第9話 拾われたんじゃない。ここを選ぶ
翌朝、旧校舎の教室は、昨日よりずっと冷えていた。
窓の隙間から入る風が、黒板の端を細く鳴らしている。 誰もいない教室に、その音だけがやけに遠く響いた。
俺は朝一番でここへ来て、机を四つ、いつもの位置へ戻した。 散らかったままの方が、今の空気には正しい気もした。 だが、戻る場所だけは、戻った時の形で残しておきたかった。
教卓の引き出しには、一通だけ封筒が入っている。
担任降任願。
誰も戻らなければ、一限の鐘が鳴る前に出すつもりだった。 生徒が選ぶ前に、教師の側が「それでも続ける」と縋るのは違う。 そう思った。
だが、それで胸が軽くなるわけでもなかった。
廊下の足音が一つ、前を通り過ぎる。 止まらない。 また一つ。 これも違う。
やがて、教室の扉が二度だけ叩かれた。
反射で顔を上げる。
入ってきたのは、学院の事務係だった。 無表情のまま、三枚の紙を机へ置く。
「教頭補佐より。ゼロ組の暫定再配置案です」
嫌な単語が並ぶ。
ヒナは近接戦術特待監督下。 ノアは結界研究補助区画へ仮移管。 セレナは医務管理観察枠。
クラスじゃない。 バラして、それぞれ管理しやすい場所へ戻すだけの紙だ。
「本日正午までに生徒本人の意思確認が取れない場合、この案で進めるそうです」
「……分かった」
事務係は一礼だけして去っていく。
残された紙を見下ろしていると、今度は扉が乱暴に開いた。
ヒナだった。
いつもより少し早い時間なのに、制服の襟はきっちり留まっている。赤い目の縁だけが、少し腫れていた。 入ってくるなり教卓の紙へ気づき、眉を吊り上げる。
「何それ」
「暫定再配置案だ」
「見れば分かる」
ヒナは紙を引ったくるように持ち上げた。 数秒で読み終え、顔つきがさらに悪くなる。
「勝手に決めてんじゃん」
「俺が決めたわけじゃない」
「でも、もう出すつもりだったでしょ」
視線が、俺の教卓へ落ちる。 引き出しの端に見えていた封筒へ気づいたらしい。
「……それ、何」
「朝一番で見つけたくない紙だ。降任願」
「は?」
「誰も戻らなければ出すつもりだった」
言い終えるより先に、ヒナが机を叩いた。
「最悪」
昨日と同じ言葉なのに、今度は真っ直ぐこっちへ飛んできた。
「何でそうなるの」
「お前たちが選ぶ前に、俺がここへ居座るのは違う」
「じゃあ勝手に消えるのは正しいわけ?」
言葉が詰まった。 その一拍を、ヒナは見逃さない。
「あんたさ、昨日は『選べ』って言ったじゃん」
「言った」
「だったら、辞めるかどうかまで先に決めるなよ」
ヒナは再配置案の自分の紙を、ぐしゃりと握った。
「あんたが昔どうだったかは、まだむかつく」
真っ直ぐに刺さる声だった。
「今でも腹立つ。知らないままここにいたのも、勝手に選ばれてたみたいで最悪」
そこで一度、言葉を切る。 だが目は逸らさない。
「でも」
赤い目が、教卓の封筒と、俺の顔を往復する。
「それでも、あんたは一回も私を剣として差し出さなかった」
空気が止まる。
「使えたのに使わなかった」
「だから、決めるのは私」
ヒナは紙を机へ叩き戻した。
「戻るかどうかも、誰のクラスにいるかも、勝手に振り分けられたくない」
「ヒナ」
「勘違いしないで」
窓際の席へ歩き、いつものように腰を掛ける。
「許したわけじゃない」
「分かってる」
「でも、勝手に終わらせるのはもっとむかつく」
「終わらせたいわけじゃない」
自分でも、情けないくらいすぐに出た。
「残りたかった。お前たちの担任で、まだいたかった」
「でも、それを俺の方から言う資格がないと思った」
それだけ言って、ヒナは窓の外を向いた。 けれど昨日みたいに背中ごと拒んではいない。 少なくとも、この教室からは出ていかなかった。
◇
最初の鐘が鳴る直前、次に扉を開けたのはノアだった。
眠たげな顔はいつも通りだ。 だが本も資料も持っていない。代わりに、薄い封書を一通だけ持っていた。
戸口で止まり、教室の中を見渡す。 ヒナが先にいたことに、わずかに目を細めた。
「……いるんだ」
「悪い?」
「別に」
ノアはいつもの一番後ろ、戸口に近い席まで歩く。 だが座る前に、教卓の上の紙へ気づいた。
「再配置案」
「さっき届いた」
「早いね」
「ああ」
ノアは紙を一枚だけ見て、それから封書を机へ置いた。
「僕、朝に教頭室の前を通った」
低い声だった。
「ヴァルターが言ってた。ゼロ組は担任が崩れたなら、個別管理の方が合理的だって」
合理的。 それはいつも、切り分ける側の言葉だ。
「だから来た」
短い。 でも、それだけで十分重かった。
「僕は昨日、かなり腹が立った」
ノアはこっちを見ない。 黒板の横、ひび割れた壁を見たまま言う。
「僕に聞けって言ってた人が、自分の一番大事な話を後ろに隠してたから」
「ああ」
「ああ、じゃ足りない」
「分かってる」
ノアは一度だけ息を吐いた。
「でも」
そこで初めて、こっちを見る。
「先生は昨日、僕に指揮を取らせた」
ヒナが窓際でわずかに視線を上げる。
「聞かれなかった警告を、今度は通すって言った」
「今日も、僕たち抜きでこのクラスを決めなかった」
教卓の封筒を、ノアは一瞥した。
「最初に切ったかどうかは、たぶん消えない」
その通りだ。 消えるはずがない。
「でも、今は切らないって、昨日と今日で証明した」
ノアはそこで、ようやく椅子を引いた。
「だから僕も、自分で決める」
「……何を」
聞き返したのはヒナだった。
ノアは肩をすくめる。
「ここにいるかどうか」
それから静かに席へ座る。
「今日は、いる」
◇
セレナだけが、なかなか来なかった。
二つ目の鐘が近づく。 窓の外を見ても、旧校舎へ続く渡り廊下に人影はない。
ヒナは黙ったまま指で木刀の柄を叩いていた。 ノアは本を開いているが、やはり読んではいない。
俺は立ち上がりかけて、止まる。
迎えに行けば、また選択を奪う。 それだけはだめだ。
だから待つ。
扉が、小さく開いたのはその直後だった。
セレナは両手で鞄の紐を強く握っていた。 扉の縁の前で足が一度だけ止まり、それから小さく息を吸って中へ入ってくる。
「……おはようございます」
小さな声だった。 でも、逃げずに教室の中へ入ってくる。
「おはよう」
返すと、セレナは少しだけ目を伏せた。
「あの、わたし……遅くなって、ごめんなさい」
「謝らなくていい」
「でも」
そこで彼女は言葉を切り、ぎゅっと自分の指先を握った。
「まだ、怖いです」
昨日の続きみたいな声だった。
「先生のことも、昨日の話も、まだ、ちゃんと痛いです」
ヒナもノアも口を挟まない。 その沈黙が、逆にこの子の言葉を支えていた。
「でも、昨日、わたし、自分で決めたかったって言いました」
「言ったな」
「だから、今日も、わたしが決めます」
セレナは顔を上げた。 淡い青の瞳が、震えながらも逸れない。
「わたし、先生に助けてもらいました」
その一言に、胸の奥が強く詰まる。
セレナは続けた。
「怖いのに、怖がらないでくれました」
「選んでいいって、言ってくれました」
声はまだ小さい。 でも、はっきりしていた。
「だから、ここにいます」
そう言って、前から二列目の自分の席へ座る。 座ったあとも指先は震えていたが、もう立ち上がらなかった。
教室に、四人そろった。
「……ようやく教室の顔になったな」
ヒナが即座に睨む。
「今それ言う?」
「悪い」
「……じゃあ決まり」
最初に口を開いたのはヒナだった。
「このまま教頭室行こう」
「今すぐか」
「今すぐ」
ヒナは腕を組んだまま言う。
「どうせ向こう、勝手にばらす気でしょ」
「だったら先に言った方がいい」
ノアも頷く。
「選ぶのはこっちだって」
セレナは少しだけ息を吸って、それから小さく言った。
「……一緒に行きます」
誰も、もう座り直さなかった。
◇
小講義室には、ヴァルターとミレイユ、そして数人の教員がいた。
俺たち四人が並んで入ると、ヴァルターの眉がわずかに動く。
「珍しいですね」
「確認に来ました」
俺が言うより先に、ヒナが一歩前へ出た。
「その紙、破棄してください」
教卓の上へ、再配置案を置く。
ヴァルターが目を細める。
「理由を聞いても?」
「私がここにいるって決めたから」
即答だった。
「先生が昔どうだったかは、まだ最悪です。でも、今のこいつは私を武器として使ってない」
教員たちがざわめく。 ヒナは気にしない。
「だったら、誰のクラスにいるかを決めるのも、私です」
次に出たのはノアだった。
「僕も戻ります」
ヴァルターが視線を向ける。
「理由は?」
「前に、僕の警告を聞かなかった大人がいた」
講義室の空気が少しだけ張る。
「でも先生は、昨日、僕に指揮を取らせた。今日も僕たち抜きで処理しなかった」
「だから僕は、管理される方じゃなくて、ここを選ぶ」
最後に、セレナが小さく前へ出た。 声は震えていた。 でも、止まらない。
「わ、わたしも……ゼロ組にいます」
「理由を」
ヴァルターの問いに、セレナはきゅっと息を詰める。 それでも、逃げずに答えた。
「助けてもらったから、です」
「わたしの力も、怖いところも……見ないふり、しなかった」
「それで、選んでいいって言ってくれたから」
ミレイユが静かに目を細める。 ヴァルターは無表情のままだ。
「恩義と依存を取り違えている可能性もあります」
ヴァルターが淡々と言った。
「保護された相手に、正常な判断ができている保証は?」
「できてる」
ヒナが食い気味に返す。
「だから今ここで、勝手に決めるなって言いに来た」
「合理的に分ける方が楽なのは分かります」
ノアが続けた。
「でも、学ぶ場所を決めるのはそっちじゃない」
「……つまり」
教頭補佐は指先で書類を揃えた。
「ゼロ組生徒三名は、問題を承知の上で、なおレオ・アーヴィンを担任として選ぶと」
「選ぶ」
「戻ります」
「ここにいます」
ミレイユがそこで椅子にもたれ、ゆっくり頷く。
「結構」
その一言で、講義室の空気が変わる。
「教育上の選択として受理します。ゼロ組は現行編成のまま継続」
ヒナがわずかに息を吐く。 セレナは肩の力が抜けたみたいに、少しだけ目を潤ませた。 ノアは何も言わないが、本当にわずかに姿勢がゆるむ。
だが、ヴァルターは甘くない。
「ただし」
銀縁眼鏡の奥の目が、冷たく光る。
「これで情に流された判断でなかったと証明する責任は、あなた方自身が負います」
月末査定。 そして、その先の学院全体。
「次は、結果で示してください」
脅しでもあり、条件でもあった。
「受けます」
答えたのは、俺だった。
「今度は結果で返します」
◇
旧校舎へ戻る道は、昨日より少しだけ短かった。
誰も無理に明るくはならない。 全部が元通りになったわけでもない。 傷はまだ残っている。
それでも、四人の歩幅は昨日より揃っていた。
教室へ入る。
ひび割れた窓。 古い机。 朝と同じ場所。
でも、もう空じゃない。
俺は黒板の前に立ち、教卓の引き出しから封筒を取り出した。 数秒だけ見て、それから破る。
ヒナが鼻を鳴らした。
「遅い」
「悪かった」
「本当だよ」
でも声は、朝よりだいぶましだった。
俺は出席簿を開く。
最初の頃と同じように、名前を呼ぶ。
「ヒナ・クロス」
「いる」
「ノア・レイス」
「います」
「セレナ・ルクス」
「はい」
三人とも、自分の席から返した。
三つの返事が、ひび割れた教室の中でまっすぐ残る。
月末査定までは、もう遠くない。




