第8話 見捨てた側だった教師
その夜は、ほとんど眠れなかった。
いや、眠るつもりで目を閉じた時間はあった。 でも閉じるたびに、旧結界室の薄暗さと、ノアの声が戻ってきた。
これ、何
もっと言いようはあったはずだ。 もっと早く話すべきだった。 言い訳はいくらでも浮かぶ。
けれど、そのどれも結局は同じ場所に戻る。
黙っていたのは俺だ。
◇
翌朝のゼロ組は、静かだった。
ヒナは窓の外だけを見ている。 セレナは膝の上で指を組みすぎて、爪の先が白くなっていた。 ノアは本を開いていたが、ページは一度もめくられない。
俺は黒板の前まで行って、それから振り返った。
「昨日の続きを話す。今度は逃げない。全部言う」
ヒナの肩がわずかに動く。 セレナは息を止める。 ノアだけが、静かに本を閉じた。
「旧結界室で見つかった報告書は、俺が書いた」
そこで初めて、ヒナが振り向いた。
赤い目が真っ直ぐ刺さる。
「何それ」
「そのままの意味だ」
「意味が分かんない」
当然だ。 分かるわけがない。
「五年前、高危険実習の崩落事故で、俺は救助順を切った。助からない側を、先に決めた」
言葉にした瞬間、セレナの指先が強く震えた。 ヒナの眉が寄る。 ノアはただ、じっとこっちを見る。
「その時の表が、今の危険実習規程と切り離し運用の原型に流用された」
「ゼロ組の理屈も、その先にあるってこと?」
ノアの声は低かった。
「……そうだ」
「じゃあ」
ヒナが立ち上がる。
「私たちをここに押し込めた理屈の始まりに、あんたもいたんだ」
「いた」
短く返す。 もう濁せない。
「つまり、俺は一度、見捨てた側だった」
教室の空気が一気に冷えた。
「僕に聞けって言ったのに」
ノアが言う。
「一番まずいところは、黙ってたんだ」
「その通りだ」
「何で今まで言わなかった」
ヒナの声は怒鳴り声より低かった。
「怖かった」
「お前たちに、俺も最後は切る側の人間だって思われるのが」
「だから黙った。怖くて黙った。最低だ」
言った瞬間、セレナが顔を上げた。
「……先生」
「何だ」
「……怖いことは、怖いって言っていいって、先生が言ったのに」
痛いほど静かな声だった。
「先生だけ隠したら……わたしたちは、何を信じればよかったんですか」
ヒナが机の縁を強く叩いた。
「怖いなら、先に言えばよかったでしょ」
怒鳴り声ではなかった。
「知らないまま信じたこっちが、馬鹿みたいじゃん」
答えが出る前に、扉が二度ノックされた。
◇
呼び出しは、予想通りだった。
学院本棟の小講義室。 中にはミレイユ、ヴァルター、それから数人の教員が並んでいた。 細長い机の奥にミレイユとヴァルターが並び、その左右に教員が三人。俺たちは入口側に立たされ、椅子は用意されていなかった。
昨日の事故と、旧報告書。 この二つが重なれば、話が穏便に済むはずがない。
「全員来ましたか」
ヴァルターが書類を整えながら言う。
「では、確認に入ります」
嫌に丁寧な声だ。 こういう時ほど、ろくなことにならない。
「昨日の西共同演習区画における結界異常については、内部干渉の可能性が高いと判断しました」
教員たちの間にざわめきが走る。
「ですが本件には、もう一つ確認すべき点があります」
ヴァルターが次の書類を持ち上げた。 昨日、ノアが見つけたものと同じ報告書だ。
「レオ・アーヴィン先生。こちらはあなたの署名で間違いありませんね」
「間違いありません」
答えると、空気がさらに冷える。
「この報告は、後の危険実習規程の原型です」
ヴァルターは淡々と読み上げる。
「救助優先順位。低適性者切り離し許容。群全体の生存率を優先。実に合理的だ」
その合理の先に何があるかを、俺はもう知っている。
「にもかかわらず、あなたは現在、見捨てない教師を自称している」
ヒナの拳が震える。 セレナは俯いた。 ノアはじっと前だけを見ている。
「発言の機会はあります」
ミレイユが言った。 柔らかい声だが、逃がしてはくれない声でもある。
「話しますか」
「話します」
俺は前へ出た。
「報告書は本物です。俺が書きました」
崩落で通路が二本潰れた。 救助班は足りなかった。 現場では「誰から引き上げるか」より先に、「誰を後回しにするか」の表が回った。 ユージンの名前もそこにあった。 俺は止めきれず、署名した。 あとから抗議した時には、もう制度の方が先に整えられていた。
「止められなかったのか」
質問してきたのは、若い教員だった。
「止めようとはした」
「止められなかった」
「そうです」
事実だけが残る。
「だから今の俺は、同じことを繰り返したくない」
ヴァルターがそこで口を開いた。
「繰り返したくない、ですか」
薄い笑みだった。
「それは個人的な贖罪であって、教育方針ではないのでは?」
ヒナが一歩前へ出かける。 だが今、それをさせるわけにはいかない。
「そう見えるのは当然です」
俺は先に言った。
「実際、そういう面もあります」
セレナがこちらを見る。 痛そうな顔だった。
「でも、贖罪だから間違っているとは思わない」
声が少しだけ硬くなる。
「一度手を離した人間が、次は離さないと決めることには意味がある」
「では、その決意のためにゼロ組を使っているのではないと?」
「使っていない」
即答した。
「少なくとも、そのつもりで向き合ったことはありません」
「つもり」
ノアがそこで、ぽつりと繰り返した。
それだけで十分だった。 つもりで足りないこともある。
「……そうだな」
俺はそっちを見る。
「黙っていた以上、そう見られても仕方ない」
ヒナが低い声で言う。
「仕方ないで済ませるなよ」
「済ませる気はない」
「じゃあ何で言わなかった」
正面からの問いだ。 逃げ場はない。
「怖かった」
「嫌われて当然だって分かってたから、余計に怖かった」
講義室が静まり返る。
たぶん、そこは格好つけても意味がない。
「最初にそれを言ったら、お前たちが『同じ側の人間だ』と思うのは正しい。だから、せめて違う動きができるところを見せてからにしようと思った」
「……結果だけ見れば、一番信用を削る順番を選んだ。三流だ」
ノアが小さく眉を寄せる。
「それ、余計に悪いよ」
「ああ」
「判断材料を後出しにしてる」
「分かってる」
セレナがようやく声を出した。
「先生」
「何だ」
「わたしたちに、選ばせるって言ってましたよね」
「言った」
「だったら……そこは隠したままじゃ、だめです。選ぶ前に知りたかったです」
小さい声なのに、やけに深く刺さった。
それも、その通りだった。
「そうだな」
答えるしかない。
ミレイユが、そこで机に指を組んだ。
「事実確認は十分でしょう」
金の瞳が、順にこちらを見る。
「論点は次です。今日の時点で、ゼロ組を誰の前に立たせるか」
ヴァルターが眉を寄せる。
「学院運営を感情で決めるおつもりですか」
「感情ではありません」
ミレイユは静かに返した。
「教育です」
「傷を知ったあとも同じ教師の前に立つかどうかは、本人にしか決められない」
それから、俺を見る。
「あなたはどうしますか」
答えは、一つだった。
「今日の授業は中止にします」
ヒナがぴくりと反応する。 ノアもセレナも、黙ってこちらを見ていた。
「お前たちには、考える時間が要る」
「先生は?」
ノアの問いに、少しだけ間を置いてから答える。
「待つ。明日の一限の鐘まで、旧校舎にいる」
「……短い」
ノアが言う。
「長く引き延ばして決めさせるのも、違う。教師の答えとしては情けないけどな」
ヴァルターが口元をわずかに上げた。 たぶん、都合がいいと思っている。 でも今は、それでいい。
ここで無理に縋れば、全部がもっと安くなる。
◇
旧校舎へ戻る道は、昨日までよりずっと遠く感じた。
誰も喋らない。 四人いるのに、足音だけが別々だった。
教室へ入って、俺はいつもの位置に立つ。 黒板の前。 最初に署名を拒んだ日と、同じ場所だ。 ヒナは窓際の机の横で腕を組み、ノアは戸口に近い後ろの席へ立ったまま入らない。セレナだけが前から二列目の机の脇で、座ることもできずにいた。
「今日は帰っていい」
ヒナがすぐに睨む。
「それ、逃げてるみたいでむかつく」
「逃げてる部分もある」
「……っ」
先に認めると、ヒナは言葉を詰まらせた。
「でも、今ここで『それでも信じてくれ』とは言わない」
ノアが静かにこちらを見る。 セレナの指先は、まだ強く握られたままだった。
「明日の一限までに決めろ」
言いながら、自分の声がひどく遠い。
「次にここへ来るか」
「誰の指示で立つか」
「月末査定に出るかどうか」
「全部、お前たちが決めろ」
ヒナが机に拳をついた。
「それで、先生は」
「教室を開けて待つ。それ以上を取りに行ったら、また同じになる」
「それだけで済むと思ってる?」
「思ってない」
でも、今の俺が勝手にできるのは、そこまでだった。
ノアが最初に席を立った。 戸口に一番近い位置から、そのまま。 無言のまま。 だけど、扉を乱暴に閉めたりはしない。
セレナは立ち上がりかけて、一度だけこっちを見た。 何か言いたそうで、それでも言葉を探すように一拍だけ踏みとどまる。
「……怖いままでも、最初から知って、自分で決めたかったです」
それだけ言って、頭を下げた。
最後まで残ったのは、ヒナだった。
赤い目で、真っ直ぐにこっちを見る。
「……最悪」
「そうだな」
「でも」
そこで言葉を切る。 言い切らない。 言い切れないのだろう。
「今、顔見ると余計腹立つ」
それだけ言って、教室を出ていった。
扉が閉まる。
旧校舎のひび割れた教室に、一人分の呼吸だけが残る。
朝のまま並べた四つの机が、やけにきれいだった。
明日の一限までに、そのどれか一つでも椅子を引く音が戻らなければ。 この教室は、ここで終わる。




