第1話 教師が先に見捨てたら終わりだ
「では、こちらに署名を」
差し出された羊皮紙は、妙に薄かった。
たった数行の文と、最後に名前を書く欄があるだけだ。だが、その紙切れ一枚で三人の生徒の居場所が消える。
王立ラグナス戦技学院、特別矯正クラス・ゼロ組。 退学候補者三名の最終確認書。
俺は紙を受け取らず、机の上に置かれた名前だけを見た。
ヒナ・クロス。 ノア・レイス。 セレナ・ルクス。
「読まずに署名はしません」
向かいに座る教頭、ヴァルター・グレイは、銀縁眼鏡の位置を指で直した。
「読む必要はありません。彼らは学院の基準に達していない。それどころか危険です」
「基準に達していないのか、基準に乗らないのか。そこは別でしょう」
「同じことです」
ぴしゃりと言い切られた。
この男はいつもそうだ。人を見る前に数字を見る。理由を聞く前に処分を決める。
「あなたは今日からゼロ組の仮担任です、レオ先生。最初の仕事が署名です。簡単でしょう」
「初日の挨拶が退学三枚は、さすがに縁起が悪いでしょう」
ヴァルターの眉は一つも動かなかった。 冗談として流したのではない。ただ、受け取る気がないのだ。
俺はようやく羊皮紙を手に取り、最後の署名欄まで視線を落とした。そこに自分の名前を書く光景を想像しただけで、喉の奥が冷えた。
訓練棟裏の石床に広がった血と、担架に乗せられた同期の横顔が、署名欄の上に重なる。
あの日も周りは言った。判断は正しかった、と。
今でも、あの「正しかった」だけは飲み込めない。
「断ります」
部屋の空気がわずかに止まった。
窓際のソファに座っていた学院長ミレイユ・オルブライトが、面白そうに片眉を上げる。
「理由を聞いても?」
「教師が先に生徒を見捨てたら、その子の居場所は終わりです」
ヴァルターが鼻で笑った。
「相変わらず甘い。だからあなたは無能教師と呼ばれるのです」
別に、その呼び名は今さら痛くもない。 査定表の上で薄い名前なのは、自分が一番分かっている。 それでも、ここでペンを取る理由にはならない。
「甘くて結構です。署名はしません」
ヴァルターがさらに何か言おうとしたとき、ミレイユ学院長が軽く手を叩いた。
「では、こうしましょう。署名を拒むなら、担任として責任を取りなさい」
金色の瞳がこちらを見る。笑っているのに、声は少しも柔らかくなかった。
「一か月。月末の学院実技査定までに、ゼロ組を学級として成立させること。出席、授業、実技参加。この三つのうち一つも達成できないなら、退学処理に戻す。それでどう?」
王立ラグナス戦技学院のクラスは、月ごとの実技査定で振り分け直される。 SからFまで。上にいるほど設備も実習権も優先され、下へ落ちるほど居場所は狭くなる。 だがゼロ組だけは、その序列の外だった。最下位ですらない。切る前の問題児をまとめて押し込めておくための、特別矯正クラス。
「学院長」
「ヴァルター、あなたは結果が欲しいのでしょう?」
教頭は不満を隠さなかったが、反論はしなかった。
俺は三人の名前が並ぶ書類を手に取った。
「分かりました。担任をやります」
「いい返事です、レオ先生」
ミレイユは微笑んだ。
「ただし一つだけ。情で抱え込んで潰れるのは、美談でも教育でもありませんよ」
「はい」
情だけで守り切れるほど、この学院は甘くない。 それでも、最初に捨てる側にだけは回らない。
俺はゼロ組の書類束を抱え、旧校舎へ向かった。
◇
ゼロ組の教室は、学院の端にある古い石造りの棟にあった。
廊下は静かで、他のクラスのような騒がしさはない。掲示板は外され、窓の一つはひび割れたまま放ってある。人が通っているのに、もう使われていない場所の顔をしていた。
教室の中は、机が壁際へばらばらに押しやられ、むき出しの梁が天井を横切っていた。奥には古い棚、窓辺にはひびの入った鉢植え。まともな授業より、奇襲や籠城の方が似合いそうな部屋だった。
教室の扉を開けると、すぐに木の匂いがした。
そして次の瞬間、首筋の横を何かが走った。
乾いた音を立てて、短い木刀が扉の柱に突き刺さる。 無茶な投げ方に見えたのに、窓辺の鉢植えと、棚の陰の仔猫だけはきれいに外していた。
「反応は合格」
机の上に座っていた少女が、つまらなそうに言った。
短めの黒髪。赤い目。細い身体のどこにそんな殺気をしまっていたのか分からないほど、教室の空気がぴりついている。手にした短木刀は白木だが、芯にだけ淡く魔力の筋が通っていた。
ヒナ・クロス。 書類の一番上にあった名前だ。
「入っていいなんて言ってないけど」
「悪い。木刀が飛んでくる扉の前で、行儀よく待てるほどできた大人じゃない」
「担任?」
ヒナは一度だけ目を細めてから、鼻で笑い、机から飛び降りた。
「前のも三日で逃げた。今度は何日もつ?」
「じゃあ四日。四日目の朝までは意地でいる」
そのとき、足元の床板に薄い光が走った。術式だ。 俺は半歩だけ右へずれる。 直後、さっきまで立っていた場所の床が弾け、小さな衝撃波が石粉を散らした。
「へえ」
天井近くの梁から、気のない声が落ちてくる。
見上げると、細身の少年が寝転ぶようにしてこちらを見ていた。眠たげな目だが、視線だけは鋭い。
「そこ、気づくんだ」
「初見の教師が足を吹き飛ばされたら困るだろ」
「別に困らないけど」
気づけば、さっき弾けた床板の破片は、仔猫の手前で止まっていた。 薄い膜みたいな結界が、一瞬だけ光った気がする。
ノア・レイス。 無愛想、協調性最低、結界制御だけは異常精度。資料にはそう書いてあった。
そして教室の隅、古い棚の陰で、小さく肩を揺らした子がいる。
銀髪の少女だった。膝をついて、怪我をした灰色の仔猫を抱えている。怯えたようにこちらを見たあと、反射的に猫を隠すように腕を回した。
セレナ・ルクス。
彼女の手のひらは淡い光を帯びていた。治癒術だ。だが、その指先は震えている。
「……ごめんなさい。勝手に、入ってて」
「教室だ。謝る必要はない」
そう言うと、セレナは目を丸くした。
ヒナが舌打ちする。
「はっ。そういうの、いらないから」
「そうか。じゃあ、先に名乗る」
俺は教卓の前に立ち、抱えていた書類を机に置いた。
「今日から俺がゼロ組の担任、レオ・アーヴィンだ。書類の上では、お前たちを片付けに来たことになってる」
三人の目が変わる。
ヒナの殺気が一段深くなり、ノアの視線が細まり、セレナの顔から血の気が引いた。
「だから、最初にこれだけやっておく」
俺は書類束の一番上、退学確認書だけを抜き出した。
そして署名欄ごと、真っ二つに破った。
乾いた裂け音が、静まり返った教室に落ちる。
ヒナが一瞬、何も言えない顔をした。 梁の上のノアが身を起こす。 セレナの唇がかすかに開いた。
「俺はこれにサインしない」
破った紙を教卓に置く。
「お前たちを見捨てる気もない。だから、逃げたいなら好きにしろ。でも追い出すための担任にはならない」
「……馬鹿じゃないの」
最初に口を開いたのはヒナだった。
「そんなこと言う教師、信用されると思ってる?」
「思ってない」
「は?」
「信用はあとでいい。先に、追い出す気がないことだけ分かってくれれば」
ヒナが睨みつけてくる。赤い瞳の奥にあるのは怒りだけじゃない。試すような色だ。
ノアが梁の上で小さく息を吐いた。
「きれいごと」
「そうだな」
「三日で逃げる方が、まだ現実的」
梁の上で、ノアが言う。
「じゃあ四日に更新する」
「長引いても面倒なんだけど」
ヒナが即座に返した。
セレナだけが、困ったように瞬きをする。
「……変な先生です」
ヒナが眉を寄せ、梁の上のノアも珍しく言葉を継がなかった。
セレナだけが、おそるおそる口を開いた。
「どうして……そこまで」
答えかけた、そのときだった。
「先生」
梁の上から、ノアの声が落ちる。
「続きは後。西廊下の壁、一枚死にかけてる」
俺は反射的に廊下側へ視線を向けた。
「どこだ」
「西廊下の角。たぶん一枚死んでる」
次の瞬間だった。
学院中に警報鐘が鳴り響いた。
続いて、窓ガラスがびりびりと震えるほどの咆哮。
廊下の向こうで誰かが叫ぶ。
「訓練区画から魔獣が逸走した! 旧校舎側へ向かっているぞ!」
ヒナが舌打ちし、ノアが立ち上がった。
俺は扉へ向かう。廊下では教師たちが慌ただしく走り回っていた。
「何が出た!」
「甲殻魔熊です! Sクラスの実習用拘束が破られて……!」
若い教師が顔を青くしていた。甲殻魔熊。正面装甲が硬く、並の剣も魔術も通しにくい。少なくとも生徒相手に流していい相手じゃない。
しかも遠くない。石床を揺らす重い足音が近づいてくる。西廊下の外壁術式が、断続的に軋むような音を立てていた。ノアの言った場所だ。
「旧校舎を封鎖します! ゼロ組の生徒は中にいるかもしれませんが、救助班を待ってください!」
その一言で、頭の奥が冷えた。
「待て。生徒がいるのに封鎖するのか」
「危険度Aです! あなた一人でどうにかできる相手じゃない!」
正しい判断だ。教師一人、しかも俺の実力では正面から勝てない。
だが、教室を振り返った瞬間、その正しさに頷く気は失せた。
教室を振り返ると、セレナの顔が真っ青だった。 ヒナはすでに木刀を握っているが、踏み出す気配はない。ノアは無言で遠くの音を聞いていた。
「セレナ」
「ひっ……」
「廊下には出るな。戸口の内側にいろ」
「先生は?」
俺は壁際の訓練用長剣を一本引き抜いた。実戦用じゃない、刃も甘い代物だ。
「迎えに行く」
ヒナが目を見開く。
「死ぬよ、あんた」
「生徒が巻き込まれてるかもしれない」
「だから?」
俺はヒナを見る。
「来るなとは言わない。ついてくるかは、お前が決めろ」
ヒナが目を見開いた。
「……何それ」
「お前の剣は、お前が決めろ」
それだけ言って、廊下へ飛び出した。
背後でヒナが木刀を握り直す音がした。梁の上ではノアが身を起こし、廊下側の壁面術式へ視線を走らせる。セレナは棚脇の古い救護箱を抱えたまま、教室の奥ではなく、戸口の脇で足を止めた。
◇
甲殻魔熊は、廊下の曲がり角を半分壊して現れた。
黒鉄の鎧みたいな甲殻に覆われた巨体。目だけが飢えたように赤い。
逃げ遅れた女子生徒が、廊下の先で尻もちをついていた。Sクラスの制服だ。たぶん実習中に置いていかれたのだろう。
魔熊の前脚が振り上がる。
「伏せろ!」
俺は女子生徒を突き飛ばし、代わりに前へ出た。
訓練剣で受ける。重い。
衝撃だけで両腕が痺れ、剣が悲鳴を上げた。次の一撃で折れる。分かっていても退けない。
魔熊の口が開き、腐った鉄みたいな臭いが鼻を刺した。
まだだ。もう一秒。
教室で拾った断片を繋ぐ。ノアは人より壁を見ていた。ヒナの木刀は白木の芯まで魔力が通っていた。セレナは傷ついたものから目を逸らせない。
「ノア! 西廊下の角だ、右壁を落とせ!」
叫んだ次の瞬間、廊下横の古い壁面術式が、硝子板にひびが走るみたいに明滅した。
石壁の一部が滑るように崩れ、魔熊の体勢がわずかに傾く。
いる。
「ヒナ! やるなら左前脚の継ぎ目だ! 首は狙うな!」
風が走った。
黒髪の少女が、いつの間にか魔熊の死角に入り込んでいる。
「命令すんな!」
言葉とは逆に、ヒナの一閃は寸分違わず継ぎ目へ入った。
硬い甲殻のつなぎ目だけを裂き、巨体が大きく揺れる。
それでも仕留めきれない。
魔熊が怒号を上げ、ヒナへ向き直る。速い。あの体でその速度は反則だ。
俺は無理やり前へ踏み込んだ。
「こっちだ!」
振り下ろされた爪が、肩口を深く裂いた。
熱と痛みが一拍遅れて来る。視界の端が白く弾けた。
だが、倒れるわけにはいかない。
「セレナ!」
廊下の入口に、銀髪が見えた。震えている。けれど逃げていない。
「先生、わたし……触ると……!」
「いいから来い! 痛みは俺が払う!」
セレナの瞳が揺れた。
彼女は一瞬だけ自分の指先を握り、抱えていた救護箱を戸口へ置いてから駆けた。
小さな手が俺の傷口に触れる。
焼けるような痛みが神経を逆撫でした。思わず息が詰まる。傷が閉じる代わりに、痛みと恐怖が直接頭の中へ流れ込んでくる。 指先が勝手に強張った。喉の奥までせり上がった悲鳴を、どうにか噛み潰す。
だが。
「助かった、セレナ」
そう言うと、彼女の目が大きく見開かれた。
魔熊が再び唸る。ノアの結界が、足元に箱型の透明な檻みたいに幾重にも走った。
「三秒だけ止める」
梁の上からとは違う、低く集中した声だった。
透明な壁が重なり、魔熊の突進がわずかに鈍る。
それで十分だった。
「ヒナ!」
「分かってる!」
今度のヒナは迷わない。
踏み込み、跳ね上がり、逆袈裟に二本目を入れる。甲殻の裂け目が広がる。
「ノア、正面解除!」
「一枚だけ残す」
「それでいい!」
最後の一枚、空気を歪める薄い硝子板みたいな結界が、魔熊の視界を一瞬だけ狂わせた。
ヒナの三撃目が、完全に開いた継ぎ目へ突き刺さる。
巨体が止まった。
次いで、地鳴りのような音を立てて崩れ落ちる。
沈黙。
誰もすぐには動かなかった。
俺は訓練剣を杖代わりにして、どうにか立っていた。ヒナは荒い息を吐き、ノアは術式の残光を見つめ、セレナは自分の手を見て震えている。
廊下の向こうから、遅れて大人たちが駆け込んできた。
「何をしている!」
先頭はヴァルターだった。 倒れた魔熊と、血まみれの俺と、ゼロ組の三人を見て、眉間のしわが深くなる。
「問題児を戦闘に参加させたのですか、レオ先生」
「違います」
息を整えて答える。
「生徒が戦うしかない状況を、あなたたちが作った」
空気が張りつめた。
ヴァルターの目が細くなる。
「言い訳にしては見苦しい」
「見苦しくて結構です」
俺は一歩だけ前へ出た。肩の傷が痛む。けれど声は震えなかった。
「この三人は失敗作じゃない」
ヒナが驚いたように俺を見る。 ノアは何も言わないが、視線だけがこちらに向く。 セレナは唇を噛みしめていた。
「ゼロ組は俺が受け持ちます。結果は出す」
ヴァルターが何かを返すより先に、後ろから軽い足音がした。
「そこまで言うなら、見せてもらいましょうか」
ミレイユ学院長だった。
倒れた魔熊を一瞥し、それから三人の生徒へ順に目を向ける。
「ゼロ組、仮処分停止。月末査定までは現状維持です」
「学院長」
「ヴァルター、結果主義なのでしょう? なら、見栄えの悪い結果も数えなさい」
教頭は沈黙した。
ミレイユは俺に視線を戻す。
「レオ先生。一か月です」
「はい」
「その代わり」
彼女は笑みを消した。
「次は、あなた一人が傷つく形で切り抜けないこと。教師の覚悟は大事ですが、それだけでは続きません」
「……肝に銘じます」
学院長はうなずき、踵を返した。
緊張が少しだけほどける。
そのとき、袖が軽く引かれた。
セレナだった。
「先生……あの。さっき、どうして……ありがとう、って」
「助けてもらったからだ」
「でも、わたしの治癒、痛いし……怖いし……」
「それでも助かった」
セレナは何かを言いかけて、結局うつむいた。けれどその顔は、さっきより少しだけ泣きそうだった。
ヒナが木刀を肩に担ぎ、ふいと顔をそむける。
「一か月だけ」
「ん?」
「一か月だけなら、逃げるか見張るついでに出てやる」
「上からだな」
「うるさい」
けれど、その声にさっきまでの刺は少なかった。
少し離れた場所で、ノアが壁にもたれている。
「僕は毎日は出ない」
「じゃあ来られる日は来い」
「……次に僕が何か言ったら、最後まで聞いて」
「約束する」
ノアは一度だけ、こちらから目を逸らした。
「だったら、考えとく」
それでも、完全な拒絶ではなかった。
十分だ。
◇
翌朝。
古いゼロ組の教室で、俺は黒板の前に立っていた。
出席簿を開き、昨日まで空欄だった席を見る。
ひとつ。 ふたつ。
三つ目は空いたままだと思ったが、開け放した戸口の脇に影があった。
ヒナが窓際の席で頬杖をつき、セレナが前から二列目で背筋を伸ばして座っている。ノアは教室の中までは入らず、戸口にもたれたまま本を開いていた。
誰も笑っていない。まだ信じ切ってもいない。 それでも、ここにいる。 昨日までは、強い三人が同じ部屋にいるだけだった。 今朝はまだ席が離れていても、同じ授業を始められる教室の形になっている。
だから十分、始められる。
俺はチョークを取り、黒板の真ん中に大きく書いた。
卒業させる
「今日から授業を始める」
ヒナがふっと口元を緩めた。 戸口のノアは、本を持つ指先だけをわずかに止めた。 セレナは小さく、でも確かにうなずいた。
そして教卓の端には、今朝方届いた新しい封書が一通置かれていた。
月末実技査定の参加登録期限、三日後。 黒板の 卒業させる の白い字の横で、その封書だけが朝の光に冷えていた。




