第15話 空いた椅子は、増やしていい
翌朝の旧校舎には、また椅子が増えていた。
しかも今度は、昨日までのように俺が運んだわけじゃない。 教室の後ろへ二脚、壁際へ一脚。高さの合わない古椅子が、きちんと邪魔にならない位置へ寄せられている。
扉を開けた瞬間、少しだけ足を止めた。
朝の光が斜めに差し込む中、セレナが古い布で椅子の座面を拭いている。 ユノはその隣で紙片を切り、リタはその切れ端を小さな束へ揃えていた。 ノアは一番前の机を陣取り、例の二枚の点検票と、昨日フェンから借りた補習線の配置図を並べている。 ヒナは窓際だ。いつもと同じ顔をしているのに、足元には誰かが持ってきたらしい壊れかけの盾留め具が転がっていた。 そして、扉のすぐ外にはカイルがいる。 足元には、脚の長さが合わない椅子だけが別に寄せてあった。 危ないやつを先に弾いたんだろう。 言わないだけで、こういうところは妙に細かい。 入るでも帰るでもない立ち位置まで、いつも通りだった。 人が戻ってくる教室は、それだけで雑には切り捨てにくい。 あの朝に立てた目標は、もう訓練場の外でも進み始めていた。
「何してるんだ。ひと晩で教室がちゃんとしてる。誰だ、夜中に進化させたの」
窓際でヒナが小さく鼻を鳴らした。
訊くと、最初に振り返ったのはセレナだった。
「あ」
小さく肩を揺らしてから、手の布を握り直す。
「その、昨日、足りなくなったので」
「椅子が?」
「はい」
答えたのはユノだった。
「昼休み、立ったままの人がいたので」
言われて、昨日の教室を思い出す。 リタが座りきれずに遠慮し、カイルは最後まで扉の近くへいた。ユノだって最初はそうだった。
「だから、朝のうちに取ってきました」
ユノはそこで少しだけ言い淀む。
「勝手に、ですけど」
その横で、リタが慌てて付け足した。
「わ、わたしも運びました。軽い方だけですけど」
「軽い方だけでも運んだなら十分だ」
そう言うと、リタは目をぱちりとした。 まだ褒められることに慣れていない顔だった。
ヒナが窓際から鼻で笑う。
「何、その顔」
「い、いえ」
「別に責めてない」
責める気のない時ほど、ヒナの言い方は少しだけぶっきらぼうになる。 けれど、リタはもう昨日みたいには縮こまらなかった。
ノアが配置図から顔も上げずに言う。
「先生、そこ」
「そこ?」
「扉の横」
言われて目をやる。 黒板の端に、小さな紙片が一枚だけ貼ってあった。
用があるなら、先にノック。
雑な字だ。 ヒナではない。ノアでもない。
俺が紙を見たまま黙っていると、セレナが少しだけ目を伏せた。
「ご、ごめんなさい」
「お前が書いたのか」
「その……外で黙って立ってる人が増えたので」
たしかに最近、廊下の気配だけが増えていた。 入りたいのに入れない足音。用があるのに、扉の前で消える気配。
「別に謝ることじゃない」
そう言うと、セレナは目を丸くした。 それから、ほんの少しだけ安心したみたいに肩を下ろす。
「空いた椅子は、増やしていい」
口に出してから、自分で少しだけ可笑しかった。 教室の話なのか、人の話なのか、もう半分くらい分からない。
ヒナが窓の外を見たまま言う。
「減らさないなら、別に」
それは、こいつなりの賛成だった。
◇
一時間目が始まる前、扉が三度、きちんと叩かれた。
今度は、ためらう音ではない。 規則通りの、確かめるためのノックだ。
「どうぞ」
返すと、入ってきたのはダリオ・フェンだった。 両腕には、古い記録板と台帳の束。 灰色の教師コートは相変わらず乱れていないが、片手で支えているせいで、木箱だけが妙に重く見えた。
カイルが無言で中へ入り、木箱の底を支える。 そうして二人で教卓の上へ置いた瞬間、鈍い音がした。
「朝から重いな」
俺が言うと、フェンは短く息を吐いた。
「軽い話ではないので」
ノアの目がすぐに箱へ向く。
「何」
「補習線と予備倉庫の移動台帳です」
フェンが箱の留め具を外す。 中には、紙の色の違う記録が何年分も詰まっていた。
「昨日の件で補習補助の運用を洗いました」
「ジャレット先輩は」
ユノが小さく訊く。
フェンは彼女へ視線を向け、少しだけ言葉を選んだ。
「補助から外しました。今は教員預かりです」
リタの肩から、目に見えて力が抜けた。 昨日までなら、そういう反応を隠そうとしただろう。 今日は隠せていない。
「ただし」
フェンの声がわずかに硬くなる。
「あれで終わりではありません」
ノアが頷く。
「知ってる」
「でしょうね」
フェンは一番上の数枚を広げた。
「コールの担当区画だけでは説明できない移動が、先月から増えています」
「特に 査定前 補習前 予備に回される直前 の器具で」
そこで、カイルが眉をひそめた。
「悪い時期ばっかり」
「ええ」
フェンは素直に認める。
「それに、その修正記録の筆跡に、昨日ノアが拾った字と同じ癖がある」
ノアの指が、紙の上へ伸びた。
細い字。 右へ流れる払い。 急いでいるのに、妙に均整だけ残している書き方。
「こっち」
「分かるか」
「同じ人」
短い答えだった。 だが、疑う余地のない声だった。
フェンはそこで、俺を見た。
「レオ先生」
「何だ」
「昼休みと放課後、少し教室を借ります」
命令ではなかった。 それが、少しだけ大きかった。
「相談しに来る生徒が増えているのは承知しています」
言ってから、フェンは一瞬だけ教室の椅子を見る。 増えた椅子まで、ちゃんと見ている顔だった。
「だからこそ、この部屋で見たい」
「補習線の疑義票も、今日から一度ここへ回します」
「席が要る相談は、廊下で立たせたままにしない方が早い」
ヒナが木刀の柄を軽く叩く。
「何でE組じゃだめなの」
「だめです」
フェンは迷わず言った。
「向こうで台帳を開けば、誰が何を見ているかもすぐ広がる」
ノアが紙の端を押さえたまま言う。
「ここなら来る理由が他にもある」
「そういうことです」
フェンが頷く。
つまり、昼休みにここへ誰かが来ること自体が、もう不自然ではなくなっている。 昨日までなら、隠れ場所だった。 今日はもう、出入りのある場所になり始めていた。
言ったそばから、扉が一度だけ控えめに叩かれた。 見覚えのないE組の二年が、折った紙を胸の前で持ったまま立っている。
「フェン先生に、疑義票です」
それだけ言って、教室の中へは入らず去っていった。 フェンは驚きもせず、その紙を記録箱の横へ置く。 旧校舎のこの部屋が、もう本当に 先に持ってくる窓口 になっている。
「分かった」
俺は言う。
「ただし、来た生徒を追い返す気はない」
「承知しています」
その返事の速さが、少しだけ可笑しい。 フェンは空いていた一番低い古椅子を当然みたいに自分の側へ引き寄せ、記録箱の角だけをそこへ預けた。 ぐらつく机に子どもの紙を広げる気はないらしい。 フェンも、もうこの教室のやり方へ合わせ始めているのかもしれなかった。
◇
昼休みの鐘が鳴る前から、旧校舎の前には足音が集まり始めた。
最初に来たのはユノだった。 昼の前なのにもう布袋を持っていて、教室へ入ると当然みたいに端の席へ置く。
「今日は早いな」
「E組、午前で訓練区画の確認が終わったので」
次に来たのはリタだ。 今日は一人ではない。 背の低い一年生の少年が、彼女の半歩後ろに隠れるようについてきていた。 扉のところで止まる。 ノックは、リタが代わりにした。
「あの、この子、少しだけいてもいいですか」
ヒナが眉を寄せる。
「誰」
「F組のミオです」
少年はびくりとしたが、逃げなかった。
「盾紐の結び方、また分からなくなったみたいで……」
「何でここに来るの」
ヒナの言い方は相変わらず刺さる。 だが、リタはもう昨日のリタではなかった。
「フェン先生が、困ったら旧校舎で聞いていいって」
リタはそこで一度だけミオを見た。
「それで、わたしも、ここで聞けばいいって思ったので」
その一言で、教室が少し静かになった。
大げさな言い方ではない。 ただ、来る先としてここを選んだだけだ。 なのに、その事実がやけに大きい。
ヒナは面倒そうに髪をかき上げ、それからミオへ顎をしゃくった。
「座れば」
少年は目を見開き、慌てて頭を下げた。
「あ、ありがとうございます」
「礼はいい」
雑だ。 だが、席は空いている。 カイルが近くの古椅子を足先で引き寄せ、一度だけ座面を押してからミオへ顎をしゃくった。 座れと言っているだけだ。 それでも、ああいう無言の雑さは、案外助かる。
セレナがすぐに布袋を一つ差し出した。
「あの、緊張すると指、固くなるので」
ミオはそれを両手で受け取る。 視線が忙しく揺れていたが、ちゃんと教室の中へ入ってきた。
その少し後、フェンが記録箱を抱えて入ってきた。 カイルは無言でその脇へ寄る。
昼休みの旧校舎が、気づけばひとつの流れになっている。 誰かが相談に来る。 誰かが席を譲る。 誰かが中途半端に扉のそばで止まる。 そして、それをもう誰も大事件のようには扱わない。
ノアが机を指で叩く。
「で」
顔を上げる。
「調べる」
フェンが箱を開けた。
「まず移動記録です」
紙の束が三つに分けられる。 予備倉庫、補習線、査定前移動。
ノアは真ん中を引き寄せ、ユノは補習線の棚番号を読み上げる。 カイルは区画名を見てすぐ位置を思い出し、リタは昨日の持ち出し票と見比べる。セレナは紙へ残った油染みの匂いを確かめていた。 誰か一人の手つきじゃない。 気づけばもう、教室の中で役割が自然に分かれている。
「これ」
最初に口を開いたのはユノだった。
「この棚番号、見たことあります」
指先が台帳の端を押さえる。
「E組の前日確認の時、本来の棚じゃなくて 西側仮置き から出してって言われた器具です」
カイルがすぐに言った。
「F組の予備盾もそこだ」
リタも頷く。
「昨日の票、そう書いてありました」
フェンが眉を寄せる。
「西側仮置きは、臨時の移動でしか使いません」
「でも、使われてる」
ノアが紙をめくる。
「何回も」
俺も一枚受け取って目を通す。 西側仮置き、西側通路、西棟搬送口。 同じ言葉が、何度も出てくる。 しかも、問題が起きた器具の直前にだけ。
「搬送口」
そこで、セレナが小さく呟いた。
全員がそちらを見る。 セレナは少しびくりとしたが、視線は紙から離さなかった。
「この油、訓練器具の手入れ用じゃない、です」
「分かるのか」
「はい」
彼女は指先を鼻先へ近づける。
「医務室の寝台の車輪に差す油に、少し似てます。重いものを運ぶ時の……軸油、だと思います」
フェンの目が変わる。
「運搬台車」
「それなら、西棟搬送口を通る」
カイルがすぐに繋いだ。
「器具庫から直接じゃなくて、一回外へ回す時に使う」
「わざわざ?」
俺が訊く。
「帳簿上の置き場所を一回ずらせる」
ノアだった。
「元の棚から消える。仮置きに置いたことにすれば、細かい傷も追いにくい」
それは、嫌になるくらい筋が通っていた。 壊すためだけではない。 雑な器具を どこから来たか分かりにくい位置 へ置き直している。
「誰ができる」
ヒナが低く訊く。
フェンはすぐには答えなかった。 数秒だけ考え、それから口を開く。
「整備係。搬送補助。訓練棟の管理助手」
「多いな」
「ええ」
フェンの表情は苦い。
「だから絞る必要がある」
ノアが新しい紙を一枚抜いた。
「これ、変」
差し出された台帳の一頁は、半分だけ不自然に薄かった。 文字のあった跡だけが、紙肌に沈んでいる。
「何だこれ」
「抜いてる」
ノアは淡々と言った。
「上から一枚、切ってある」
よく見れば、綴じ目のところがほんの少しだけ荒い。 他の頁より、そこだけ繊維が乱れている。
フェンが顔をしかめる。
「持ち出した時には気づきませんでした」
「わざとかも」
カイルが言う。
「重ねたまま持てば分かりにくい」
ユノの声が少しだけ強くなる。
「じゃあ、その頁にあったんですか」
「たぶん」
ノアは指で綴じ目をなぞった。
「E組の前日。F組の前日。その間」
ちょうど、欲しいところだけだ。
ヒナが舌打ちする。
「感じ悪」
「感じだけじゃ済まない」
俺が言う。
「こっちが見に来るのを前提で抜いてるなら、相手は思ったより近い」
その瞬間、扉が二度、控えめに叩かれた。
全員の視線が一斉に向く。 空気が少しだけ張る。
「ど、どうぞ」
セレナが答えると、入ってきたのは見慣れない二年生だった。 青い訓練帯に、小さな工具袋。整備係見習いらしい制服だ。
だが、顔は困惑でいっぱいだった。
「すみません、フェン先生」
少年は入口で立ち止まる。
「西棟の台帳、こっちにあるって」
フェンがわずかに目を細めた。
「誰に聞きました」
「え」
少年は露骨に詰まる。
「その、管理室の人が……」
「名前は」
「し、知らないです。ただ、早く戻せって」
そこでノアが、抜かれた頁の綴じ目へ指を置いたまま言った。
「先生」
「何です」
「返す前に、順番だけ写す」
フェンは一瞬だけ黙った。 それから、短く頷く。
「ええ」
少年は目を白黒させたが、教室の中の空気に押されたのか、それ以上は何も言えなかった。
ユノが台帳番号を読み上げ、カイルが棚位置を記憶から補い、リタが日付を追い、セレナが抜けた箇所の上下だけを書き留める。 ミオはもう何も分からない顔のまま、でも布袋を握って席に残っていた。
来客用に増やしたはずの椅子で、今は記録の穴を埋めている。
それが少し可笑しくて、少し頼もしい。
やがて、ノアが紙から顔を上げた。
「見えた」
「何が」
ヒナが訊く。
「抜かれた頁の前後」
ノアは書き留めた数字を机に並べる。
「西棟搬送口を通った器具、三回」
指先が一つずつ叩く。
「E組前日。F組前日。あと一回」
「どこだ」
俺が訊く。
ノアは最後の数字を見た。
「明日」
教室の空気が、また変わる。
「明日の共同基礎訓練」
カイルがすぐに顔を上げた。
「C組とE組が西棟使う」
「補習じゃない」
ユノの声に、緊張が混じる。
「でも、支援訓練の器具、入ります」
フェンは数秒だけ考えた。 その顔はもう、昨日までの 教員として処理する顔 ではない。 現場へ降りると決めた教師の顔だった。
「台帳は戻します」
低く言う。
「ただし、明日の搬送は私が見ます」
ヒナがすぐ言う。
「私も行く」
「分かっています」
フェンの返しも早くなっている。
「ノア」
「見る」
「カイル」
「現場行く」
「ユノ」
呼ばれて、ユノは一瞬だけ息を呑んだ。 だが、すぐに頷く。
「支援器具の順番、分かります」
「リタは」
俺が見ると、リタは少しだけ迷ってから口を開いた。
「わたし、票の形なら覚えます」
昨日なら言えなかったはずの声だった。
セレナがその横で、小さく言う。
「じゃあ、戻ってきた時、すぐ座れるようにしておきます」
戦うと言っているわけじゃない。 でも、ちゃんとこの輪の中にいる言い方だった。
扉のところで待っていた整備係見習いが、困った顔のままフェンを見た。
「あの……台帳」
フェンは箱を閉じる。
「今返します」
そして、教室を見渡した。 増えた椅子。 開かれた紙。 座ったまま帰らない来客たち。
「……機能していますね、この部屋は」
それは独り言に近かった。 だが、たしかにこの部屋へ向けた言葉だった。
ヒナが少しだけ目を細める。
「今さら」
雑な返しだ。 それでも、否定ではない。
ノアが机の上の紙を見たまま付け足す。
「遅いけど、間違ってはない」
「それ、フォローのつもりか?」
俺が言うと、セレナが紙コップを並べながら小さく続けた。
「でも、遅くても、来てくれる方がいいです」
その一言で、教室の空気が少しだけ静かに落ち着いた。
フェンが箱を持って出ていき、整備係見習いもその後ろを慌てて追った。 扉が閉まる。
昼休みの終わりが近づいている。 それでも、誰もすぐには立たなかった。
ノアが机へ新しい紙を置く。
「明日、西棟」
「ああ」
「来る人、増えるかも」
言いながら、扉の横の紙を見る。 用があるなら、先にノック。
そこへ、ヒナが立ち上がって歩いていく。 紙の下へ、もう一枚だけ雑に貼り足した。
困る前でも、来ればいい。
字は汚い。 でも、誰の字かはすぐ分かった。
ヒナは俺たちを見ずに窓際へ戻る。
「先に言わせた方が、後で面倒じゃないし」
ぶっきらぼうにそう言った。
昼の光の中、増えた椅子が静かに並んでいる。 来る場所になった途端、見張る目も増えた。 それでももう、この教室は前みたいに閉じてはいない。 しかも今日は、補習線の疑義票まで一度ここを通ることになった。
明日、西棟で何かが起きるかもしれない。 たぶん、それはまだ事件の入口だ。 けれど、戻ってきた時に座れる場所なら、もうここにある。 入口の前で待てる人間が増えただけじゃない。 入口そのものが、もう少しずつここへ繋がり始めていた。




