第12話 支える役は、後ろじゃない
翌朝、旧校舎の教室には、いつもより一つ多く湯気が立っていた。
セレナが小さな鍋を持ち込んで、教卓の端で薬草を煮ている。 医務室から分けてもらった葉らしく、苦いというより落ち着く匂いが、冷えた空気にゆっくり広がっていた。 セレナが昨日口にした 助けを求めていい場所 は、こういう朝の手間から形になっていく。
「何してるんだ。朝から保健室の支店が出てる」
俺が訊くと、セレナは少し肩を揺らした。
「あの……落ち着く匂いの葉、なので」
その言い方で分かった。
「ユノの分か」
「は、はい」
セレナは鍋の持ち手を握り直した。
「昨日、ずっと指先がこわばっていたので……飲めなくても、匂いだけで少し変わるかなって」
教室の扉が遠慮がちに叩かれたのは、その直後だった。
入ってきたのは、ちょうど噂をしていた相手本人。 ユノは昨日よりさらに早い時間に来たらしく、目の下にうっすら影がある。眠れなかった顔だ。
「お、おはようございます」
「おはよう」
返すと、ユノは教室の匂いに気づいたように目を瞬かせた。
「これ……」
セレナが小さな布袋を差し出す。
「その、熱いのは持ち歩けないので。葉だけ少し包みました」
薄い生成りの袋だった。縫い目は少し歪んでいるが、丁寧に作られている。 ユノは受け取っていいのか分からないみたいな顔をしたあと、そっと両手で包み込んだ。
「……いいんですか」
「落ち着くまで、持っていてください」
セレナはそこまで言ってから、少しだけ目を伏せる。
「全部ちゃんとしなきゃって思うと、もっと苦しくなるので」
昨日、自分で言ったことの続きだった。 ユノは布袋を見下ろし、それから小さく頷く。
「ありがとうございます」
そのやり取りを、ヒナは窓際から黙って見ていた。 やがて面倒そうに立ち上がると、鞄を肩に引っかける。
「行くなら早くして。遅れると、あっちの教師が余計うるさそう」
「ヒナ」
「何」
「お前も来るんだな」
「昨日言ったでしょ」
そっぽを向いたまま答える。
「支える役の実例、見せた方が早いって」
ノアは一番後ろの席で本を閉じた。 今日のこいつは、本の代わりに小さな手帳を持っている。
「設備も見る」
「そこだけ妙にぶれないな」
「昨日の壊れ方、変だったから」
淡々としているが、気にしている時の顔だった。
◇
E組の訓練区画は、旧訓練場よりずっと整っていた。
壁も床もきれいに磨かれていて、訓練器具は用途ごとに整列している。朝の光が可動板の軸金具で白く跳ね、生徒たちの隊列も寸分違わず揃っていた。旧校舎の雑多さとは正反対だ。 だからこそ、その場にゼロ組の四人が立っているだけで目立った。
「本当に来た」 「ゼロ組だろ」 「何しに」
囁きは抑えられているが、隠れてはいない。
ユノの足が一瞬だけ止まる。 その横で、セレナが小さく言った。
「匂い、まだありますか」
「え」
「布袋」
ユノは慌ててポケットに手を入れた。
「あ、あります」
「なら、大丈夫です」
根拠を断言するような声じゃなかった。 けれど、そのやわらかさがちょうど良かったのだろう。ユノの呼吸が、少しだけ深さを取り戻す。
訓練区画の中央で、ダリオ・フェンがこちらを見た。 灰色の教師コートは今日も隙がない。
「時間通りですね、ベル」
「は、はい」
「アーヴィン先生方も」
俺に向ける声音は丁寧だ。 だが、歓迎ではない。
「安全確認と査定観察で同席する」
「そう聞いています」
フェンは頷き、それからE組の生徒たちへ視線を向けた。
「本日は補助査定前の事前確認です。形式は二人一組の前進突破。可動障害板三枚、移動標的二つ、終点杭への到達までを測定します」
要するに、攻めて抜ける訓練だ。 ユノのような支援型には厳しい。
「ベル」
フェンに呼ばれ、ユノが肩を強張らせる。
「お前の暫定相方はカイル・ヴァーン」
前列から一人の男子生徒が出てきた。 ユノと同学年だろう。短い銀髪に、焦ったような鋭さのある目をしている。槍を使うタイプらしく、右手の指先だけタコが厚い。
「よろしく」
そう言ったが、声に温度はなかった。 ユノも「よろしく」と返したものの、語尾はほとんど消えている。
ヒナが小さく舌打ちする。
「あれ、絶対待たない顔」
「待つの、得意じゃなさそうだな」
俺が答えると、ノアが訓練板の並びを見たまま言う。
「右側二枚目、軸が少しずれてる」
「もう分かるのか」
「見れば」
今日もそういう顔だった。
◇
一回目は、案の定うまくいかなかった。
開始の合図と同時に、カイルは前へ出た。 速い。迷いもない。 だが、速すぎる。
ユノが一本目の糸を張る前に、もう二枚目の障害板へ踏み込んでいる。
「待っ」
言い終わる前に、二枚目の可動板が大きく揺れた。 ユノは慌てて二本目、三本目まで一気に出そうとする。 糸が途中でよじれ、一本が空中で切れた。
カイルが舌打ちしながら着地をずらす。 それでも体勢は崩れ、槍先が標的を浅く掠めるだけで終わった。
「時間切れ」
フェンの声が区切る。
訓練区画に、息の詰まる沈黙が落ちた。
「やっぱり」 「ベルじゃ無理だって」 「前からそうじゃん」
E組の後列で、小さな囁きが重なる。 ユノは俯いたまま動かない。 ポケットの中で、布袋を握る指だけが白くなっていた。
ヒナが露骨に顔をしかめた。
「今の、ベルだけの失敗じゃないでしょ」
カイルの顎が強張る。
「……分かってる」
ノアが訓練板の並びを見たまま言う。
「一本目が出る前に、二枚目へ踏み込んだ」
「糸より先に前衛が速い」
切れた糸の反動で傷ついたのか、右手の人差し指に細い赤い線が浮いている。 セレナが息を呑み、一歩だけ前へ出た。
「……少しだけ、治しますか」
ユノは戸惑って、セレナと俺を見比べた。 セレナの治癒は優しいだけの力じゃない。だからこそ、この子はいつも先に相手を見る。
「セレナ、頼む」
俺がそう言うと、セレナの肩から少しだけ力が抜けた。 彼女はユノの指先にそっと触れる。ユノはびくりとしたが、すぐに目を瞬かせた。
「……あれ」
「浅い傷なので、あまり痛くないです」
セレナは隠さずに言う。
「大きい怪我の時は、先にちゃんと言います」
ユノは小さく頷いた。
「ベル」
フェンが呼ぶ。
「現段階の前進突破適性は低い。補助査定では役割再判定を前提に」
「待ってください」
俺が口を挟むと、訓練区画の視線が一気にこちらへ集まった。 フェンの眉がわずかに寄る。
「何でしょう」
「今のは、能力の不足だけじゃない」
「連携の不足でもあります」
フェンは即答した。
「だから再判定を」
「その判定基準が雑だと言っている」
空気がぴんと張る。 後ろでヒナが口の端を上げた。面倒事が始まる時の顔だ。
「ベルの糸は攻撃の代用品じゃない」
俺は訓練板を指した。
「足場固定、動線保持、前衛の踏み切り補助に強い。今の形式でも役割の置き方を変えれば生きる」
フェンの目が冷える。
「E組は攻撃実技を含む実戦クラスです」
「前に出るやつだけで実戦になるなら、仲間を落とす訓練で済む」
俺が言うと、フェンの視線が少しだけ鋭くなった。
「落とさないために適性を切り分けています」
「支える役が前進突破に必要ないと言うなら、その方が現場を見ていない」
数秒、互いに視線がぶつかる。 先に口を開いたのはカイルだった。
「じゃあ何ですか」
苛立ちを抑えきれていない声だった。
「こいつに、俺の足引っ張られろってことですか」
ユノの肩がびくりと震える。
その瞬間、ヒナが一歩前へ出た。
「引っ張ってんの、どっち」
声は低い。 睨まれたカイルが思わず口を閉じる。
「返事もしないで先に行って、三本全部使わせようとして、失敗したら遅いって顔してる」
「部外者は黙っててください」
フェンが言う。
ヒナは鼻で笑った。
「部外者だから言えるんだけど」
これ以上ぶつかると余計に拗れる。 俺はヒナの前へ半歩出た。
「一回だけ、別条件で見せてくれ」
「誰が」
「ベルが」
「相方は」
俺は隣を見た。
「ヒナ」
「やるけど」
返答が早い。
「二本でいいなら」
ユノが顔を上げる。
「わ、わたしが?」
「そうだ」
俺はできるだけ短く言う。
「三本全部じゃなくていい。二本だけで支えろ。役割は前に出ることじゃない。前に出るやつを通すことだ」
ユノの呼吸がまた乱れそうになったところで、セレナがそっと隣に立った。
「……最初の一本だけ、決めましょう」
「え」
「一枚目の板です。そこだけ最初に決めて、次はヒナさんを見てからで」
ユノはセレナを見る。 セレナの声は小さい。けれど、逃がさない。
「全部いっぺんに見なくていいです」
昨日も今日も、その言葉で支えている。 ユノはポケットの布袋を握りしめ、ほんの少しだけ頷いた。
ノアが訓練板を見たまま言う。
「右側はやめた方がいい。二枚目の軸がずれてる」
「なら左から行く」
ヒナは木刀を肩に担ぎ直す。
「ユノ」
「は、はい」
「私が踏む前だけ、板を止めて」
「そのあと、すぐ次ですか」
「次は私を見る」
ヒナはぶっきらぼうに言った。
「合わせるから」
その一言に、ユノの目が揺れた。 誰かが自分に合わせると、たぶんそう言われ慣れていないのだ。
「始めます」
フェンの声で、訓練区画が静まる。
開始と同時に、ヒナが走った。 速い。 だが、昨日の訓練場と同じだ。速さだけで押し切らない。
一枚目。 ユノの糸が張る。 板の揺れが鈍る。
ヒナが踏む。 半歩だけ踏み幅を詰める。
二枚目。 ユノの視線が一瞬だけ迷う。
「今」
ヒナが短く言う。 命令じゃない。合図だ。
その一言で、ユノの手首が動く。 二本目の糸が別角度から張られ、板がぎりぎりで持ちこたえた。
ヒナはそのまま標的の横を抜け、木刀の腹で中心を正確に叩く。
見ていたE組の何人かが、息を呑む音が聞こえた。
「もう一回」
今言ったのは、フェンだった。 無表情のままだが、さっきより少しだけ目が鋭い。
「同条件で、ヴァーン」
カイルが前へ出る。 顔は不満そうだ。だが、今の成功を見た以上、完全には切り捨てられない。
「……返事すればいいんですよね」
ヒナが露骨に笑う。
「最初からそうしろ」
俺はヒナを下がらせ、カイルとユノを並ばせた。
「ベル、二本まで」
「はい」
「ヴァーン」
「分かってます」
「返事」
横からノアが言った。 カイルが一瞬だけむっとする。 だが、ここで無視すると余計に格好がつかないと分かったのだろう。
「……了解」
開始。
今度はカイルが一拍だけ待った。 それだけで、前の失敗とは流れが変わる。
一枚目、固定。 二枚目、少し遅れる。 だがユノは、三本目へ無理に伸ばさなかった。
「右」
短い声。 カイルのだ。
ユノが反応し、二本目の角度を変える。 板の傾きが収まり、カイルの踏み込みが繋がる。
標的への一撃は、さっきより明らかに深かった。 終点杭までの到達も、前回より速い。
「終了」
フェンが計時板を見る。 教室で見た時と同じ無表情のまま、しかし今度はすぐには結論を言わなかった。
「……記録更新です」
後列の誰かが、思わず声を漏らした。
ユノが呆然と立ち尽くす。 自分の記録だと分かるまで、一拍かかったらしい。
「ベル」
フェンが呼ぶ。
「補助査定の事前判定を修正します」
ユノの喉が鳴る。
「前進補助、足場固定、進路保持を主軸とした支援役として再設定。補助査定ではその役割で評価する」
フェンはそこで終わらせず、計時板の脇へ歩いた。 白墨が短く鳴る。 仮組み表に残っていた 後ろ寄り補助 の文字が消され、代わりに 支援役 と引き直された。 訓練区画の空気が、そこで一度だけはっきり変わる。
「た、担任……」
「勘違いしないように」
フェンの声は厳しいままだ。
「評価方法を合わせただけです。ここで結果が出なければ、次はありません」
それでも、ユノの顔には血が戻っていた。
「はい」
返事は震えていたが、今度は消えなかった。
フェンは次にカイルを見る。
「ヴァーン」
「はい」
「補助役を急かすな。お前の突破速度は、お前一人の速度ではない」
カイルが口を引き結ぶ。 不満と納得が半々の顔だ。
「……了解です」
その返事は、最初より少しだけ素直だった。
カイルはそこで終わらず、少しだけ言い淀んでから続けた。
「次の組み直しも、ベルで」
ユノが目を見開く。 フェンは二人を一度だけ見て、それから短く頷いた。
「結果が続くなら、そのまま組みます」
◇
E組の生徒が整理に入る中、ノアは訓練区画の端にしゃがみ込んでいた。 視線の先は、二枚目の可動板の軸だ。
「何か見つけたか」
声をかけると、ノアは指先で金具を示した。
「昨日の柵と同じ削れ方」
「劣化じゃないのか」
「自然に緩んだなら、こっち側だけこうはならない」
金具の片側だけが、不自然に薄い。 こすったというより、削られたような減り方だった。
「放置じゃなくて」
「手が入ってる可能性がある」
後ろで靴音が一つ止まった。 振り向くと、片付けを終えたカイルが少し離れた位置でこちらを見ていた。
「その金具」
言いにくそうな顔のまま、カイルが口を開く。
「昨日の朝は、そこまで削れてなかったです」
「分かるのか」
「開始前に、毎回一回叩くから」
ぶっきらぼうな声だったが、内容は具体的だ。
「緩んでると踏み込みで怖いし」
それはこいつなりに、ちゃんと現場を見ている生徒の言い方だった。
「フェン先生には」
「まだです」
カイルは少しだけ顔をしかめた。
「負けた言い訳みたいに聞こえると思ったから」
ノアが手帳を閉じる。
「言い訳でもいい。次から見つけたら先に言って」
カイルは一瞬だけ黙り、それから気まずそうに頷いた。
ノアは立ち上がり、手帳に何かを書きつける。
「結界だけじゃない。訓練設備の方も見た方がいい」
この顔は、完全に次へ進む顔だった。
一方で、訓練区画の入口では、ユノがまだ布袋を握ったまま立っている。 セレナがその隣にいて、何か小さく話していた。 ヒナは少し離れた場所で木刀を肩に担ぎ、E組の様子を眺めている。
「先生」
ユノがこちらへ来た。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「礼はまだ早い。本番で立ってからでいい」
俺はそう返す。
「本番はこれからだ」
「……はい」
ユノは頷き、それから少し迷って続けた。
「でも、前より怖いだけじゃなくなりました」
その言い方なら、十分だった。
昼前の光が、整った訓練区画の床へまっすぐ落ちている。 旧校舎のひび割れた教室とは違う、きれいな場所だ。
それでも今日、ユノが助けを求めに来たのは、あっちだった。
軸金具の不自然な削れ方が、頭の隅から離れなかった。
補助査定まで、あと三日。 ノアの手帳には、カイルの 昨日は違った が並んでいる。




