の兜をかすめる。兵士はようやく槍を手放したが、俺の腕をつかんだままだった。
「ほら、建物のほうは命令を待ってくれませんよ」
「……鍵を持ってこい!」
兵士が相棒へ怒鳴った。
しかし、その男は階段上にいる国王を見たまま動かない。兵士として国王を置いて逃げるわけにはいかず、かといって命令なしに扉を開けることもできないのだろう。
理解はできる。
理解できるからといって、待ってやる余裕はない。
「国王陛下!」
俺は広間の奥へ向かって叫んだ。
冠を載せた男は、廷臣たちに囲まれて立ち尽くしていた。彼だけが臆病なわけではない。何十年も、自分が命令を下すまで誰も動かない環境にいたのだ。突然、床が崩れるから自分で走れと言われても、体が動かないのだろう。
「扉を開ける許可をください!」
「陛下に向かって、なんという口の利き方だ!」
太った貴族が声を荒らげた。
「では、あなたが丁寧に聞いてください。あと何分かかります?」
「勇者殿、まずは落ち着かれよ!」
赤い法衣の老人が杖を掲げた。
「王城には幾重もの防護術式が施されております。この程度の揺れで崩れるような――」
「その防護術式とやらは、さっきの吊り燭台も守っていましたか?」
「あれは老朽化による、ささいな事故であろう」
「大きな事故の前には、ささいな事故が続きます。全部別の原因だと片づけた人が、あとで必ず『こんなことになるとは思わなかった』と言うんです」
「異世界の知識で、我が王城を侮辱するつもりか!」
「建物に国籍はありません。支えを失えば落ちる。どこの世界でも同じです」
「もういい」
静かな声で会話を止めたのは、アルフレッドだった。
彼は階段の手すりへ片手を置き、床の傾きを確かめるように足元を見ている。俺を信用したわけではなさそうだが、この男は少なくとも、自分の目で起きていることを認める程度には現実的だった。
「陛下。広間からの一時退避を進言いたします。勇者召喚の儀を中断したとなれば外聞は悪いですが、ここで事故が起これば、それどころではありません」
「アルフレッドまで、この者の妄言を信じるのか」
「信じてはおりません。ただ、退避に要するのは数分です。この者が間違っていれば、臆病な異界人を笑って終わる。正しかった場合は、我々が生きて終われます」
国王はしばらく黙った後、渋々とうなずいた。
「扉を開けよ。余が先に退く」
兵士が鍵を差し込み、重い扉を開く。
しかし、王族と貴族が我先に出口へ殺到したため、今度は扉の前で人が詰まった。
「押すな! 陛下を先にお通ししろ!」
「私の娘が向こうにいるのだ!」
「伯爵、割り込まれては困ります!」
「おまえこそ、先ほどから余の裾を踏んでいるではないか!」
魔王を倒すために異世界人を召喚した国の重鎮たちが、自分の衣装の裾を踏んだ踏まないで怒鳴り合っていた。
笑いたくなる光景ではない。
事故現場では、人間は普段隠しているものを隠せなくなる。勇敢な者が怯え、穏やかな者が他人を押しのける。反対に、いつも文句ばかり言う者が、見ず知らずの人間を助けることもある。
「押さないでください! 扉は逃げません!」
先ほど俺が助けた侍女が、負傷した手を胸元へ押し当てながら叫んだ。
「お年を召した方と、怪我をしている方を先に! 男性は壁沿いに並んでください!」
「侍女風情が、誰に命令している!」
「でしたら、ご自分で列を作ってください! 私だって、こんなことを言いたくて言っているのではありません!」
怒鳴り返した侍女は、自分でも驚いたように口を押さえた。
太った貴族は顔を赤くしたものの、周囲の視線に気づいて黙った。
「名前は?」
俺が尋ねると、侍女はまだ口元を押さえたまま、目を瞬いた。
「え?」
「あなたの名前です」
「マ、マルタです」
「マルタさん。出口は任せます。怪我をした人を集めて、人数を数えてください」
「わたくしが、ですか?」
「ほかにできそうな人がいません」
「それは褒めていらっしゃるのでしょうか」
「かなり褒めています」
「そうは聞こえません」
「よく言われます」
マルタは俺をじっと見たあと、小さく息を吐いた。
「分かりました。ただし、後で先ほどの言い方についてはお話があります」
「覚えていれば聞きます」
「絶対に覚えていてください」
彼女が声を張り上げ、侍女や使用人たちをまとめ始める。
その頃には、広間の中央にできた亀裂が指二本ほどの幅へ広がっていた。亀裂の奥から、冷たい風が吹き上がってくる。
床下に小さな空洞がある程度ではない。相当深い。
「黒部さん、こっちも手伝ってください!」
真田が呼んだ。
滝沢の結界が水晶の重さに耐えきれず、細かく震えている。真田と制服姿の少女が、水晶の横で右往左往していた。
「それを守る必要はありません。結界を人の上へ移してください」
「でも、急に消したら水晶が割れますよ!」
「割れていいです」
「王国の大事な物なんですよね?」
「あなたは異世界へ無理やり連れてこられた初日に、誘拐犯の家具を心配するんですか?」
「家具っていう値段じゃなさそうですけど!」
「なおさら弁償する必要はありません。倒れたのは、台を直さなかった兵士の責任です」
「聞こえているぞ、異界人!」
兵士の怒声が飛んできた。
「聞こえるように言いました!」
滝沢が半泣きの顔で結界を解除した。
水晶が床へ落ち、鈍い音を立てて割れる。灰色の光が広がり、床の亀裂へ吸い込まれていった。
その直後、俺の左足の下にあった石板が沈んだ。
体が傾き、咄嗟に手をつく。石板の角が欠け、鋭い断面が掌へ触れた。
熱くもないのに、頭の奥が焼けた。
見えている広間の上へ、別の光景が重なる。
暗い地下。巨大な石の柱。表面を走る細かな亀裂。何十年分もの水が染み込み、内部を少しずつ脆くしている。
その柱の根元を、誰かが削っていた。
紫色に輝く鉱石を取り出すため、支えに必要な厚みを無視して穴を広げている。補強材が入れられるが、本来の物より細い。書類の数字だけは辻褄が合うよう、表面に別の刻印が打ち直されていた。
映像ではない。
音、圧力、熱、削られた石の感触が、ばらばらに頭へ流れ込んでくる。事故現場に残った何百という証拠を、無理やり一度に見せられているようだった。
「黒部さん?」
真田の声が遠い。
床の下で一本目の柱が折れ、荷重が隣の柱へ移る。
二本目が耐える。
三本目へ流れる。
だが、三本目の根元にも同じ紫色の採掘痕がある。
偶然ではない。
老朽化だけでもない。
誰かが、地下迷宮の支柱を削っている。
「黒部さん、聞こえますか!」
肩を揺さぶられ、視界が現実へ戻った。
真田が俺の顔をのぞき込んでいる。その後ろでは、制服姿の少女が不安そうに両手を握っていた。
「顔色、すごく悪いですよ。岸本さん、回復魔法って使えます?」
「私、大魔導です。回復は白石さんのほうです!」
「どっちでもいいから、何とかして!」
「本人の前で、どっちでもいいは失礼じゃないですか?」
「喧嘩はあとにしてください」
俺は真田の腕を借りて立ち上がった。
吐き気がする。こめかみの奥で心臓が動いているように痛み、足元も頼りない。
だが、分かった。
《事故鑑定》は、壊れた理由を言葉で教えてくれる能力ではない。残された破損の中へ、俺自身が放り込まれる能力だ。
「中央から離れてください。訂正します。さっき言った位置も安全ではありません」
「訂正って、じゃあどこへ行けばいいんです?」
「西側の通路です。あそこだけ基礎が別になっている。扉を抜けて、階段を上がってください」
「別の基礎って、どうして分かるんですか」
「見えました」
「何が?」
「この床が壊れた原因です」
真田が言葉を失った。
俺はアルフレッドを振り返る。
「地下迷宮で支柱を削っています。紫色の鉱石を採掘しているはずです。補強材も規定より細い。いま一本目が折れ、荷重が隣へ移った。連鎖崩壊が始まっています」
広間に残っていた者たちが静まり返った。
アルフレッドの表情は変わらない。
だが、赤い法衣の老人は、はっきりと目をそらした。
それを見逃すほど、俺は人間の顔に疎くない。
「何のことか、分かっていますね」
「し、知らぬ。地下迷宮の採掘は王立迷宮管理局の管轄だ。私が知るはずもない」
「俺は紫色の鉱石としか言っていません。採掘していることは否定しないんですね」
「言葉尻を捉えるな!」
「あとで、ゆっくり聞きます」
「貴様、自分が誰と話しているのか――」
広間の中央が落ちた。
今度はゆっくりではなかった。
石床が巨大な皿のように割れ、台座も、椅子も、割れた水晶も、まとめて暗い穴へ飲み込まれていく。
滝沢が結界を張り、飛んできた石片から人々を守った。真田は腰を抜かした岸本を抱え、俺はマルタと一緒に動けない老人を引きずった。
ほんの十秒ほどの出来事だった。
崩落が止まったとき、さっきまで儀式を行っていた広間の半分が消えていた。
ぽっかりと開いた穴から、粉塵が噴き上がる。
その奥に、何層もの通路と、崩れた階段が見えた。
「地下迷宮……」
真田が呟く。
遠くから、人の声がした。
「助けてくれ!」
「上に誰かいるのか!」
「怪我人がいる! 頼む、返事をしてくれ!」
一人や二人ではない。
暗闇の中から、いくつもの叫び声が重なって聞こえる。
「救助隊を編成しろ!」
鎧姿の男が穴の縁へ走った。四十代半ば、ほかの兵士より簡素な鎧を着ているが、周囲がすぐ指示に従ったところを見ると、現場の指揮官なのだろう。
「縄と灯りを持ってこい! 動ける者は俺に続け!」
「待ってください」
俺は男の前へ出た。
「退け。下に部下がいる」
「まだ入ってはいけません」
「聞こえなかったのか。生存者がいるんだぞ」
「聞こえています。だから止めています」
男が俺の胸ぐらをつかんだ。
「下にいるのは、朝まで酒を飲んで寝坊する馬鹿や、賭け事で給料を全部なくす間抜けや、国へ残した子どもの話ばかりする連中だ。俺はそいつらの名前を知っている。おまえにとっては地下の人数かもしれんが、俺にとっては部下だ」
「俺にも、数字にするつもりはありません」
「なら、そこをどけ!」
「いま入れば、あなたも部下も死にます」
「それを決めるのはおまえじゃない!」
男の拳が震えていた。
怒っているだけではない。怖いのだ。自分だけ安全な場所にいて、部下を地下へ置き去りにしていることが怖くて、立っていられないのだろう。
若い女性――《神癒》を授かった白石が、俺たちの間へ入った。
「黒部さん、治療が必要な人がいるなら、私も行きます。まだ魔法の使い方は分かりませんけど、さっき怪我をした侍女さんの傷は治せました。何かできるかもしれない」
「行かせません」
「どうしてですか」
「二次崩落が来ます」
「来るかもしれない、ですよね?」
「来ます」
「でも、その間に亡くなる人がいるかもしれない。黒部さんは、それを中にいる人の家族へ言えるんですか? 助けられたかもしれないけれど、危なかったから待ちましたって」
「言います」
白石が息を詰まらせた。
「俺の仕事は、亡くなった人の家族から嫌われながら、同じ死に方をする人間を減らすことでした。待つべきだったと分かったなら、俺は待てと言います。相手が泣いていても、殴ってきても、言わなければならない」
「ずいぶん立派なお仕事ですね」
「立派ではありません。遺族へ正しい説明をして、自分だけ納得して帰る最低の仕事だと思ったこともあります」
「だったら――」
「それでも、救助する側を死なせていい理由にはならない」
白石は唇を噛んだ。
納得してはいない。納得できるはずもない。
それでいい。
感情まで従わせる必要はない。いま必要なのは、足を止めてもらうことだ。
穴の底から、再び助けを求める声が響いた。
鎧の男が俺の胸ぐらから手を離し、代わりに剣の柄へ手をかける。
「俺は行く。邪魔をするなら斬る」
「俺を斬ったあとで、三分だけ待ってください」
「三分?」
「地下の二本目の支柱が、もう限界です。あれが折れれば、東側の通路が全部落ちる。救助隊を入れるのは、そのあとです」
「なぜ三分だと分かる」
「音の間隔が短くなっています。正確には二分から四分。三分待って何も起きなければ、俺も一緒に入ります」
「戦えもしないおまえが?」
「救助は戦闘ではありません。俺の仕事です」
男は剣の柄を握ったまま、俺をにらみ続けた。
やがて吐き捨てる。
「ガレンだ。王国地下迷宮守備隊長、ガレン・ロッソ。三分待って何も起きなければ、嫌だと言っても連れていくからな」
「黒部修司です。その条件で構いません」
「三分のせいで部下が死んだら、俺はおまえを一生許さん」
「生きて帰れたら、好きなだけ恨んでください」
ガレンは返事をしなかった。
俺たちは穴の前に立ち、暗闇から聞こえる救助の声を聞きながら待った。
一分が過ぎた。
白石が何度も穴のほうを見た。
二分が過ぎる頃には、兵士の一人が堪えきれず泣き始めた。
その兵士を、誰も責めなかった。
そして二分四十秒後。
地下深くから、巨大な柱が裂ける音が響いた。
東側の通路が一気に崩れ、さっきガレンたちが降りようとしていた階段を、何千トンもの岩が押し潰した。
粉塵と熱風が穴から噴き上がり、全員が顔を伏せる。
もし救助隊が入っていれば、一人も戻れなかっただろう。
静寂の中、ガレンが低い声で尋ねた。
「……次は、いつ落ちる」
俺は床の亀裂へ手を触れた。
頭の奥へ、再び無数の破損が流れ込んでくる。
一本ではない。
地下迷宮を支える柱の半数近くが、同じように削られている。
これは老朽化ではない。
採掘事故ですらない。
誰かが、崩れると分かっていて続けた結果だ。
「まず地下の図面を全部出してください。採掘記録と、補強工事の記録もです」
「それがあれば、助けられるのか」
「分かりません」
俺は嘘をつかなかった。
「ですが、何も知らずに入るより、生きて戻れる可能性は上がります」
ガレンは苦いものを飲み込むような顔をしたあと、部下へ向き直った。
「聞いたな! 図面、縄、角材、灯り、使えそうな物は全部ここへ持ってこい! 走れ! それと誰か、この男に水を飲ませろ。ひどい顔をしている!」
「顔は元からです」
「そういう意味ではない!」
怒鳴り声とともに、兵士たちが動き始める。
俺は崩れた地下を見下ろした。
暗闇の中には、まだ助けを求める声がある。
だが、それより深い場所から、別の音が聞こえていた。
ゆっくりと、確実に、次の支柱がひび割れていく音だった。




