第3話 初授業は、誰も置いていかない形で
旧演習場は、朝露の匂いがした。
学院の中央にある華やかな訓練場と違って、ここは石壁も柵も古い。地面はところどころひび割れ、消えかけた術式だけが薄く残っている。
けれど、だからいい。
ゼロ組の初授業には、最新の設備より都合がいい。
俺が着いたとき、すでにヒナがいた。
「珍しいな。一番乗りか」
「うるさい。たまたま」
木刀を肩に担いだまま、壁にもたれている。 だが足元を見ると、もう軽く汗をかいていた。先に体を動かしていたのだろう。
「やる気あるじゃないか」
「ない」
「あるやつの顔だぞ」
「殴るよ」
「教師相手に?」
「必要なら」
口は悪いが、昨日よりだいぶ柔らかい。
少し遅れてノアが来た。 本を片手に、眠たそうな顔のまま、演習場を一目見て眉をひそめる。
「……旧式すぎる」
「分かるか」
「見れば分かる。壁面の術式、半分死んでる」
「半分も生きてるなら上等だ」
「先生、たまに雑を通り越して投げやりになるよね」
「否定しづらい」
最後にセレナが、少し息を切らしながら駆けてきた。
「す、すみません……遅れて」
「まだ始まってない。大丈夫だ」
彼女はほっとしたように胸を撫で下ろした。 三人揃ったところで、俺は演習場中央へ立つ。
「よし。ゼロ組、初授業を始める。逃げるのは説明のあとにしてくれ。せっかくなら段取りよく嫌がられたい」
ヒナが鼻で笑った。
「初回から嫌がられる前提なんだ」
ノアは呆れたように一度だけ瞬きをして、セレナは少しだけ口元を緩めた。
「まあ、冗談はほどほどにして本題に入るぞ」
三人の視線が、そこでようやくきちんとこっちへ揃う。
「内容は単純だ」
演習場の奥を指す。
ひび割れた石壁の向こうに、古い訓練設備を流用した簡易迷路が組まれている。中央の台座には小さな金属箱。左右にゴーレムが一体ずつ。足元の白線から外は、もう安全圏じゃない。
「制限時間二十分。あの箱を取って、全員無事にここまで戻る」
「全員?」
ノアがすぐに反応する。
「一人でも残したら失格」
ヒナが露骨に嫌そうな顔をした。
「めんどくさ。私が突っ込んで取ってくれば終わりじゃん」
「終わらない。今日は速さじゃなく、噛み合わせを見る授業だ」
「私の得意じゃないやつ」
「知ってる」
「知っててやらせるの最悪」
「仕事だ。恨み言は授業後に受け付ける」
ヒナが露骨に眉をしかめ、ノアが小さく息を吐いた。
「質問」
ノアが手を挙げる。
「ゴーレムは旧式?」
「旧式だが、一体は壁面術式と連動する」
「やっぱり」
「壁面の組み方、外周結界と同じだ。継ぎ足しが多い」
「何が分かった」
「先生、これ最初から僕に解析させるつもりでしょ」
「そのつもりだ」
あっさり認めると、ノアは呆れたように息を吐いた。
「セレナ」
「は、はい」
「今日は無理に治癒しなくていい。まずは観察だ。誰がどこで無理をしてるか見てほしい」
「観察……」
「危ないと思ったら止めろ。お前の判断を優先する」
セレナは緊張しつつも頷く。
「ヒナ」
「何」
「前に出るのは止めない。ただし単独突破は失格だ」
「やっぱ最悪」
「この課題で前に出る役は、お前に頼みたい」
ヒナの目が少しだけ変わる。
「ただし、お前だけに背負わせる構造にはしてない」
ヒナはそれを聞いて、そっぽを向いた。
「……そういうの、先に言え」
「本当のことだ」
「先生の言い方が雑なのは変わってない」
照れているのが見え見えだったが、指摘はしないでおく。
「じゃあ始める」
笛を鳴らした。
◇
最初の五分で、予想通りばらばらになった。
開始線を蹴った瞬間、ヒナは右前へ飛んだ。 ノアは白線の内側ぎりぎり、右壁沿いで術式の流れを見ている。 セレナは開始線寄り中央で二人を追おうとして、どちらへ寄るべきか迷う。
「ヒナ、待て!」
「待つと遅い!」
叫び返しながら、ヒナは先頭のゴーレムへ踏み込んだ。
鋭い。 正面から見ても分かるほど、踏み込みと斬撃の移り変わりが速い。握り込まれた木刀の柄が軋み、重い金属音が鳴る。
だが次の瞬間、足元の術式が起動した。
「ヒナ、下がれ!」
壁面から光の杭が射出される。地面の砂と薄い埃が、光に弾かれて跳ねた。
ヒナは二本までは叩き落としたが、三本目を避けるために無理な体勢になった。そこへゴーレムの腕が来る。
「っ」
直撃は避けたものの、肩を掠めた。
セレナが息を呑む。 ノアが舌打ちした。
「だから単独で行くなって」
「今言うな!」
言い争っている場合じゃない。
ゴーレム二体が動き出し、演習場の導線が完全に崩れる。
「一度引くぞ!」
「嫌」
ヒナが即答した。
その頑固さは分かっていたが、今は悪い方に出ている。
「ヒナ」
「ここで退いたら、結局私が足引っ張ってるみたいじゃん」
ああ、そこか。
責任感と意地が混ざっている。
「今は全員が足を引っ張ってる」
「は?」
「お前は一人で行きすぎだし、ノアは説明が足りないし、セレナは二人とも見ようとして止まってる。俺もまとめ切れてない」
三人とも黙った。
ヒナ一人の失敗にした瞬間、次はもう噛み合わない。
「だから、一回戻る」
少し間を置いてから、ヒナは舌打ちした。
「……分かった」
退路だけは、ノアがきっちり作っていた。 彼の張った薄い硝子板みたいな簡易障壁を踏み台にして、三人は開始線の内側、安全圏まで引き返す。
制限時間は残り十三分。
十分に短い。
俺は地面に膝をつき、簡単な図を描いた。
「ここから立て直す。ノア、今見えた情報を全部出せ」
「中央の台座に近づくと壁面術式が連動して、左から杭が出る。ゴーレムは一体が囮に反応して、一体が固定防衛。たぶん箱そのものにも感知式の罠がある」
「嫌なやつ全部乗せじゃん」
ヒナが吐き捨てる。
「今さら気づいたの」
ノアが言う。
「その言い方、今じゃないでしょ」
ヒナが睨み返した。
だが、そのやり取りでセレナの肩から少しだけ力が抜けた。
「解除できるか」
「完全には無理。時間がない」
「じゃあ、何ならできる」
ノアは一瞬だけ驚いた顔をした。
できないことじゃなく、残っている手札を聞かれたからだろう。
「……杭の発射を三秒ずらせる。固定防衛側の視界も一瞬だけ切れる」
「十分だ」
「三秒で?」
「ヒナなら足りる」
ヒナがこちらを見る。 俺は正面から見返した。
「ただし、一人では行かせない」
「じゃあ誰が一緒に来るの」
「俺だ」
「は?」
「お前は箱を取れ。罠の確認と退路の確保は俺がやる」
ヒナの顔が険しくなる。
「危ない役だけ教師が取るの、ずるくない?」
「お前を止めるために言ってるんじゃない」
「じゃあ何」
「お前が剣に集中できるようにするためだ」
ヒナは言葉を失った。
それでいい。誤解を残す方がまずい。
「セレナ」
「は、はい」
「お前は後ろから全体を見てくれ。誰かが無理をしたら止める役だ」
「止める……」
「怖かったら声だけでもいい。それでも助かる」
セレナは何度か頷いたあと、意を決したように息を吸う。
「もし、痛みが強かったら、わたしが少しだけ引き受けます」
「無理はするな」
「はい。でも……皆が倒れるより、いいです」
小さい声のわりに、引き受ける覚悟だけは先に出る。
「ノア」
「何」
「指示を出せ」
「……僕が?」
「お前が一番見えてる」
「でも」
「前に一度、こういうので崩したことあるんだろ」
ノアの肩が小さく止まる。
「……残ったのは、責任だけだった」
「失敗したら、担任の責任だ」
ノアの瞳が揺れる。 その一拍の沈黙のあと、彼は立ち上がった。
「分かった」
そして初めて、クラス全員へ向けて言う。
「ヒナは右から回って。二歩目でフェイント、三歩目で加速。先生は半歩遅れて入ると罠に引っかかるから、一歩目から左寄り」
声が変わっていた。 低く、迷いがない。
「セレナは中央ライン維持。僕が合図したら、ヒナじゃなく先生を先に見て」
「え、先生を?」
「たぶん無茶するから」
「するかもな」
「するんだ……」
セレナが困ったように言うが、その声は少しだけ和らいでいる。
「じゃあ行く」
ノアの手が壁面術式に触れた。 光が走る。
「三、二、一」
俺たちは同時に踏み込んだ。
◇
今度は、流れがあった。
ヒナが右へ走る。 俺は左寄り。足元の術式が起きる気配を見て、最初から木剣を低く構えた。
ノアの結界が一枚、二枚、薄い硝子板みたいに走る。 完全には防がない。ただ、視界と反応をほんの少しずらす。
その「ほんの少し」が大きい。
固定防衛のゴーレムが、ヒナではなく俺へ向く。
「先生、前!」
セレナの声が飛ぶ。
遅れない。 木剣で受ける。掌の奥で木が軋んだ。 わざと一歩だけ後ろへ流される。狙い通り、ゴーレムの体が開く。
「ヒナ!」
「分かってる!」
赤い残光みたいに、ヒナが横を抜ける。
一撃目で台座横の拘束鎖を断ち、二撃目で箱周辺の感知杭を叩き落とす。
速い。だが、速いだけじゃない。 今のヒナは、独りよがりじゃなく、全体の呼吸に乗っている。
中央の箱へ手を伸ばした、その瞬間。
最後の罠が起動した。
台座下の石床が割れ、ヒナの足場が崩れる。
「ヒナ!」
俺が手を伸ばすより早く、ノアの結界が斜めに走った。 足場の代わりになる、一瞬だけの薄い硝子板。
ヒナがそこを蹴る。 箱を掴む。
「取った!」
だが帰り道はまだ終わっていない。
ゴーレム二体が同時に振り向く。
「先生、右肩!」
セレナの声。
次いで、右肩の奥に溜まっていた熱だけが、ふっと薄れた。 完全な治癒じゃない。掠めた衝撃の鈍さだけを、セレナが持っていったのだろう。 視界の端で、セレナがびくりと手を引く。けれどヒナは振り返らず、ノアも指示を切らない。
「ノア、退路!」
「作ってる!」
石壁沿いに、細い硝子の筋みたいな光の線が伸びる。 誘導路だ。
「ヒナ、そのまま真っすぐ!」
「はいはい!」
文句を言いながらも、ヒナは一度も振り返らない。 ノアの指示を信用しているからだ。
最後尾で俺が受け、中央でセレナが全員の無理を見て、前衛でヒナが突破する。
形になっている。
あとは帰るだけだ。
演習場中央の起点まで、あと数歩。
そのとき、二体目のゴーレムが最後の腕を振り上げた。 進路上にいるのはセレナだ。
昨日のセレナなら、止まっていた。 たぶん身をすくませて、間に合わなかった。
だが今回は違う。
「ノア君、ひ、左……ヒナちゃん、そのまま……!」
セレナ自身が、先に声を出した。
ノアの障壁が左へ寄る。 ヒナが速度を落とさず、箱を抱えたまま通り抜ける。 俺はセレナの前に入って、最後の一撃を受け流した。
笛を吹く。
終了。
静寂のあと、箱が地面に置かれる音がした。
二十分ぴったり。 ぎりぎりだ。
「……成功、でいいの」
ヒナが息を切らしながら言う。
「全員戻った。成功だ」
その瞬間、セレナがその場にへたり込んだ。
「す、すみません」
「謝るな。頑張った」
言うと、セレナは泣きそうな顔で笑った。
ノアは壁にもたれたまま、静かに箱を見ている。 ヒナは木刀の先で地面を叩きながら、どうにも落ち着かない顔だ。
「言っとくけど」
彼女がぼそっと言う。
「別に、先生のためじゃないから」
「そうか」
「でも」
ヒナは少しだけ視線を逸らした。
「一人でやるより、今日の方が強かった」
それは、たぶんヒナなりの大きな認め方だ。
ノアが小さく言う。
「……計算は、崩れなかった」
「崩れなかったじゃなくて、お前が崩させなかったんだよ」
俺が返すと、ノアは数秒だけ黙っていた。
「……まだ一回だけど」
この少年にしては、最大級に前向きな感想だった。
セレナは箱を見つめながら、ぽつりと呟く。
「わたし、止まらなかった」
「ああ」
「怖かったのに」
「それでも声を出した」
セレナは胸の前で両手を握る。 その指はまだ震えていたが、昨日みたいな怯えだけの震えではない。
やれた、という実感が混ざっている。
◇
授業の終わり際、演習場の柵の向こうに人影が見えた。
Bクラスの生徒が数人と、教師が一人。
「……ゼロ組が?」 「今の、ヒナだけじゃなかったよな」 「後ろも噛んでた」 「ちょっとやばくない?」
ひそひそ声が聞こえる。
ヒナがにやりと笑った。
「聞こえた?」
「聞こえた」
「いい気味」
そのとき、さらに奥から見慣れた黒い礼装が近づいてきた。
ヴァルターだ。
面倒なタイミングで来る。
「朝から随分と楽しそうですね、レオ先生」
「授業です。問題があるなら、今ここでどうぞ」
俺が答えると、教頭は箱と演習場の損傷を見渡した。
「旧設備を使った自主訓練ですか。許可は」
「申請済みです。朝一で」
昨夜のうちに出しておいてよかった。
ヴァルターは書類に視線を落とし、それから三人へ向き直った。
「で。月末査定に参加できる程度には、統率が取れましたか」
嫌味だ。 だが昨日と違うのは、今日は三人とも聞いているだけではないことだった。
ヒナが木刀を肩に担ぐ。
「あんたが決めること?」
ノアが続ける。
「少なくとも、昨日の魔熊よりは話になる」
セレナは震えながらも、前に出た。
「わ、わたしたち……参加、します」
ヴァルターの眉がわずかに上がる。
俺は三枚の登録書類を取り出した。 そこには、今朝の授業前に渡した仮登録とは別に、それぞれの署名が入っている。
ヒナの筆圧は強い。 ノアは無駄なく整っている。 セレナの文字だけ、少し震えていた。
だが三枚とも、確かに自分で書いた署名だ。
「ゼロ組は月末実技査定に参加します」
ヴァルターは無言で書類を受け取った。
嫌そうな顔一つしないのが、逆に不気味だ。
「後悔しないことですね」
「しません」
「あなたがではなく、彼らがです」
その言葉に、セレナの肩が少し揺れた。
だが今日は、そこで引かなかった。
「後悔するかどうかは、やってから決める」
ヒナが先に言う。
「……何もやらず終わる方が、僕は嫌だ」
ノアが低く足した。
セレナは書類を抱え直してから、小さく息を吸う。
「先生が、最後まで見るって言ったので」
ヴァルターは三人の顔を順に見た。 それから、ほんの一瞬だけ俺を見る。
その目は、昨日よりはっきり厄介だった。 もう、こちらを様子見では済ませない目だった。
「いいでしょう」
「それと、ゼロ組は明朝の全体種目選択会で最後に公開申請してもらいます」
ヴァルターの声は淡々としていた。
「暫定審査対象クラスとして、全学年の前で選びなさい」
ヒナが眉を上げる。 ノアの視線が細くなる。 セレナは息を詰めた。
それだけ残して、教頭は去っていく。
完全な勝ちじゃない。 むしろ、ここから目をつけられる。
ヒナが眉を上げる。 ノアの視線が細くなる。 セレナは震えたまま、書類の端を握り込んだ。
明日、その署名ごと全校生徒の前へ出る。




