第1話 勇者召喚の余りもの
最初に聞こえたのは、女神の声ではなかった。
荷重に負けかけた金属が発する、あの嫌な鳴き声だった。
高く、細く、耳の奥を引っかくような音。一般の人間なら風か、せいぜい古い建物の軋みだと思うだろう。だが、二十年近く事故現場を歩いてきた俺にとって、それは悲鳴と同じだった。
「そこの人、動いてください」
口が勝手に動いた。
俺の三メートルほど先で、白い服を着た少女が目を丸くする。年齢は十五、六歳くらいだろうか。両手で銀盆を抱え、何を言われたのか分からないという顔をしていた。
「え……?」
「そこから離れて。右でも左でもいい。早く」
「ですが、勇者様のお召し物を――」
「いいから!」
怒鳴った直後、少女の真上で金具が弾けた。
豪華な吊り燭台が大きく傾き、何十本もの蝋燭と、装飾用のガラス片を撒き散らしながら落ちてくる。少女の腕をつかんで引き寄せた俺の肩を、銀盆が派手に叩いた。
「痛っ……」
「きゃあああっ!」
少女が叫ぶのと、吊り燭台が床へ激突するのはほぼ同時だった。
白い石床に亀裂が走り、消えかけの蝋燭が絨毯の上を転がる。周囲に立っていた兵士たちが一斉に剣を抜いたが、剣を抜いたところで落ちた燭台は逮捕できない。
「火を消してください。水をかけると油が広がるかもしれない。絨毯を巻いて、空気を遮断するんです」
俺が言うと、兵士たちは互いの顔を見た。
誰も動かない。
代わりに、赤い法衣を着た老人が杖を振った。淡い光が走り、絨毯に燃え移りかけていた炎が一瞬で消える。
「勇者殿、もう案ずる必要はございません。火は消えましたぞ」
「……そうですか」
便利だな、魔法。
そう思ったが、それ以上に気になったのは老人の言い方だった。
勇者殿。
俺に向けられた言葉ではないらしい。老人の視線は、俺の後ろに集まる四人の若者へ注がれていた。
「黒部さん、大丈夫ですか?」
大学生くらいの青年が、座り込んだ俺に手を差し出した。確か、真田蓮と名乗っていた男だ。背が高く、短く刈った髪と日に焼けた肌が、いかにも運動部らしい。
「ああ。肩をぶつけただけです」
「いや、すごいっすね。どうして落ちるって分かったんです?」
「音がしていました。吊り金具が変形するときの音です」
「音って……俺、何も聞こえませんでしたけど」
「聞こうと思っていなければ、聞こえない音もあります」
答えてから、自分で嫌なことを言ったと思った。
元妻にも似たようなことを言われたことがある。
あなたは事故の音なら何キロ先からでも聞きつけるくせに、娘が隣で泣いていても気づかないのね。
離婚届を前にした晩の言葉だ。反論できなかったから、十二年経った今でもよく覚えている。
「勇者様、本当に申し訳ございません!」
助けた少女が床へ額をつけようとしたので、慌てて腕をつかんだ。
「やめてください。落としたのはあなたじゃないでしょう」
「ですが、わたくしが勇者様のお体に銀盆を……」
「それで吊り燭台が落ちなくなるなら、好きなだけ謝ってください。ならないでしょう?」
「それは……なりませんけれど……」
「だったら、今は怪我がないか確かめるほうが先です。手を見せてください」
少女の指先には、細い切り傷があった。落ちてきたガラス片が当たったらしい。俺が傷を見ていると、先ほどの赤い法衣の老人がわざとらしく咳払いをした。
「勇者殿。侍女の治療は我らにお任せを。まずは状況をご説明いたしましょう」
「ですから、俺は勇者では――」
「皆様は、我がエルグラン王国を救うため、異界より召喚された勇者様方でございます」
老人は俺の言葉をきれいに無視した。
改めて周囲を見渡す。
窓のない巨大な石造りの広間。壁には見たことのない文字が刻まれ、甲冑姿の兵士が二十人ほど並んでいる。正面の階段上には、金色の冠を載せた初老の男と、華美な衣装に身を包んだ貴族たちがいた。
俺の最後の記憶は、品川にある事務所だった。
終電間際、脱線事故の資料を一人で読み直していた。冷めた缶コーヒーを口に入れたところで、床に巨大な光の輪が浮かんだ。
そして今、俺は見知らぬ若者四人とともに、どう考えても日本ではない場所に立っている。
夢にしては肩が痛い。
「異世界召喚って、本当にあるんだ……」
制服姿の少女が、青ざめた顔で呟いた。
「帰れるんですよね?」
もう一人の若い女性が、法衣の老人へ詰め寄る。彼女は震えていたが、泣くまいと奥歯を噛みしめているのが分かった。
「もちろんでございます。ただし、魔王を倒し、失われた召還陣を取り戻していただけましたら――」
「それ、倒すまで帰れないってことじゃないですか」
女性が声を荒らげた。
老人は困ったように微笑む。
「言葉の解釈としては、そのようになりますな」
「笑うところじゃないでしょう!」
「ちょっと待ってください」
真田が二人の間へ入った。老人をかばいたいわけではなく、このままでは話が進まないと思ったのだろう。
「俺たちに何ができるのか、先に聞かせてもらえませんか。勇者って言われても、俺は大学でラグビーをやってるだけだし、剣なんて触ったこともないんで」
「ご安心ください。異界より招かれた皆様には、神より特別な恩寵が授けられております」
老人が手を叩くと、兵士たちが人の頭ほどもある透明な水晶を運んできた。
俺はその運び方を見て、思わず眉を寄せる。三人がかりで抱えているくせに、誰も足元を確認していない。そのうえ、水晶を置く台の右脚がわずかに浮いていた。
「その台、水平が出ていませんよ」
「はい?」
「右手前の脚です。何か噛ませたほうがいい。水晶が重いなら、倒れたときに人が巻き込まれます」
兵士が露骨に面倒そうな顔をした。
「この台は、代々勇者様の恩寵を測ってきた由緒ある祭具だ」
「由緒と安定性は関係ありません。古ければ、むしろ確認が必要でしょう」
「先ほどの燭台は、たまたまだ。王城の備品に難癖をつけるのは控えられよ」
「落ちた物を見た直後によく言えますね」
「黒部さん」
真田が小声で呼び、俺の袖を引いた。
「気持ちは分かりますけど、今はちょっと抑えません? 俺たち、完全にアウェーですし」
「アウェーでも、倒れる台は倒れます」
「そうなんでしょうけど。正しいことを全部そのまま言うと、話がこじれるっていうか……黒部さん、職場でもそういう感じだったんじゃないですか?」
「どういう感じですか」
「いえ。もういいです」
会ってから十分も経っていない若者に呆れられた。
否定できないのが腹立たしい。
兵士は結局、台を直さなかった。せめて倒れた先に人が立たないよう、俺は少し横へ移動する。
最初に水晶へ触れた真田の体から、眩しい金色の光が噴き上がった。
「おお……! 《聖剣の勇者》! 歴代でも三人しか現れなかった、最高位の恩寵でございます!」
広間が歓声に包まれる。
真田は困ったように笑いながら、自分の掌を眺めていた。
「本当に、俺が……?」
「蓮君、すごい!」
制服の少女が声を弾ませる。
次に触れた彼女には《大魔導》、もう一人の女性には《神癒》、眼鏡をかけた青年には《絶対結界》が現れた。どれも名前を聞いただけで強そうだった。
貴族たちは立ち上がり、次々と祝福の言葉を投げかける。
俺だけが最後に残った。
四十一歳の中年男が、十代や二十代の若者たちに混じって「さあ、あなたの特別な力は」と期待されるのは、なかなかきついものがある。
「黒部さんも、たぶんすごいのが出ますよ」
真田が励ましてくれた。
「年齢は関係ないみたいですし」
「いま、かなり年齢を気にさせる励まし方をしましたよ」
「あ、すみません。俺、そういうつもりじゃ」
「分かっています。謝らなくていい」
ひとつ息を吐き、俺は水晶へ手を置いた。
淡い灰色の光が、申し訳程度に灯った。
老人が水晶へ顔を近づける。何度か目を瞬かせ、やがて読み間違いではないと諦めたように告げた。
「黒部修司殿。恩寵は……《事故鑑定》」
先ほどまで沸いていた広間が、嘘のように静まり返った。
「事故……鑑定?」
真田が首をかしげる。
老人は水晶に浮かぶ文字を読み上げた。
「破損した物体へ触れることで、その破損に至った原因の一部を知ることができる……とのことです」
「それだけですか?」
「それだけのようですな」
どこかで、貴族の男が吹き出した。
「壊れた後に、なぜ壊れたか分かるのか。ずいぶんと役に立つ勇者だ」
「事故が起きる前ならともかく、終わった後ではな」
「勇者というより、修理屋ではないか?」
笑いが広がった。
俺は不思議と腹が立たなかった。
聞き慣れているからだ。
事故が起きた後に調べて、何の意味がある。
死んだ人間は帰ってこない。
原因が分かったところで、責任の押しつけ合いになるだけだ。
日本でも、何度も言われた。
「気にしないでください、黒部さん」
真田が気まずそうに言った。
「俺、黒部さんの力、役に立つと思います。さっきの燭台だって――」
「慰めなくていいですよ。向いている力が来たと思っています」
「向いている?」
「ええ。壊れた後にしか見えない男には、ちょうどいい」
自分で言ってから、少しだけ笑った。
元妻が聞けば、嫌な顔をするだろう。
そのときだった。
足の裏へ、ごく小さな振動が伝わってきた。
周囲の人間は誰も気づいていない。勇者たちの能力を称え、どの騎士団へ配属するか、誰が教育係を務めるかで盛り上がっている。
だが、俺は黙って床へ膝をついた。
「黒部さん?」
「静かに」
石床へ耳を近づける。
低い音がしていた。
地鳴りではない。一定の間隔で、金属と岩が擦れている。ひとつの場所ではなく、かなり広い範囲で、複数の支柱か梁が順番に荷重を受け始めている音だった。
しかも、少しずつ間隔が短くなっている。
「この城の地下には、何がありますか」
俺が尋ねると、赤い法衣の老人は不愉快そうに眉を寄せた。
「何を突然――」
「地下室ですか。鉱山ですか。それとも、大きな空洞がある?」
「王都地下迷宮がございます。国の重要施設ゆえ、勇者殿といえど詳しいことは申せません」
「深さは」
「ですから、機密です」
「いま機密を守っている場合じゃない。地下で何かが変形しています。この広間の真下か、そう遠くない場所です」
兵士たちが、またかという顔をした。
さっきの吊り燭台を見ても、俺の言葉を聞く気にはならないらしい。人間は一度「偶然だった」と決めると、その判断を変えるために余計な力を使いたがらない。
階段上にいた細身の貴族が、そこで初めて口を開いた。
ほかの者が笑っている間も、一人だけ笑わずに俺を観察していた男だ。
「事故鑑定とやらは、壊れる前の物も分かるのか?」
「いいえ。まだ能力の使い方も分かりません。これは俺の経験です」
「ならば、勇者の歓迎を妨げるほどの根拠ではないな」
「根拠が揃う頃には、事故は起きています」
「不安を煽って混乱を招く人間は、どの世界でも厄介だ。アルフレッド・ヴェインの名において命じる。下がりたまえ」
俺は男の顔を見上げた。
整った顔立ちに、温度のない青い目。こちらの話を理解できないのではない。理解したうえで、場を乱す不利益のほうを重く見ている目だった。
「分かりました」
立ち上がり、衣服についた埃を払う。
意外だったらしく、アルフレッドがわずかに眉を動かした。
「聞き分けはあるようだな」
「ええ。ただし、下がるのは俺だけではありません。全員、中央の床から離れてください。壁際も駄目です。柱と柱の中間へ移動して、頭を守る物を持ってください」
「貴様――」
兵士が俺の腕をつかもうとした。
その瞬間、床の下から、巨大な鐘を地中へ埋めて叩いたような音が響いた。
水晶を載せた台が、大きく揺れる。
右手前の脚が浮き、透明な水晶がゆっくりと傾き始めた。
俺は兵士の腕を振り払い、叫んだ。
「水晶から離れろ! それから扉を開けろ! 全員、この広間から――」
言い終わる前に、床の下で何かが折れた。




