第14話 前任者が三日で死んだ管理所
王都を出て十一日目の午後、囚人輸送用の馬車は街道を外れた。
最初の三日間は石畳だった道も、やがて車輪の跡が二本残るだけの土道になり、北西へ進むほど人家は減った。昨日からは畑さえ見えない。窓の鉄格子の向こうにあるのは、枯れた草原と灰色の岩山ばかりだった。
馬車の揺れは、王都を離れるほどひどくなった。尻の痛みについては《事故鑑定》を使わなくても原因が分かる。車軸の右側が歪み、板ばねの代わりに使われている革帯が一本切れかけていた。
「次の坂へ入る前に、右後輪を確認した方がいいですよ」
御者台の後ろに座る護送兵へ声をかけると、若い兵士が嫌そうに振り返った。
「またか。昨日も車輪を止めただろう」
「昨日は左前輪です。今日は右後輪」
「この馬車は呪われているのか?」
「整備されていないだけです。呪いより、そっちの方がよく人を殺します」
「俺は王都へ戻ったら、絶対に別の馬車へ乗る」
若い兵士が御者へ声をかけ、馬車が止まった。
確認すると、やはり車輪を留める金具が半分ほど抜けていた。あと一時間も走れば坂道で車輪が外れていただろう。
護送隊長のハルドは、金具を打ち直しながら俺を睨んだ。
「罪人に命を助けられるのは、妙な気分だな」
「横転すれば俺も巻き込まれます。自分のためです」
「そういうことにしておくか」
ハルドは四十代半ばの男だった。王都を出た日は一度も俺と目を合わせなかったが、五日目に馬の蹄鉄が外れかけていることを指摘してから、少しずつ話すようになった。
親切な人間というわけではない。王命に逆らって俺を逃がすつもりもなく、夜になると拘束具を確認する。
ただ、人間を死ぬ場所へ運ぶ仕事に慣れていないだけだった。
「もうすぐ着く」
金具を打ち終えたハルドが、北の岩山を顎で示した。
山の中腹に、黒い線のようなものが見える。
近づくにつれ、それが石壁で囲まれた建物だと分かった。背後には巨大な岩壁がそびえ、その中央へ、黒い金属製の扉が埋め込まれている。
王宮地下で見た黒門よりも大きい。
扉の表面には、尖塔を思わせる刻印が並んでいた。
第十三封鎖迷宮。
俺の追放先だった。
*
管理所の門前には、一人の女が待っていた。
年齢は二十代半ばほど。灰褐色の髪を顎の辺りで切り揃え、厚手の外套の上から弓と短剣を装備している。左の顎には、古い切り傷があった。
女は馬車が止まっても近づかず、石柱へ背中を預けたまま俺を観察していた。
「予定より二時間遅い」
開口一番、それだった。
「車輪が三回壊れかけました」
「壊れかけただけなら走れたでしょう」
「壊れてから止めると、崖の下です」
「王都の人間は、ずいぶん慎重なのね」
「俺は王都の人間ではありません」
「知っている。異世界から来て、王宮地下の封印を破った罪人でしょう」
王都が辺境へ流した説明は、やはりその部分だけらしい。
「七十二人を救助したことは聞いていませんか」
「聞いたわ。王都から届いた命令書には一行も書かれていなかったけど、行商人は王宮より口が軽いから」
女は石柱から背中を離し、俺の前へ立った。
「北西辺境守備隊所属、斥候のリゼット・ハーゼン。新しい管理人が到着したことを確認し、最低限の説明をするよう命じられている。世話をするようには言われていないから、そのつもりで」
「黒部修司です。世話を求めるつもりはありません」
「今まで来た連中も、最初はそう言った」
「今まで?」
「あなたで八人目よ」
アルフレッドから聞いた人数と一致する。
「直近の七人のうち、四人が死亡、三人が行方不明だと聞きました」
「よく知っているじゃない。王都も、そこだけは正直に教えたのね」
「生還者はいないとも聞きました」
「それでも来たの?」
「拒否すれば死罪でした」
「なるほど。選べるように見せただけか」
リゼットは馬車の中に積まれた荷物へ目を向けた。
ハルドたちが降ろしたのは、小麦粉と干し肉の袋、豆、塩、油、蝋燭、薪、それから最低限の工具だった。どう多く見積もっても、一週間分しかない。
「これだけですか」
リゼットがハルドへ尋ねる。
「命令書に記載された量だ」
「管理所から一番近い集落まで、徒歩で半日かかる。井戸が使えなかったら、一週間どころか二日も持たないわ」
「俺たちは物資を引き渡し、直ちに王都へ戻れと命じられている」
「戻る途中で、この人が死んでも?」
「……それを決めるのは俺じゃない」
ハルドの声が硬くなった。
リゼットは責めるように彼を見たが、俺は二人の間へ入った。
「彼らに残る権限はありません。揉めても物資は増えない」
「ずいぶん聞き分けがいいのね」
「権限のない人間を責めても、上にいる人間が楽になるだけです」
ハルドは何も言わなかった。
荷物をすべて下ろした後、若い護送兵が馬車の陰へ俺を呼んだ。周囲を気にしながら、小さな火打ち石と毛布を押しつけてくる。
「余った物だ」
「新品に見えます」
「余ったんだ。そういうことにしてくれ」
「命令違反では」
「帰り道で紛失した。俺は書類にそう書く」
若い兵士は苛立ったように言った。
「別に、あんたを信用したわけじゃない。王宮で何をしたのかも知らない。ただ、食料を一週間分だけ置いて人間を捨てていくのは、寝覚めが悪い。それだけだ」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。余計に悪いことをしている気分になる」
「では、返しますか」
「それはもっと寝覚めが悪い。黙って受け取れ」
人間は面倒だ。
親切にしたいくせに、親切な人間だと思われるのを嫌がる。命令には逆らえないが、自分が残酷な側にいるとも思いたくない。
俺も似たようなものだった。
「気をつけて戻ってください。右後輪は、王都までは持ちません。途中の駐屯所で交換した方がいい」
「最後まで馬車の心配かよ」
若い兵士は呆れた顔をし、それから小さく笑った。
護送の馬車が来た道を戻っていく。
車輪の音が聞こえなくなると、風の音だけが残った。
「罪人を置き去りにする護送兵と、その罪人に毛布を渡す護送兵が同じ馬車に乗って帰る。王都というところは、ずいぶん器用なのね」
リゼットはすべて見ていたらしい。
「報告しますか」
「毛布一枚を取り上げたところで、私に得はない。それより、暗くなる前に管理所を見せるわ。今夜は雪になる」
「中へ入る前に、建物の周囲を確認します」
「日が暮れると言ったのが聞こえなかった?」
「建物が安全だという確認をせずに入る方が危険です」
「四十三年間使われている管理所よ。今さら急に崩れないでしょう」
「崩れる建物は、崩れる直前まで建っています」
「……あなた、いちいち嫌な言い方をするわね」
「よく言われます」
「言われて直そうと思わなかったの?」
「何度かは」
「直らなかったのね」
「見ての通りです」
リゼットは深いため息をついたが、先に建物へ入ることはせず、俺の後ろについてきた。
*
管理所は、石造りの一階と木造の二階を組み合わせた建物だった。
正面から見る限り、屋根の一部が沈み、雨樋は外れている。西側の壁には蔦が絡みつき、煙突の根元には大きな亀裂があった。
建物の裏へ回ると、迷宮の黒門から管理所まで、太い金属管が地面を這うように延びていた。管は壁を貫き、地下室へ繋がっている。
「換気設備か」
「そう聞いているわ。ただし四十三年前から動いていない」
「最近、誰かが触っています」
「どうして分かるの」
金属管の脇には、大きな手回し輪が設置されていた。全体は赤錆に覆われているが、軸受けの一部だけ色が違う。
「ここに油が残っています。古い油ではない。砂埃も付着していないから、数日以内です」
リゼットが指先で触れ、臭いを確かめる。
「守備隊は触らない。この場所へ近づくのも嫌がる者が多いから」
「前の管理人が使った可能性は」
「半年前に死んだ男なら、三日しかここにいなかった。換気設備の存在すら知らなかったと思う」
「三日で死んだんですか」
リゼットの顔から、皮肉っぽい表情が消えた。
「三日目の朝、二階の寝室で見つかった。天井梁と屋根石に潰されていたわ。私は守備隊から遺体確認に来た」
「死因は建物の老朽化?」
「公式にはそうなっている」
「他の三人は」
「一人は井戸へ落ちた。一人は暖炉の火が寝具へ燃え移った。もう一人は階段から転落して首を折った」
「全員、迷宮の中ではなく、この管理所で死んでいる」
「偶然だと言いたい?」
「逆です」
俺は油の付着した軸へ視線を戻した。
「死因が別々だから、無関係に見える。ですが共通点はある。全員、生活中の事故で死に、この建物の中から出られなかった」
「管理所が人を殺していると?」
「建物に意思がなければ、誰かが建物を使って殺している」
リゼットは黒い管の先にある迷宮を見た。
「あなたの《事故鑑定》で分かったの?」
「まだ能力は使っていません。死亡場所と状況を並べただけです」
「それだけで、誰かに殺されたと決めるのは早いでしょう」
「決めてはいません。疑う理由ができたと言っています」
「同じことに聞こえる」
「違います。決めつければ、都合のいい証拠しか見なくなる。疑うだけなら、間違っていたときに戻れる」
リゼットは俺を見つめた。
「王都の触れ書きには、あなたが得体の知れない能力で封印を壊したと書いてあった」
「半分は事実です。能力は得体が知れない。換気口も開けた」
「残りの半分は?」
「それで七十二人が助かった」
「そこを王都は書かなかったのね」
「書くと、追放の理由が分かりにくくなるので」
「あなたは王国を恨んでいないの?」
「恨みで壊れた設備は直りません」
「質問に答えていない」
「腹は立っています」
リゼットは一瞬だけ意外そうな顔をし、その後で笑った。
「最初からそう答えればいいのよ。何でも仕事の話に置き換えるから、感情のない人間みたいに見える」
「感情で判断したと思われたくないだけです」
「感情がないふりをする人間ほど、後で面倒な爆発をするの。辺境ではよく見るわ」
「経験談ですか」
「私を調査するのはやめて」
「質問しただけです」
「あなたの質問は、答えた後に何か記録されそうで嫌なのよ」
すでに頭の中では記録していたが、言わない方がよさそうだった。
*
管理所の中は、外見よりも片づいていた。
使われなくなって四十三年経つ建物とは思えない。机や棚には埃が積もっている一方、廊下の中央だけは人が歩いたように薄くなっている。
一階には厨房、執務室、倉庫、地下室への扉があった。二階には寝室が二つと、資料庫がある。
問題の寝室には、大きな木製の寝台が置かれていた。
半年前、前任者が天井に潰された部屋だ。
「補修はされています」
天井梁は新しい木材へ交換され、屋根石も組み直されている。壁には補修年月を記した札まで掛かっていた。
「辺境守備隊の大工が直したわ。今度は崩れないと言っていた」
「今度は、という言葉は信用できません」
「寝ないつもり?」
「一階の執務室で寝ます」
「寝台があるのに床で?」
「前任者が寝台の上で死んだと聞いた直後です。使う方が不自然でしょう」
「死んだのは三日目よ。今日は一日目」
「建物は暦を読みません」
「融通が利かない男ね」
「リゼットさんは、ここへ泊まるんですか」
「本来なら守備隊の詰所へ戻る。でも日没後に山道を歩くほど馬鹿ではないから、今夜だけ泊まるわ」
「では一階を使ってください」
「嫌よ。私は二階の寝室を使う。あなたを狙う呪いなら、私には関係ないでしょう」
「さっき、誰かが建物を使って殺している可能性を話しました」
「まだ決めていないのでしょう?」
「そうですが」
「なら、間違っていたときに戻れるんでしょう。言ったのはあなたよ」
理屈を返された。
正しい使い方ではないが、本人は満足そうだった。
「何か異変があれば、すぐ一階へ下りてください」
「屋根が落ちてきてから?」
「その前に気づけるよう、目印を置きます」
俺は荷物から、岸本にもらった細い布を取り出した。
換気管の出口、窓際、暖炉、階段、二階の廊下へ一本ずつ結んでいく。
「それ、王都の女からもらったお守り?」
「風の流れを見るための目印です」
「お守りなのかと聞いたんだけど」
「本人は、そう言っていました」
「なら大事にしなさい。道具だと思って使い潰したら、次に会ったとき怒られるわよ」
「岸本さんにも同じことを言われました」
「当然ね。少しは学んだ方がいい」
夕食は豆と干し肉の煮込みにした。
リゼットは一口食べ、勝手に塩を足した。
「薄い」
「保存食には元から塩分があります」
「ここは王宮の病人食を食べる場所じゃない。寒い地域では、多少味が濃い方が身体も温まるの」
「塩を増やしても、体温は上がりません」
「気分が上がるのよ。人間は栄養だけで食事をしているわけじゃないでしょう」
白石と似たことを言う。
俺の周りには、役に立つことだけで人間は生きていないと注意する人間が、急に増えたらしい。
「ところで、異世界では何をしていたの?」
「運送関係の事故調査です」
「兵士ではなく?」
「違います」
「魔術師でもない」
「魔法の存在も知りませんでした」
「それなのに、よく王宮地下へ入ったわね」
「入らなければ人が死んだので」
「そういうことを、普通の顔で言う人を勇者と呼ぶんじゃないの?」
「勇者は別に四人います。俺は余りです」
「余りを辺境へ捨てたら、七十二人が助かった。王都は物の価値を見る目がないのね」
慰めているのか、王都を馬鹿にしているだけなのか分からなかった。
「それを王都で言わない方がいいですよ」
「辺境の人間は、王都へ行かないから好きなことを言えるの」
リゼットは煮込みへもう一度塩を足した。
その量は、さすがに多すぎると思った。
*
夜半、金属の擦れる音で目を覚ました。
俺は一階の執務室で、外套を毛布代わりにして眠っていた。暖炉の火は既に小さくなり、窓の外では細かな雪が降っている。
最初は、風で雨戸が動いた音だと思った。
だが音は一定の間隔で続いている。
重い歯車が、一枚ずつ噛み合う音だった。
執務室の換気口へ結んだ布が、ゆっくり持ち上がる。
窓も扉も閉まっているのに、空気が二階へ向かって流れ始めていた。
俺は床へ手を当てた。
地下から、低い振動が伝わってくる。
四十三年間停止していたはずの換気設備が動いている。
手灯りを持って廊下へ出ると、階段に結んだ布も二階へ吸い寄せられていた。
換気ではない。
建物全体の空気を、一つの部屋へ集めている。
二階へ駆け上がり、寝室の扉を開けた。
リゼットは寝台の上で眠っていた。呼びかける代わりに肩を掴むと、彼女は目を開けた瞬間、枕の下から短剣を抜いた。
刃先が俺の喉へ突きつけられる。
「……次からは、声をかけて」
「声を真似る魔物を見たばかりなので、人を起こすときは触ることにしています」
「何の話?」
「後で説明します。今は一階へ」
「どうして」
「換気設備が動いています」
リゼットが寝台から下りた。
その直後、天井から細かな木屑が落ちてきた。
新しく交換されたはずの梁が、ゆっくり沈んでいる。
「補修したんじゃなかったの?」
「表面だけです」
手灯りを掲げると、梁の根元に細い切れ目が見えた。木材は腐っていない。虫にも食われていない。
人間の手で、外から見えない部分だけを切られている。
さらに壁の中で歯車が動き、寝室の扉が勝手に閉まり始めた。
「リゼット、廊下へ!」
「言われなくても――」
彼女が扉へ飛びつくより先に、重い金属音が響いた。
扉の錠が、内側からではなく壁の中で落ちた。
天井梁が大きく軋む。
前任者を押し潰した事故は、老朽化でも、呪いでもなかった。
誰かが換気設備を使い、この寝室へ入った人間を殺すよう仕組んでいた。




