第15話 眠っている間に、部屋が潰れる
閉じた扉の向こうで、重い錠が二つ落ちた。
リゼットが短剣を隙間へ差し込んだが、刃先はすぐに止まった。木製に見えた扉の内側へ鉄板が入っており、壁の中から伸びた横棒が左右の石枠へ食い込んでいる。
「下がって。蝶番を壊す」
「待ってください」
「天井が落ちてから待つつもり?」
「蝶番側にも金属棒が入っています。蹴って開けられる構造じゃない」
「それなら窓から出る。二階なら、骨の一本くらいで済むでしょう」
リゼットが窓へ向かう。
だが、窓の外側には厚い鉄製の雨戸が下りていた。先ほどまではなかったものだ。換気設備と連動して、壁の中から滑り落ちてきたらしい。
「本当に、泊まる人間を殺すためだけに作った部屋なのね」
「少なくとも、その機能はあります」
「そんなに冷静に言わないで。腹が立つから」
天井梁が軋んだ。
新しい木材へ交換されているのは、部屋から見える中央部分だけだった。壁の中へ入っている根元は古いままで、しかも半分近く切断されている。換気設備が動くたびに壁の中の金具が引かれ、梁を支えていた鉄の受け板が少しずつ後退していた。
屋根石の荷重が、残った木材へ集中している。
「あと、どのくらい持つの」
「分かりません」
「こういうときは、安心させるために少しくらい長めに言うものじゃない?」
「長くても五分。短ければ一分です」
「聞いた私が悪かった」
リゼットは窓の鉄戸へ短剣を叩きつけた。刃が甲高い音を立てて弾かれる。
「一分で別の出口を探すの?」
「出口は最初からあります」
「どこに?」
「この仕掛けを作った人間が、天井を修理するために使った通路です」
殺人用の仕掛けであっても、作るときには人間が入る。壊れれば修理も必要になる。
完全に閉じた構造は、最初から作れない。
俺は岸本にもらった布の動きを見た。
寝室へ集められた空気は、天井ではなく床へ向かっている。布は寝台の下へ吸い寄せられ、端が床板へ張りついていた。
「寝台の下です」
「隠し通路?」
「換気設備の点検口だと思います。ただし、寝台を動かす必要がある」
「なら二人で持ち上げる」
「床の中央へ乗らないでください」
寝台の脚元へ手灯りを向けると、床板の一部に細い切れ目があった。四本の脚は小さな金属板の上へ置かれている。
「寝台が秤になっています。人が横になると重さが加わり、仕掛けが作動する」
「私が寝なければ、何も起きなかった?」
「俺が一階で寝ていたので、あなたの方を管理人だと判断した可能性があります」
「つまり、あなたの代わりに殺されかけていると」
「そうなります」
「後で高くつくわよ」
「生きて出られたら請求してください」
リゼットは外套から細い縄を取り出し、寝台の頭側へ投げた。輪にした先端を何度か振り、柱へ引っかける。
「これを引けば、床の中央へ乗らずに動かせる。あなたは反対側を押して」
「床板が沈んだら、すぐ壁際へ」
「分かっている。いちいち確認しないで」
「確認を嫌がる人ほど、聞いていないことがあるので」
「あなたが部下に嫌われた理由、もう十個くらい思いついた」
「俺もです」
二人で縄を引く。
寝台は床へ固定されており、最初は動かなかった。リゼットが力を込めると、脚元の金属板が軋み、隠されていた留め具が一つ外れた。
同時に、天井梁が大きく沈む。
石の欠片が寝台へ落ち、掛け布を引き裂いた。
「一分もないんじゃないの!」
「その可能性が高くなりました!」
「もっと早く言いなさい!」
「今分かったんです!」
リゼットが両足を壁へ突き、全体重を縄へ掛けた。寝台が横倒しになり、床板の下から四角い鉄格子が現れる。
俺は壁際を移動し、格子の取っ手を掴んだ。
開かない。
「今度は何!」
「錆びています」
「その報告は要らない!」
ガレンから渡された短刀を隙間へ差し込み、梃子にする。刃が折れそうになるまで力を掛けると、錆が剥がれ、格子が持ち上がった。
下には、人一人がようやく通れる縦穴があった。
「リゼット、先に入ってください」
「あなたが先よ。管理鍵を持っているのはあなたでしょう」
「途中で身体が引っかかれば、後ろにいる人間も逃げられない。小柄なあなたが先に入り、下から引いてください」
「もっと言い方があるでしょう。誰が小柄よ」
「今は身体的な特徴について争っている時間がありません」
「生きて出たら、それも請求に加えるから」
リゼットは短剣を口に咥え、縦穴へ足から入った。
壁には整備用の鉄棒が打ち込まれている。彼女が三メートルほど下りたところで、俺も続いた。
頭上で梁が裂けた。
「来る!」
リゼットが叫ぶ。
俺が鉄格子を閉じるより先に、寝室の天井が崩れた。
屋根石が寝台を押し潰し、床板を突き破る。縦穴へ石と木片が降り注ぎ、肩に衝撃が走った。
足元の鉄棒が抜ける。
身体が落ちた。
「黒部!」
リゼットが俺の右手を掴んだ。
痺れの残る腕へ全体重がかかり、視界が白くなる。
「左手を……掴んでください」
「届かない!」
「右は、長く持ちません」
「分かってるわよ! でも今離したら、あなたが落ちるでしょう!」
彼女は縦穴の壁へ膝を押しつけ、片手で俺を支えながら、もう一方の手を伸ばした。
上から新たな石が落ちてくる。
「手を離してください。下まで四メートル程度です」
「四メートル落ちれば、運が悪いと死ぬ!」
「ここに残っても死にます」
「あなたは、すぐ自分を切り捨てる計算をするのをやめなさい!」
「合理的に――」
「合理的なら、助けられる人間を勝手に諦めるな!」
怒鳴りながら、リゼットは俺の袖を歯で咥えた。
身体を捻り、ようやく俺の左手首を掴む。二人で壁際の鉄棒へ腕を掛け、落下を止めた。
直後、抜けた鉄格子へ屋根石が落ち、入口を完全に塞いだ。
暗闇の中で、互いの荒い呼吸だけが聞こえる。
「……右手は」
「痛みはあります。動きます」
「ごめんなさい。咄嗟にそっちを掴んだ」
「助けてもらったので、謝る必要はありません」
「それなら、ありがとうくらい言いなさい」
「まだ脱出していません」
「本当に、腹の立つ男ね」
下へ続く縦穴は狭く、油と埃の臭いがした。
リゼットが先に進み、俺も後を追う。途中から垂直だった穴が斜めになり、やがて地下室の天井裏へ出た。
出口の板を押すと、腐った木材が外れた。
二人で地下室へ転がり落ちる。
背後では、二階の寝室が崩れ続けていた。
「これで終わり?」
床へ座り込んだリゼットが尋ねた。
「まだ設備が動いています」
地下室の奥で、巨大な歯車が回っていた。
外で見た手回し輪は、迷宮から伸びる金属管と、この機械へ繋がっている。換気によって回転する羽根車が複数の軸を動かし、建物の各所へ力を伝えていた。
一つは二階の寝室。
一つは井戸。
別の軸は暖炉と階段へ延びている。
「前任者たちの死因と同じです」
「天井、井戸、火事、階段……全部、この機械で起こせるの?」
「確認します」
歯車の下に、折れた金属片が落ちていた。
寝室の梁を支える留め具の一部だろう。俺が拾おうとすると、リゼットが先に手首を掴んだ。
「待って。《事故鑑定》を使うつもり?」
「どうして分かるんです」
「王都の触れ書きに書いてあった。それに、さっき黒い鍵へ触ったときも顔色が変わったでしょう」
「よく見ていますね」
「斥候だから。それを使うと、どうなるの?」
「壊れた原因が見えることがあります。代わりに頭痛と吐き気、手の痺れが出る」
「便利な説明だけ先にして、都合の悪いところを後から足したわね」
「聞かれなかったので」
「そういう言い訳、嫌われるわよ」
「もう嫌われていると思っていました」
「今までは警戒していただけ。嫌うかどうかは、これから決める」
妙に律儀な人間だった。
「使わなければ、この機械を止める場所が分からない。次の仕掛けが作動する可能性もあります」
「倒れたら運べないから、座って使って。私が肩を支える」
「必要ありません」
「私に請求されたいの?」
「何をです」
「さっき助けた分。従わないなら、命一つ分を今すぐ払ってもらう」
「支払い方法が分かりません」
「だったら黙って座りなさい」
俺は歯車から離れた壁際へ座った。
リゼットが背後から肩を支えたのを確認し、折れた金属片へ触れる。
視界が反転した。
最初に見えたのは、半年前の寝室だった。
前任者の男が酒瓶を抱え、寝台へ倒れ込む。地下室では歯車が回り、梁の留め具が外れた。男は目を覚ますことなく、屋根石の下へ消えた。
場面が変わる。
井戸へ水を汲みに来た男の足元で、蓋の蝶番が反転する。身体が落ちた直後、蓋は元へ戻り、単純な転落事故に見えるよう閉じた。
暖炉では、空気を送る管が火の粉を寝具へ吹きつけている。
階段では、三段目の板だけが縦に起き上がり、下りてきた男の足首を払った。
死因は違う。
使われた仕組みは、すべて同じだった。
次に見えたのは、管理所の入口だった。
七人の管理人が、それぞれ壊れた黒い鍵を持って門をくぐる。壁の内側に埋め込まれた古代文字が赤く光る。
『管理権限――照合不能』
『未登録侵入者を確認』
『生活事故偽装型排除設備――起動』
地下の機械が動き、建物の床下へ油が流れる。
最近誰かが差したように見えた油は、人間の手によるものではない。設備が起動するたび、自動で軸へ供給されていた。
最後に、壊れた管理鍵の断面が見えた。
本来あるはずの先端部分がない。
『主鍵との接続を確認できません』
『管理人認証――失敗』
視界が現実へ戻った。
吐き気が込み上げる。
俺は床へ手をついたが、右腕に力が入らず、身体が傾いた。リゼットが背後から支え、水筒を口元へ持ってくる。
「飲める?」
「少し待ってください」
「顔が真っ白よ」
「よく言われます」
「誰に?」
「白石さんに」
「王都に置いてきた治療師?」
「看護師です」
「違いが分からないけど、その人がいたら今頃、あなたは殴られていると思う」
「否定できません」
吐き気が治まるまで呼吸を整え、見えたものを説明した。
リゼットは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「つまり、誰かが毎回ここへ来て管理人を殺していたわけではない」
「この設備が、壊れた鍵を持つ人間を侵入者と判断して排除した。少なくとも四人の死亡事故は、それで説明できます」
「私が見つけた男も」
「はい」
リゼットは汚れた床へ視線を落とした。
「あのとき、少しだけ変だと思ったの」
「何がです」
「梁の切れ方よ。大工は古い木材が裂けたと言ったけど、端が妙に揃っていた。ちゃんと調べるべきだった。でも雪が強くなる前に戻りたかったし、死んだ男は横領で追放された役人だった。きっと恨んでいる人間も多い、誰かに殺されたとしても私には関係ないと……そう思って、事故報告へ署名した」
彼女は自分を罰するように、言葉を続けた。
「私が事故だと報告したから、王都は次の人間を送った。三人が行方不明になったのも、私のせいかもしれない」
「あなたの報告が、次の管理人を送る判断材料になった可能性はあります」
「ずいぶん正直に言うのね。普通は『あなたのせいじゃない』と言うところでしょう」
「そう言っても、あなたは信じないでしょう」
「信じない」
「責任が全くないとは言いません。ただ、あなた一人の責任でもない。最初に仕組みを作った人間、壊れた鍵だと知りながら管理人を送った人間、事故報告を詳しく調べなかった人間。それぞれに原因があります」
「原因を分ければ、気持ちが軽くなるの?」
「なりません。ただ、次に止める場所が分かります」
リゼットはしばらく黙り、やがて膝を叩いて立ち上がった。
「なら、最初にこの機械を止める。落ち込むのは、その後にするわ」
「賛成です」
「どこを壊せばいい?」
「まだ壊さないでください」
「ここまでされても?」
「回転中の歯車を壊せば、破片が飛ぶ。別の仕掛けが急に動く可能性もあります。先に動力を止めます」
「あなたといると、何かを壊す許可がなかなか出ないわね」
「壊した後に考える人が多すぎるので」
金属管の根元には、空気の流れを調整する円形の弁があった。
二人で取っ手を回すが、半分ほど閉じたところで止まる。錆びではない。奥から別の力で押し戻されている。
「迷宮側から風を送っている」
「黒い門の中に、これを動かしているものがあるの?」
「おそらく」
「門を開けるつもり?」
「今は開けません。回転が落ちたところで、歯車を保守状態に固定します」
弁を半分閉じると、羽根車の速度が下がった。
俺は機械の側面から、丸い穴が開いた鉄板を見つける。整備中に軸が動かないよう、固定棒を差し込む場所だ。
リゼットが太い鉄棒を持ち上げた。
「これ?」
「一度で入れてください。途中で止めると弾かれます」
「失敗したら?」
「腕を失う可能性があります」
「先に言ってくれてありがとう。本当に嬉しいわ」
リゼットは嫌みを言いながらも、歯車の回転を慎重に見た。
穴が重なった瞬間、鉄棒を一気に差し込む。
激しい衝撃音が地下室へ響き、棒が大きく震えた。
それでも抜けなかった。
歯車の回転が止まり、管理所全体を揺らしていた振動も消える。
「止まった」
「仮にです。迷宮側の圧力が上がれば、鉄棒が折れるかもしれません」
「少しくらい達成感に浸らせてくれない?」
「後にしてください」
「あなた、人生を楽しむのが下手でしょう」
「それもよく言われます」
静かになった機械の奥で、文字が浮かび上がった。
長年の油と埃に隠れていた古代文字が、赤い光を放っている。
『管理者認証失敗』
『排除対象――二名生存』
『排除設備再起動まで、残り二刻』
リゼットが文字を読み、顔を引きつらせた。
「二刻というと?」
「この世界の時間なら、およそ四時間です」
「四時間後に、また管理所が私たちを殺そうとする?」
「鉄棒が持たなければ」
『再認証には、管理主鍵との接続が必要です』
俺の胸元で、折れた黒い鍵が熱を持った。
同時に、建物の外から巨大な金属音が響く。
第十三封鎖迷宮の黒門が、内側から一度だけ叩かれた音だった。
管理所で安全に暮らすには、ここから逃げるだけでは足りない。
四時間以内に黒門を開き、迷宮の中に残された鍵の先端を見つけなければならないらしい。




