第16話 壊れた鍵が、俺を管理人と呼んだ
管理所の排除設備が再起動するまで、残り四時間。
そのうち一時間近くを、俺たちは準備に使った。
「本当に、これを全部持っていくの?」
管理所の前庭で、リゼットが地面へ並べた荷物を見ていた。
水筒、毛布、縄、火打ち石、手灯り、白墨、短刀、携帯食、布切れ、木の楔、金槌、それから細長い鉄棒。迷宮探索というより、建物の点検作業へ行くような装備だった。
「黒門の中がどうなっているか分かりません。最低限です」
「私の最低限は、弓と短剣と水よ」
「矢は何本ありますか」
「二十一本」
「さっき十九本でした」
「二本は信号矢。魔物へ撃つものじゃない」
「最初から分けて言ってください」
「あなたに在庫を管理される筋合いはないわ」
「中で不足してから言われても増やせません」
リゼットは面倒そうに矢筒を外し、一本ずつ数え直した。
「……通常矢が十八本、信号矢が二本。一本足りない」
「昨日、寝室の寝台を動かすときに使っていませんか」
「使ったのは縄だけよ。矢は――あ」
彼女は外套の内側から一本取り出した。
「ここに挟んでいた」
「十八本で合っています」
「そんなに満足そうな顔をしないで。腹が立つから」
「表情は変えていません」
「変わらないから余計に腹が立つのよ」
リゼットは赤い羽根のついた信号矢を弓へつがえ、管理所から離れた空へ放った。
矢は岩山の上で赤い光を放ち、三度明滅して消えた。
「守備隊へ送ったのは、危険あり、接近禁止の信号よ。助けを求める信号じゃないのかと思っているでしょう」
「守備隊の詰所まで、どのくらいですか」
「徒歩で半日。馬でも二時間はかかる。今から助けを呼んでも、排除設備の再起動には間に合わない。それに人が増えれば、侵入者として殺される人数が増えるだけかもしれない」
「なら、正しい判断です」
「ずいぶん素直ね」
「何でも反対すると思われていたんですか」
「自分以外の判断を信用しない人だと思っていた」
「信用するために、理由を確認しています」
「そういうところを言ってるの」
リゼットは荷物を二つに分け、自分の背負い袋へ縄と水を入れた。
「ここからなら、あなた一人で行けますか」
「道案内がいないので時間はかかるでしょう。ただ、あなたが残る義務はありません。管理所の敷地から離れれば、排除対象から外れる可能性があります」
「私に逃げろと言っているの?」
「選べると言っています」
「残ってほしいとは言わないわけ?」
「言えば、残るんですか」
「そういう聞き方をされると、残りたくなくなる」
「では、言いません」
「本当に面倒ね、あなた」
リゼットは背負い袋の紐を強く締めた。
「残るわ。前の事故報告に署名した責任もあるし、あなた一人で入って迷ったら、また王都から九人目が送られてくる。知らない罪人を一から説明するより、あなたを生かす方が楽だから」
「合理的です」
「少しくらい感謝しなさい」
「ありがとうございます」
「言われてから言うと、価値が半分になるのよ」
人間の感謝には、随分と細かな条件があるらしい。
*
迷宮の黒門は、高さが十メートル以上あった。
金属とも石とも判別できない黒い材質で作られ、表面には無数の尖塔の刻印が並んでいる。中央の合わせ目には隙間がなく、蝶番も取っ手も見当たらない。
「鍵穴はどこ?」
「まだ分かりません」
「鍵を渡しておきながら、鍵穴の場所も書いていなかったの?」
「管理記録は十三ページしかありませんでした。うち九ページが王国への忠誠を求める文章で、設備について書かれていたのは二ページです」
「残り二ページは?」
「管理人が任務中に死亡しても王国へ補償を求めないという同意書です」
「役に立たないものだけ、よく残っているのね」
リゼットが扉の右側を調べ、俺は左側を確認した。
黒い表面には、傷一つない。だが足元から二メートルほどの位置に、一か所だけ刻印の形が違う場所があった。
尖塔ではなく、横向きの鍵を思わせる細長い窪みになっている。
「ここです」
「高すぎない?」
「鍵を持つ人間の身長を考えていない設計ですね」
「あなたを殺そうとした管理所を作った連中よ。使う人間のことを考えていると思う?」
リゼットが壁際へ片膝をついた。
「乗って」
「何にですか」
「肩。届かないでしょう」
「鉄棒で押せます」
「鍵を落としたらどうするの。いいから早くして。あと三時間しかないのよ」
「靴が汚れています」
「私の外套はもっと汚れてる。気にするところが違うでしょう!」
他に方法を考えている時間もない。
俺が片足を肩へ掛けると、リゼットが立ち上がった。
「重い!」
「先に言ったはずです」
「何を?」
「小柄なあなたが先に縦穴へ入る理由を」
「あれは身体が引っかかるかどうかの話でしょう! この状況で持ち出さないで!」
どうにか窪みへ鍵を差し込む。
折れた鍵は奥まで入らず、途中で止まった。
反応はない。
「回らないんですか」
「先端がないので、内部の機構まで届いていません」
「それじゃあ、本当にただの壊れた鉄じゃない」
俺は鍵を抜こうとした。
その瞬間、窪みの内側から黒い針が伸び、鍵の断面へ触れた。
扉全体に刻まれた尖塔が、一斉に青白く光る。
『管理鍵断片を確認』
『登録情報――破損』
『正規管理者の照合不能』
低い声が、頭の中へ直接響いた。
リゼットが身体を揺らす。
「ちょっと、動かないで!」
「声が聞こえました」
「私にも聞こえてる! あと、あなたは今、私の肩の上にいるの!」
慌てて降りると、黒門の中央から重い音がした。
左右の扉が、指二本分ほど開いていく。
冷たい空気が細い隙間から流れ出した。
『管理鍵回収経路を、限定開放します』
『開放時間――百八十秒』
「三分だけ入れるということ?」
「戻る時間も含まれている可能性があります」
「それを先に言って!」
リゼットが隙間へ身体を滑り込ませる。
俺も荷物を背負い、後に続いた。
門の向こう側には、真っ直ぐな通路が延びていた。
壁も床も黒い石で作られ、一定間隔で柱が並んでいる。魔法灯らしい透明な球体が天井から吊られているが、ほとんどは割れていた。
手灯りを掲げても、通路の先は暗闇に沈んでいる。
「閉まる!」
背後で門が動き始めた。
リゼットが振り返ったが、既に人が通れる幅はない。巨大な黒門は、外の雪と管理所を隠すように閉じた。
「帰り道がなくなったわ」
「管理鍵を回収すれば、開けられるはずです」
「開けられなかったら?」
「排除設備が再起動する心配はなくなります。俺たちが管理所にいないので」
「迷宮の中で死ぬなら、確かに管理所では死なないわね。気休めとしては最低よ」
リゼットは弓を構え、通路の先へ視線を向けた。
床には、古い足跡が残っている。
少なくとも三人分。奥へ向かう跡はあるが、黒門へ戻ってきた跡はなかった。
「行方不明になった管理人たちでしょうか」
「可能性はある。でも、足跡が妙ね」
「途中から歩幅が狭くなっています。右側の壁を避けている」
「気づいた?」
「何にですか」
リゼットは手灯りを低く構え、右壁を照らした。
黒い柱と柱の間に、細い縦線が走っている。扉のようにも見えるが、取っ手はない。
「壁から空気が流れている。何かいるか、別の通路がある」
俺は岸本からもらった布を取り出し、短刀の先へ結んだ。
床へ近づけると、布は右壁ではなく、左側の排水溝へ向かって揺れた。
「右壁から風は出ていません」
「でも、肌には感じる」
「地下ではありませんか」
リゼットが怪訝そうに俺を見る。
「何が?」
「壁から風が来ると思い込ませる術です。前の《喚声獣》は声と姿を偽りました。ここに似た仕組みがあっても不思議ではない」
「布は騙されない?」
「少なくとも、人間よりは」
「あなたがその布を大事にする理由が、少し分かったわ」
リゼットは白墨を取り出し、左壁へ印をつけた。
「足跡だけを追うのはやめましょう。前の管理人たちは、壁の風を避けて歩いた結果、同じ場所へ誘導されたのかもしれない」
通路の中央には、埃の積もっていない床石が一枚あった。
古い足跡は、全員その上を踏んでいる。
「避けてください」
床石へ手灯りを近づけると、表面に何本もの細い傷が見えた。人間の靴がつけたものではない。石そのものが上下へ動き、周囲と擦れた跡だった。
俺たちは壁際の排水溝へ足を置き、一人ずつ通過した。
リゼットが矢の先で床石を押す。
床石が沈み、右側の壁が音もなく開いた。
中から出てきたのは魔物ではなかった。
太い金属腕が通路を横切り、床石の上にいるはずの人間を壁の穴へ押し込む仕掛けだった。
「前の三人が戻らなかった理由、分かったかもしれない」
リゼットは壁の穴を覗き込んだ。
底は見えなかった。
「事故に見せる必要すらない場所です。管理所では死体を発見させる必要があった。迷宮内なら消してしまえばいい」
「王都は、ここに入れば人間が消えると知っていたのかしら」
「知らなかった可能性もあります」
「それを聞くと安心すると思う?」
「いいえ。七人を送り続けて知らなかったなら、別の問題です」
通路の先には、円形の部屋があった。
中央に黒い台座があり、その周囲を壊れた計器と金属管が取り囲んでいる。台座の上には、鍵の先端部分らしい黒い金属片が突き刺さっていた。
俺の胸元で、折れた鍵が熱を持つ。
『管理鍵断片を確認』
『接続してください』
「簡単に触っていいと思う?」
リゼットが尋ねた。
「よくないでしょうね」
「だったら少しは迷いなさい」
「管理所の再起動まで三時間を切っています。ここまで来て、触らずに戻る選択肢はありません」
「戻る扉も閉まっているしね」
俺は壊れた鍵を取り出した。
台座の金属片へ断面を合わせる。
二つの破片が青白い光に包まれ、磁石のように引き寄せられた。だが完全には繋がらない。先端部分が台座の中で固定され、鍵の根元だけが激しく震えている。
『接続不良』
『管理主鍵――中枢部破損』
『認証処理を継続できません』
赤い光が部屋を走った。
周囲の計器が一斉に動き、針が危険域まで振れる。
床下から、管理所で聞いたものと同じ歯車の音が響き始める。
「黒部、何か失敗した?」
「俺に聞かないでください」
「あなた以外に誰が分かるのよ!」
台座の右側に赤い取っ手が現れた。左側には青い輪、足元には三つの踏み板がある。
どれを操作すればいいのか、説明はない。
時間をかけて調べる余裕もなかった。
『不正接続を確認』
『侵入者排除設備を再起動します』
「黒部!」
俺は壊れた台座へ右手を置いた。
《事故鑑定》が発動する。
痛みが来ると思って身構えた。
しかし、見えたのは一つの事故の断片ではなかった。
円形の部屋。
入口通路。
管理所。
その奥へ延びる数百、数千の通路。
歯車、水路、換気管、魔力線、封印扉。
迷宮全体が、巨大な一つの壊れた設備として視界へ流れ込んできた。
管理所の排除機構は、入口区画にある送風機から力を受けている。赤い取っ手を引けば、排除設備への出力は上がる。
青い輪は停止装置ではない。第一層の毒気を外へ排出する緊急弁だ。今開けば、俺たちが立っている部屋へ毒気が流れ込む。
正解は、三つある踏み板の中央だった。
ただし、そのまま踏めば床下の腐食した管が破裂する。
先に右側の細い金属棒を押し込み、圧力を別の管へ逃がす必要がある。
「右壁の細い棒を、半分まで押してください!」
「半分って、どのくらい!」
「黒い線があります!」
「最初からそう言って!」
リゼットが金属棒へ飛びつく。
固着していた棒は簡単には動かない。彼女が両手で押し込み、黒い線まで到達したところで止める。
「次は!」
「中央の踏み板。ただし、乗り続けないでください。踏んだらすぐ離れる!」
「注文が多い!」
リゼットが踏み板を蹴った。
台座の下で圧力が抜け、赤い光が一つずつ消えていく。
『外部管理棟、生活事故偽装型排除設備――停止』
『入口区画、侵入者排除設備――停止』
床の振動が収まった。
俺は台座へ手を置いたまま、膝をついた。
視界の中に、新しい文字が浮かぶ。
『緊急保全技能との適合を確認』
『固有技能《事故鑑定》を、管理補助権能へ接続します』
『《迷宮事故記録》を取得しました』
これまで壊れた物へ触れなければ見えなかった原因が、入口区画に限って常に視界の端へ表示されている。
ひび割れた床。
停止した魔法灯。
詰まった排水溝。
過熱しかけた送風管。
危険の場所と、事故へ至るまでの残り時間まで分かった。
『暫定管理者候補――クロベ・シュウジ』
『管理主鍵の一時接続を確認』
『第十三封鎖迷宮、管理率――一パーセント』
『入口区画の限定管理権限を付与します』
台座から黒い鍵の先端が外れた。
折れていた二つの破片が繋がり、一本の鍵になる。断面には亀裂が残っているが、今度は先端まで揃っていた。
俺が鍵を抜くと、リゼットが隣へしゃがんだ。
「今度は、何が見えたの?」
「迷宮全体が壊れています」
「もう少し、安心できる報告はない?」
「管理所の排除設備は停止しました。入口の黒門も開けられます」
「それを先に言いなさい!」
「ただし、管理率は一パーセントです。操作できるのは入口付近だけです」
「残り九十九パーセントは?」
「何も分かりません」
「さっきより不安になったわ」
台座の上へ、次々に文字が現れる。
『未処理故障――二千四百六十三件』
『封印劣化――九か所』
『換気不能区画――三十一か所』
『所在不明収容対象――二件』
リゼットが途中から読むのをやめた。
「あなた、管理人になったのよね?」
「暫定です」
「管理人になれば安全になると思っていた」
「管理人になったので、今まで知らなかった問題が見えるようになりました」
「知らない方が幸せだったんじゃない?」
「知らなくても壊れます」
「あなたらしい答えね」
入口通路の魔法灯が、弱々しく点灯した。
同時に台座の一部が赤く光り、迷宮の簡略図が浮かび上がる。
『緊急救助要請』
『第一層・毒気区画に生命反応――五』
『換気設備停止』
『推定生存可能時間――五十八分』
俺たちは顔を見合わせた。
「管理人になったばかりよね」
「そうですね」
「まだ管理所で一晩も寝ていない」
「寝室は潰れましたから」
「そういう意味じゃない!」
簡略図の中で、五つの光が一つずつ点滅している。
この迷宮へ入った俺の最初の仕事は、壊れた設備を直すことではなかった。
一時間後には死ぬ、名前も知らない五人を助けることだった。




