第2話 問題児には問題児の居場所がある
翌朝のゼロ組は、静かだった。
いや、静かすぎた。
普通の教室なら、椅子を引く音や、誰かの欠伸や、始業前の意味のない私語がある。だがゼロ組には、それがない。ヒナとセレナは席に着いているが、ノアは開け放した戸口にもたれたままだ。誰の声も、まだ誰の机にも届く位置にない。
窓際で頬杖をつくヒナ。 戸口にもたれたまま本を開くノア。 前から二列目で背筋だけは妙に正しいセレナ。
それぞれがそれぞれのやり方で、机ひとつ分ずつ逃げ道を残している。
俺は出席簿を閉じ、黒板の前に立った。
「とりあえず、全員いる。えらい。拍手したいくらいだ」
「感動的だね」
ヒナが投げやりに言う。
「泣いていい?」
「勝手に泣いてろ」
「泣かないよ」
ヒナは鼻で笑ったが、昨日のようなむき出しの棘は少しだけ薄かった。
ノアは本から顔を上げずに言う。
「で。今日、何をさせるの」
「何も押しつけない。まず知る」
「何を」
「お前たちを」
そこで初めて、ノアの指が本のページを止めた。
俺は続ける。
「戦えるかどうかだけじゃない。何ができて、何が嫌で、何をされたら困るのか。そのあたりを知らないまま授業をしても、どうせ噛み合わない」
「……普通の教師は、そこまで聞かない」
セレナが小さく呟いた。
「普通のクラスでもないからな」
答えると、セレナの指先が膝の上で小さく止まった。 俺は黒板の端を、指先で一度だけ叩く。
「ゼロ組は、普通の物差しで弾かれた連中の教室だ。なら、最初から普通のやり方を押しつける気はない」
ヒナが机に肘をついたまま、じっとこっちを見る。
「へえ。じゃあ何。聞き取り調査でもすんの?」
「似たようなものだ」
「嫌だって言ったら?」
「そのときは別のやり方を考える」
即答すると、ヒナは目を細めた。 机に置いた指先が、机の縁を小さく叩く。
教卓の端には、さっきから一通の封書が置かれている。
もう封は切ってあった。 中には簡潔すぎる通達が入っていた。
特別矯正クラス・ゼロ組は、三日以内に月末実技査定への参加登録を完了すること。未登録の場合、学級不成立と見なし、在籍者の退学処理を再開する。
下には、ヴァルター・グレイの署名。
回りくどい。 だが要するに、「さっさと失敗しろ」と言っているのと同じだ。
「何それ」
ヒナが封書をひったくるように覗き込んだ。
ノアも本を閉じる。 セレナは、読み上げられた文だけで顔色をなくしていた。
「この学院は、月末査定でクラスの序列が動く」
俺は三人の顔を見る。
「SからFまで。上ほど設備も実習権も増える。普通なら、そこで上がるか下がるかが決まる」
「ただゼロ組は違う」
「三日以内に登録しないと、ゼロ組は解散」
「最下位に落ちるんじゃない。査定に出る前に、クラスそのものが消える」
俺が言うと、ヒナが舌打ちした。
「最初からそのつもりじゃん」
「そうだな」
「……登録、するんですか」
セレナの声は小さかった。
「する」
間髪入れずに答えると、三人とも少しだけ表情を変えた。
たぶん、俺がここで一度迷うと思っていたのだろう。
「ただし、無理やり連れて行くつもりもない。今日一日で、お前たちをちゃんと見て、それで判断する」
「先生が?」
ノアの声に、わずかに興味が混じる。
「お前たち自身もだ。ゼロ組としてやるか、やらないか」
ヒナが椅子の背にもたれ、天井を見た。
「めんどくさ」
「そう思うなら、やらない選択肢もある」
「……」
「ただし、やるなら半端にはしない」
教室の空気が、ほんの少しだけ変わる。 昨日は退学書類を破った。 今日は、その先だ。残るなら、ちゃんと勝ちに行く。 ただ一人ずつじゃない。ゼロ組として、同じ課題を越えられる形でだ。
「午前は自由にしろ。その代わり、俺が会いに行く」
「どこに?」
「お前たちが普段いる場所に」
ヒナは口の端を上げた。
「見つけられるならどうぞ」
ノアは何も言わず、窓の外に目をやる。 セレナだけが、おそるおそる会釈した。
◇
最初に見つけたのは、ヒナだった。
場所は剣術訓練場。正門側の立派な演習棟ではなく、擦り減った砂の円と低い木柵だけが残る、端の屋外区画だ。旧式の木剣や訓練人形が隅へ押し込まれ、出入口は一つしかない。
朝の陽が高くなる頃には、すでにその出入口の周りに人だかりができていた。
「やばっ」 「またゼロ組の」 「相手、Bクラスの上級生だぞ」
囲いの中央、ちょうど出入口から最も遠い位置で、ヒナが木刀を肩に担いでいた。
相手は二人。どちらも年上だ。片方は額を押さえ、もう片方は地面に転がっている。まだ立ってはいるが、完全に押されていた。
「やめろ!」
声をかけるより早く、片方の男子生徒が大きく踏み込んだ。
ヒナは半歩引く。 木刀が流れるように動き、相手の手首を払った。空いた胴へ一撃。 鈍い音とともに、男子生徒が膝をつく。
強い。 昨日の魔熊相手でも分かっていたが、対人ではさらに無駄がない。斬るための剣ではなく、壊す場所を正確に叩く剣だ。
「次」
ヒナが言ったところで、俺は囲いの中へ入った。
「そこまでだ」
「ちっ」
あからさまに嫌そうな顔。
「先生。空気読めないってよく言われない?」
「今言われた」
俺は倒れている生徒を一瞥した。骨は折れていない。打撲程度だろう。
「何があった」
「別に」
ヒナは答えない。
代わりに、囲いの外にいた小柄な一年生が、おずおずと手を挙げた。
「あ、あの……」
制服の袖が破れている。頬も赤い。
「その人たちが、ゼロ組は学院のゴミ箱だって言って……それで、僕が庇ったら、調子に乗るなって……」
なるほど。
ヒナは面倒そうにため息をついた。
「こいつ、殴られそうだったから止めただけ」
「止め方が過激すぎるだろ」
「ちゃんと木刀で手加減してる」
「してこれか」
「してこれ」
胸を張るな。
とはいえ、事情は十分だった。
倒れていた上級生の一人が、俺に向かって叫ぶ。
「そいつが先に手を出したんだ!」
「この一年を殴る前にな」
「ゼロ組なんか庇う方が悪い!」
その瞬間、周囲の空気が冷えた。
ヒナの目が、すっと細くなる。
まずい。
「ヒナ」
「分かってる」
言いながら、全然分かっていない顔をしている。
俺は上級生たちに向き直った。
「二人とも医務室へ行け。訓練場での騒動はこちらで報告する」
「はあ?」
「それと、今後ゼロ組への挑発や暴言を確認した場合は、剣術訓練場の使用記録も含めて学院へ上げる。異論があるなら教頭室で聞こう」
教頭の名前は、こういう時だけ便利だ。
男子生徒たちは顔をしかめたが、最終的には舌打ちを残して去っていった。
人だかりも散る。 残ったのはヒナと、袖を握りしめたままの一年生だけだった。
「ありがとうございます……」
一年生はヒナに頭を下げた。
ヒナは露骨に顔をしかめる。
「別に。二度と捕まるな」
それだけ言って、そっぽを向いた。
一年生が去ってから、俺はヒナの隣に立つ。
「お前、弱い相手は放っておけないんだな」
「……別に」
「別に、が多いな」
「うるさい」
ヒナは木刀をぶらぶらさせた。
「気に入らないだけ。強いくせに弱い方にしか向かえないやつ」
「そうか」
「先生は説教しないの」
「必要か?」
「普通はする」
「普通じゃないからな」
ヒナは一瞬だけ黙った。
「……あんたさ」
「何だ」
「昨日も思ったけど、私を怖がらないよね」
「怖いぞ」
「は?」
「怒らせたら面倒そうだし、木刀も飛んでくるし」
「そこじゃなくて」
分かっていたが、言わせた方がよかった。
ヒナは苛立ったように眉を寄せたあと、吐き捨てるように言う。
「私の剣。見たら大体のやつ、顔が変わる」
「強すぎるからか」
「違う。使い道を考える顔になる」
やはり、そこか。
家でも学院でも、たぶん同じ目を向けられてきたのだろう。 強い、ではなく、どこへ向けるかを値踏みする目だ。 俺は一度、そういう札を貼られたまま前へ出される背中を見ている。 だから、同じ言葉は使わない。
「ヒナ」
「何」
「月末査定に出るとしても、俺はお前を勝手に前に立たせない」
「……」
「使うんじゃなくて、頼むときは頼む。嫌なら嫌と言え」
ヒナの赤い目が、まっすぐこっちを見る。
「そんな綺麗にいくわけないじゃん」
「綺麗じゃなくていい」
「失敗したら?」
「俺が責任を取る」
「またそれ」
呆れたような声だった。 だが、完全に突き放す響きではなかった。
「……じゃあ、一個だけ」
「聞こう」
「私を守るために手加減しろとか言ったら、そこで終わり」
なるほど。 この条件は重い。
守ると言いながら、力を封じるな、ということだ。
「分かった。お前の剣は、お前のものだ」
ヒナは数秒だけ黙っていたが、最後には小さく鼻を鳴らした。
「ギリ合格」
その言い方が少しだけ可笑しくて、俺は笑いそうになる。
「上からだな」
「先生より強いからね」
「否定はしない」
「そこ否定してよ」
初めて、ヒナが少しだけ笑った。
◇
ノアを見つけたのは、昼前だった。
場所は旧結界室。 今は使われなくなった地下区画で、術式研究棟からも外れた半ば封鎖同然の部屋だ。
石壁いっぱいに古い紋様が走っていて、空気そのものが乾いている。普通の生徒なら寄りつかない。
だが、扉を開けた瞬間、床の光線がかすかに脈打った。 石壁沿いには薄い硝子の膜みたいな光が何枚も重なり、四隅の術式環は弱く明滅している。なのに北側の一角だけが、煤でもついたみたいに黒く沈んでいた。
誰かが、結界をいじっている。
「勝手に入るの、趣味?」
暗がりの中から、ノアの声がした。
彼は床に座り込んだまま、指先で古い術式の線をなぞっていた。
「教室に来いと言う前に、来たくなる場所を知らないとだめだと思ってな」
「気持ち悪い教師」
「よく言われる」
「昨日からそれしか言ってない」
ノアは本当に少しだけ、口元を緩めた。
その変化は小さいが、こいつにとっては大きい。
「何を見てる」
「学院の外周結界」
ノアは天井の方を見た。
「昨日、魔熊が旧校舎側に逸れたでしょ」
「ああ」
「おかしいんだよ。あそこ、誘導結界が二重にかかってるはずだから」
俺は黙って続きを待つ。
「でも、昨日の振動だと、一枚死んでた」
「壊れていた?」
「違う。最初から、そこだけ薄い」
「意図的に?」
「たぶん」
ノアはそこでこちらを見た。
試すような目だ。
「普通の教師なら、ここで終わる。『危ないから触るな』『生徒の仕事じゃない』って」
「実際、危ないだろ」
「……じゃあ、やっぱり止める?」
「いや。続きを聞く」
そこでノアは完全に手を止めた。
「聞くんだ」
「お前、自分の話を最後まで聞けって言っただろ」
「覚えてたんだ」
「約束したからな」
ノアは視線を落とし、少しだけ考えるように沈黙した。
「新しい層の下に、古い層が残ってる。全部更新したなんて、あれは嘘」
「それで?」
「その古い方に死角がある。わざとか、手抜きかは知らない」
「でも?」
「知ってて放置してる人はいる」
学院内の誰か。 それも一人や二人ではないかもしれない。
「これ、誰かに話したか」
「した」
やはり。
「前にも」
「返事は」
「……気にしすぎだって」
短い返答だった。 それ以上を言わないところに、軽く流され続けてきた時間が見えた。
「それで黙ったのか」
「話す意味ないから」
「今は?」
ノアは少し考えた。
「……まだ半分もない」
「半分か」
「残り半分は、先生が馬鹿じゃないかどうか」
「厳しいな」
「当然」
俺は結界の線へ視線を落とした。
複雑だ。 俺一人で読める代物じゃない。
「月末査定、登録する」
「知ってる」
「その前に初授業をやる。お前の頭が必要だ」
ノアの眉がわずかに動いた。
「僕の?」
「ゼロ組を通すなら、力任せじゃ足りない。お前が嫌なら別のやり方を考える。でも、聞きたい」
ノアはしばらく無言だった。 やがて、壁にもたれたまま小さく息を吐く。
「一個、条件」
「何だ」
「僕の作戦を、意味もなく変えないで」
「理由がある時は?」
「説明して」
「分かった」
「それと」
ノアは目を伏せたまま言う。
「もし崩れたら、ちゃんと見てて」
胸の奥で、古い紙の白さが嫌にちらついた。 見ていたはずなのに、見たことにしなかった顔を、一度知っている。
「分かった。そこは、俺が逃がさない」
ノアは何も言わなかった。 だが、その沈黙はさっきまでと少し違った。
「……じゃあ、明日」
「来るのか」
「様子は見る」
「十分だ」
部屋を出る直前、背中に声が飛ぶ。
「先生」
「ん?」
「昨日、右壁を落とせって言った時」
「ああ」
「継ぎ目を見てたんだよね」
「見てた」
「そっか」
それだけだった。
けれどノアの中で、何か一つ、昨日の戦いが「偶然じゃなかった」と繋がったのだと思う。
◇
セレナは医務棟の裏庭にいた。
大きな薬草棚の影。人目につきにくい、でも陽はきちんと入る場所だ。
木のベンチに座り、小さな鉢植えに水をやっている。昨日の仔猫も足元にいた。
「ここだったか」
声をかけると、セレナは驚いて肩を震わせた。
「せ、先生」
「驚かせたなら悪い」
「いえ……その……」
どうしてここが分かったのか、と顔に書いてある。
「医務室の先生に聞いた」
正確には、半分は聞き込み、半分は勘だ。 セレナのような子は、人が多すぎず、でも完全に捨てられてもいない場所を選ぶ。
「ここ、好きか」
「……静か、なので」
「そうか」
俺もベンチの端に腰を下ろす。 セレナは少し緊張したが、逃げはしなかった。
「昨日の傷、もう平気ですか」
「おかげさまで」
「……痛く、なかったですか」
「痛かった」
正直に言うと、セレナの肩がびくりと揺れた。
「ご、ごめんなさい」
「でも、助かった」
昨日と同じ言葉を、もう一度はっきり言う。
セレナは俯いたまま、膝の上で指を握りしめていた。
「わたしの治癒、普通じゃないんです」
「知ってる」
「え?」
「全部じゃないが、昨日少し分かった。傷が閉じるだけじゃない。痛みや恐怖が流れ込んでくる」
セレナの顔が真っ青になる。
秘密が露見した顔だ。 たぶん、何度もこれで拒絶されてきた。
「……気持ち悪い、ですよね」
「つらい力だとは思う」
「っ」
「でも、気持ち悪いとは思わない」
セレナは顔を上げた。
「どうして」
「お前が誰かを助けようとしてるのは分かるからだ」
沈黙。 小さな風が薬草の匂いを運ぶ。
「医務棟でも、手伝ってるんだろ」
「邪魔に、ならない時だけ……」
「邪魔扱いされるのか」
セレナは困ったように笑った。
「わたしが治すと、相手が泣いたり、叫んだりすることがあるので……先生たちも、びっくりするんです」
そりゃそうだ。 事情を知らなければ、異様に見える。
だが、その異様さだけで、この子まで切り捨てるなら話は別だ。
支える側にだけ都合よく我慢を押しつけて、壊れた顔も一度見ている。 だから便利な役に押し込む気はない。
「セレナ」
「は、はい」
「ゼロ組で、お前に頼みたいことがある」
「わ、わたしに?」
「治癒役である前に、安全管理役だ」
「安全……?」
「誰がどこまで無理をしたか、一番早く気づけるのはお前かもしれない。痛みを知ってるからだ」
「ヒナが前に出て、ノアが読み切っても、それだけじゃ落ちる時は落ちる」
「でも、お前がいると、全滅で終わる場面が減る」
セレナは目をぱちぱちさせた。
「そんなふうに言われたの、初めてです」
「じゃあ最初に言う」
俺は少しだけ身を乗り出す。
「お前の力は、便利な回復道具じゃない。使うなら、ちゃんとお前自身が決めろ」
「……っ」
セレナの喉が小さく鳴った。
「月末査定までに、ゼロ組で初授業をやる。嫌なら見学でもいい。でも、いてくれると助かる」
セレナは長いこと考えていた。 仔猫が足元で鳴き、彼女の裾に頭を擦りつける。 セレナは一度だけ口を開きかけて、閉じた。裾を摘む指先に、少し力が入る。
「わたし、怖いです」
「うん」
「でも……昨日、先生が痛いって言ったあとで、それでも助かったって言ってくれたの、少しだけ、嬉しかったです」
それは、きっと大きな一歩だ。
「だから」
セレナは一度だけ喉を鳴らした。仔猫の背に触れた指先が、ほんの少し震える。
「できるところまで、やってみたいです」
「ありがとう」
その一言で、また少しだけ目を丸くする。
この子は、本当に感謝され慣れていない。
◇
夕方、ゼロ組の教室に戻ると、三人とも来ていた。
偶然のふりをしているが、全員それだけでもない顔だった。
俺は教卓に三枚の登録用紙を置いた。
「月末実技査定の、仮登録書類だ」
ヒナが真っ先に眉をひそめる。
「もう出すの?」
「出す」
「私たちが断ったら?」
「その時は俺一人で教頭室へ行って、期限ぎりぎりまで時間をもらう」
「……」
ノアが書類の端を指で押さえた。
「勝算あるの」
「まだない」
「ないんだ」
「だから明日作る」
セレナが不安そうにこちらを見る。
「明日……?」
「初授業だ」
黒板に大きく書く。
ゼロ組 初回実技
「内容は簡単。三人の長所を持ち寄って、一つの課題を越える」
「ゼロ組だから越えられる形を、最初に一回作る」
「急すぎ」
ヒナの言う通りだ。
「急だ。だからこそ、今のままだと何が足りないか分かる」
俺は三人を順に見る。
「ヒナは前に出られる。ノアは盤面が見える。セレナは」
「ちょ、ちょっと待ってください」
セレナが肩をすくめる。
「わたし、そんな……」
「できる。昨日見た」
言い切ると、ヒナが鼻を鳴らした。
「で、結局言いたいのは?」
「明日、旧演習場で一回ぶつける」
「雑」
「知ってる」
「でも、そのくらいでいい。今のまま頭の中だけで並べても、どうせ噛み合わない」
「簡単じゃない。けど、やる」
ノアが椅子にもたれた。
「失敗したら?」
「失敗してから考える」
「先生、たまに雑だよね」
「たまにじゃないかもしれない」
「もう知ってる」
ノアが本を閉じたまま言う。
セレナが少しだけ目を丸くしてから、小さく口を開いた。
「……わたし、責めるの、あまり得意じゃないです」
「じゃあ優しい判定役だな」
「何それ」
ヒナが呆れたように言った。
そこで、ヒナが吹き出した。 ノアも呆れたように目を細める。 セレナだけが、少し遅れて小さく笑った。
ほんの一瞬だけだが、同じ空気が教室に流れた。
それだけで十分だった。
「明日、朝一番。旧演習場に集合」
登録書類を三人の前に滑らせる。
「まだ正式署名じゃない。出るかどうかは、明日のあとで決めろ」
「保留でいいの?」
ヒナが聞く。
「いい。自分で決めた方が、あとで逃げにくいからな」
「性格悪」
「仕事柄な」
ヒナが呆れたように息を漏らした。
ヒナは文句を言いながらも、書類を取った。 ノアも無言で受け取る。 セレナは両手で大事そうに持ち上げた。
そのとき、廊下の向こうを二人組の教師が通り過ぎた。
「まだやるのか、ゼロ組」 「三日で終わるだろ」
聞こえるように言っていく。
セレナの指先がきゅっと縮こまる。 ヒナの眉が上がる。 ノアの視線が冷える。
ヒナが書類の端を指で弾いた。
「で。明日、どうすんの」
「旧演習場で、先に黙らせる」
「誰を?」
ヒナが面白がるように聞く。
「今笑った連中。ついでに、教頭室の書類もだ」
ヒナがゆっくり口角を上げた。
「それはちょっと見たい」
ノアは書類に目を落としたまま、小さく言う。
「……明日を見てから決める」
セレナはまだ不安そうだった。 それでも、震える指で書類を抱えたまま、確かに頷いた。
明日、全部がうまくいくとは思わない。 たぶん失敗する。 噛み合わないし、ぶつかるし、途中で投げたくもなるだろう。
それでも、誰も書類を机に置いて帰らなかった。
黒板に残った ゼロ組 初回実技 の字だけが、夕方の光の中で妙に白かった。




