第11話 助けを求めるのは、早い方がいい
昼休みの旧校舎には、最近、ノック一回で止まる音と、ためらう足音が増えた。
扉の前まで来て、何も言わずに通り過ぎる足音。すりガラスの向こうで一瞬だけ止まって、すぐ遠ざかる影。窓の外から覗いて、ヒナに睨まれて逃げる下級生。 噂になり始めた教室には、こういう半端な来客が増える。 昨日、黒板に残した 助けを求めていい場所 という言葉は、思ったより早く教室の外まで歩き始めているらしかった。
「またいる」
窓際のヒナが鬱陶しそうに言った。
「動物園じゃないんだけど」
「見てるだけならまだ廊下の景色だ。今は檻も札もない」
ノアは机の脚のがたつきを直しながら答える。
「その理屈、何の慰めにもなってない」
セレナは紙コップに薄い薬草湯を分けていた。昼休みに誰かが来てもいいように、最近は一つ多めに用意している。 教室の外の視線が増えた分だけ、中で回る手つきは前より少し自然になっていた。
見捨てられる前に、助けてもらうことってできますか。
扉の前に立つ一学年下の少女は、そう言ったきり、次の言葉を出せずにいた。 両手で教材鞄を抱き締める力が、見ているこっちまで苦しくなるくらい強い。
廊下から吹き込んだ風で、扉が少しだけ軋んだ。 その音に肩を跳ねさせたのを見て、俺は一歩だけ前へ出る。
「入れ。廊下で抱えるには重そうだ」
短く言うと、少女は目を瞬かせた。
「で、でも」
「廊下で抱えたまま話す内容じゃないんだろ」
躊躇いはまだ残っていたが、やがて少女は小さく頷いた。 靴音をできるだけ殺そうとするみたいに、そろそろと教室へ入ってくる。
ヒナが腕を組んだまま、その姿を見ていた。
「誰」
「E組の、ユノ・ベルです」
今度は少しだけはっきり言えた。 薄茶の髪を肩口で切りそろえた、小柄な子だ。制服はきちんとしているが、袖口だけ妙に擦れている。糸くずが出る手前で、何度も机の角に引っかけたみたいな傷み方だった。
セレナが自分の席から立ち上がる。
「あ、あの、こっち……座れます」
ユノは驚いた顔でセレナを見た。 それから、もう一度俺を見る。許可を確かめるみたいな目だった。
「座るといい」
「……はい」
椅子に腰掛けても、鞄は膝の上から離さない。 ノアは本を閉じていたが、口は挟まなかった。黙って見ている時のこいつは、大抵見落とさない。
「さっきの話、もう少し聞かせてくれ」
ユノの喉が上下する。
「わたし、その……来週、補助査定があって」
「E組の中間補助査定か」
頷き方が、小さく速い。
「そこで結果が出ないと、観察枠に移されるかもって言われました」
ヒナが眉をひそめた。
「観察枠?」
「名目だけだ」
俺が答える。
「実質は、切り離し候補の前段階だ」
セレナの顔色が少しだけ悪くなった。 ヒナは露骨に舌打ちする。 ノアだけが静かにユノを見ていた。
「何ができないの」
ぶっきらぼうに聞いたのはヒナだった。 問い方は雑だが、無視よりはずっとましだ。
ユノはびくりとしたものの、逃げはしなかった。
「攻撃実技、です。あと、対人の連携」
「弱いの?」
「……弱い、です」
その言い方に、ただの謙遜ではない重さがあった。
「わたしの魔術、糸しか出なくて」
「糸?」
今度はノアが反応した。
「どういう系統」
「繋糸です。細い魔力糸を出して、物に引っかけたり、結んだり……少しだけ引いたり」
「出力は」
「低いです」
「持続は」
「集中できれば、少し」
「数は」
「三本まで……でも、動いてる相手にはうまくかけられません」
質問が続くほど、ユノの答えは少しずつ整っていく。
「それで?」
ヒナが頬杖をつく。
「何でゼロ組に来たの」
その問いに、ユノはほんの少しだけ黙った。 言うか迷って、それでも言わないと来た意味がないと決めた顔だった。
「ゼロ組の先生なら、見捨てないって……聞いたので」
教室が静かになる。 セレナが目を伏せる。 ノアは表情を変えない。 ヒナだけが、あからさまに居心地悪そうな顔をした。
「……面倒な広がり方してる」
ヒナがぼそりと言う。
「でも、来たのは早いです」
セレナがユノを見る。
「手遅れになる前の方が、いいので」
ノアが短く言った。
「それは正しい」
「誰から」
「き、昨日の訓練場で……見てた子たちが」
ああ、と思う。 朝から廊下がうるさかった理由の、その延長だ。 教頭へ言い返した話も、戻ってきた話も、想像以上に早く広がっている。
「先生」
ユノは膝の上の鞄を抱えたまま、俺を見た。
「わたし、ゼロ組に入りたいわけじゃなくて」
「うん」
「ちゃんと、E組に残りたいです」
そこははっきりしていた。
「でも、今の担任の先生には、攻撃実技で結果を出せないなら意味がないって言われて」
「名前は」
「フェン先生です」
覚えがある。 E組担任、ダリオ・フェンだ。
「わたし、努力はしてるんです」
ユノの声が、少しだけ震えた。
「でも、うまくできないと、だんだん何をやっても遅くなって……次は失敗しないようにって思うほど、もっと遅くなって」
セレナが、ぎゅっと自分の指先を握る。 たぶん、分かるのだろう。失敗した先にある怖さが。
「査定まで、あと四日です」
ユノは息を吸った。
「だから……見捨てられる前に、助けてもらえたらって」
それで、ようやく最初の言葉に戻る。
俺は少しだけ考え、それから立ち上がった。
「今から見よう」
「え」
「能力も、動きも、癖も。話だけじゃ分からない」
ユノの目が丸くなる。 ヒナは即座に顔をしかめた。
「今から?」
「昼休みはまだ残ってる」
「私らも?」
「もちろん」
「なんで」
「授業だからだ」
「便利だね、その言葉」
文句を言いながらも、ヒナは立ち上がる。 ノアも何も言わずに本を閉じた。 セレナは不安そうにユノを見て、小さく笑う。
「だ、大丈夫です。ここ、怒鳴られないので」
ユノはぽかんとしたあと、少しだけ力の抜けた顔で頷いた。
◇
旧訓練場の隅は、昼でも人が少ない。 だが昨日の今日だ。完全に無人というわけにはいかなかった。 遠巻きにこちらを見る生徒が何人かいる。露骨に近づいてはこないが、噂はまだ新しい。
「気にしなくていい」
俺が言うと、ユノは素直に頷いた。 頷いたが、指先はまだ強張っている。
「まず、見せてみろ」
訓練用の木杭を三本立てる。 間隔は広め。動かない目標だ。
「一本に糸をかけてみてくれ」
「はい」
ユノは深呼吸して、右手を前へ出した。 指先から、ほとんど透明に近い糸が伸びる。
細い。 だが、形は安定している。
一本目の杭には問題なく絡んだ。 続けて二本目。 ここまでも悪くない。
三本目へ伸ばした瞬間、糸が途中でぶれ、霧みたいにほどけた。
ユノの肩が跳ねる。
「すみません」
「謝るな。今のは何で切れた」
「見る場所が増えると、集中が散って」
「散るのは視界か、意識か、魔力配分か」
「……全部、です」
ノアが小さく息をついた。
「もったいない」
ユノがびくりとする。 こいつの言い方は、褒めていても刃物みたいだ。
「え」
「糸の精度は低くない。三本目で崩れるのは、出力不足より処理順の問題」
「処理順?」
「一度に全部見ようとしてる」
ノアは木杭の配置を見る。
「一本目を固定したあとも、そこを見続けてる。だから次の制御が遅れる」
ユノは息を飲んだ。
「……分かるんですか」
「見れば」
「性格悪い言い方」
ヒナが横から言う。 だが、その視線は木杭ではなくユノの手元を見ていた。
「でも確かに、糸そのものはそんな弱くない」
「ヒナも分かるのか」
「そりゃね。締まり方がちゃんとしてるから」
ユノが困惑と驚きの入り混じった顔になる。 ゼロ組の人間に能力を見られること自体、たぶん想定していなかったのだろう。
「じゃあ次」
俺は木杭を一本外し、代わりに可動板を置いた。 軽く蹴ると、ぎい、と嫌な音を立てて揺れる。
「その板が倒れないよう、糸で支えてみてくれ」
「支える?」
「攻撃より先に、できることを確認する」
ユノは戸惑った顔のまま、それでも糸を伸ばした。 板の端と後ろの支柱を結ぶ。 揺れはまだ大きいが、完全には倒れなくなった。
「もう一本」
俺が言うと、二本目を別角度から張る。 今度は揺れが目に見えて小さくなった。
ヒナが口を開く。
「それ、絡め取る方が向いてるんじゃ」
「違う」
ノアが先に言う。
「引っ張るより固定が速い」
「……ああ」
「え?」
ユノが振り向く。 ヒナは自分の木刀を肩に担いだまま、面倒そうに続けた。
「崩れそうな板とか、踏み切りの前に一瞬だけ固定できるでしょ」
「で、でも、攻撃じゃ」
「誰が攻撃だけやれって言ったの」
ぴしゃりと返され、ユノは黙る。
「戦うって、殴ることだけじゃない」
それはヒナらしい物言いではなかった。 本人も言ってから少しだけ気まずそうに顔を逸らす。
「……まあ、私は殴るけど」
「知ってる」
思わず返すと、ヒナが睨んだ。
「茶々入れないで」
でも、完全には怒っていない。
「先生」
セレナが控えめに手を挙げた。
「その子、最初に三本は難しそうなので、二本まででいいって決めた方が……怖くなりにくいかもです」
ユノがそちらを見る。
「怖く」
「は、はい。全部ちゃんとやらなきゃって思うと、余計に固まること、あるので」
自分のことも少し入っている声だった。 ユノはその言葉を聞いて、ほんの少しだけ顔を上げる。
「……あります」
「じゃあ、今日は二本まで」
俺は即座に決めた。
「三本目はまだ要らない。お前は今、足りないものを足そうとしすぎてる。先に、使える二本を確実にしろ」
「でも、査定では」
「査定の形式に、お前の価値を全部合わせる必要はない」
俺は板の前に立つ。
「見せるべきは、弱い攻撃魔術の真似じゃない。お前にしかできない役割だ」
ユノが黙り込む。 その沈黙は、否定ではなく考えている方の沈黙だった。
「ヒナ」
「何」
「少し走ってくれ」
「雑」
「分かってる」
可動板を二枚、わざと不安定に置く。 その向こうに木杭。ヒナが最短で走れば、二枚目の足場が滑る配置だ。
「ユノは二本だけ使え。一つ目は一枚目の板、二つ目は二枚目」
「両方、固定するんですか」
「そうだ。ヒナが踏む瞬間だけ持てばいい」
ユノが緊張で固まる。
「失敗したら」
「ここは査定じゃない」
「でも」
「失敗しても誰も切らない」
そう言うと、ユノははっとしたようにこっちを見た。
たぶん、その言葉自体が新しかったのだろう。
「行くぞ」
ヒナが構える。 ノアは少し後ろから板の角度を見ている。 セレナはユノの斜め後ろに立ち、何も言わず、ただそこにいた。
「今」
俺の合図で、ヒナが走る。 速い。 だが、ユノはその速度に呑まれなかった。
一枚目。 糸が張る。 踏み込みがぶれない。
二枚目。 少し遅れる。 板がきしむ。
「右上」
ノアの短い声が飛ぶ。 ユノが反射で手首を返す。 糸の角度が変わり、二枚目の板が持ちこたえる。
ヒナはそのまま木杭の前まで抜け、木刀の腹で軽く叩いた。
「……できた」
ユノが、自分で呟いた。
その声は驚きの方が強かった。
「もう一回」
言ったのはユノ自身だった。 今度は誰にも促されていない。
ヒナが口の端だけ上げる。
「やるじゃん」
「まだ一回だ」
ノアは冷静だ。 だが、その冷静さが逆にいつも通りで、ユノを変に緊張させなかった。
二回目。 三回目。
全部が完璧じゃない。 だが、一本目より明らかに速い。 板を倒さないだけでなく、ヒナの踏み切りの軌道に合わせて支え方まで変わってきている。
「止め」
俺が声をかけると、ユノはようやく両手を下ろした。 少し息が上がっている。 それでも、最初みたいな怯えた顔ではなかった。
「今の感覚、覚えてるか」
「……はい」
「何が違った」
ユノはすぐには答えなかった。 自分の中の手触りを探るみたいに、指先を見つめている。
「三本やらなくていいって、最初に決まってたのと」
ぽつり、ぽつりと言葉が出る。
「全部止めなくていいって、分かったことと」
「うん」
「あと……誰かに合わせる方が、やりやすかったです」
ヒナが眉を上げる。
「私に?」
「は、はい」
「光栄」
全然そんな顔ではないが、声は少しだけやわらかかった。
「自分で攻撃しなきゃって思うと、どこ見ればいいか分からなくなって」
ユノは言いながら、少しずつ自分の能力を言語化していく。
「でも、誰かが動く場所を支えるって決めると、見る場所が減るから」
「それだ」
俺は頷いた。
「お前の問題は、糸が弱いことだけじゃない。役割の設定が雑だった」
「役割」
「攻撃役じゃなく、支える役に置いた時の方が、能力が生きる」
「でも、E組でそんなこと」
「交渉はできる」
俺が言うと、ユノの顔が一気に強張った。
「む、無理です」
「お前一人でやるならな」
ユノが何か言いかけて、入口の方を見た。 砂利を踏み直す音が、一度だけする。 規則正しく、ためらいのない足音が近づいてきた。
振り向く前に分かる。 教師の歩き方だった。
「やはりここにいましたか」
低い声。 灰色の教師コート。無駄なく整えられた身なり。ダリオ・フェンが、訓練場の端で足を止めた。 その視線はまずユノへ、次に俺へ、最後にゼロ組の三人へ流れる。
「ベル」
「は、はい」
ユノの顔から、さっき戻りかけていた血の気が引く。
「昼休みは自由時間ですが、他クラスの訓練に混ざる許可は出していません」
「混ざっていたわけじゃない」
俺が言うと、フェンは感情を動かさずこちらを見た。
「では」
「相談を受けて、授業をした」
「それはゼロ組の生徒に対して行うべきでしょう」
「助けを求める生徒がいるなら、クラスは関係ない」
フェンの眉が、ほんの少しだけ寄る。 表情の動きは小さいが、不快ではあるらしい。
「アーヴィン先生」
「何だ」
「あなたのやり方は、あなたのクラスで完結すべきです」
「査定前に役割を混ぜれば、何ができて何ができないかの評価がぶれる」
「そうやって早く諦めるやり方を、俺の前で見過ごす気はない」
「諦めているのではありません」
フェンの声は低いままだった。
「再現性のある基準で振り分けているだけです」
数秒、空気が止まった。
見物していた生徒たちも、さすがに声を潜めている。
フェンはユノへ向き直った。
「明日の一限、補助査定の事前確認を行います。遅れないように」
「……はい」
小さな返事だった。
「その場で、役割の再判定も入る予定です」
再判定。 実質的には、振り分け直しだ。
フェンはそれだけ告げて踵を返しかける。
「待ってくれ」
呼び止めると、彼は振り向いた。
「俺も同席する」
「必要ありません」
「必要かどうかは見てから決める」
「E組の査定です」
「学院の生徒の査定でもある」
フェンの視線が、少しだけ鋭くなる。 だが、否定を言い切る前に、別の声が挟まった。
「来た方がいい」
ノアだった。 全員がそちらを見る。
「固定具の交換報告が通ってない件、E組訓練区画でも似た記録があるなら、今の時期の実技査定は危ない」
フェンの目が細くなる。
「何の話です」
「昨日の訓練場で壊れた柵支柱」
ノアは淡々と続けた。
「あれだけなら偶然かもしれない。でも、最近の学内設備、壊れ方が雑です」
フェンは即答しなかった。 それだけで十分だった。心当たりがある顔だ。
「……分かりました」
低い声で言う。
「同席は学院安全確認の名目であれば、拒みません」
「そうさせてもらう」
フェンはそれ以上言わず、訓練場を去っていった。
残されたユノは、まだ息を止めていたみたいに肩を上下させる。
「先生」
「何だ」
「明日、本当に来るんですか」
「行く」
「どうして」
「助けを求めるのは、遅いより早い方がいい」
俺はそう答えた。
「来た時点で、もう一人で抱える段階は終わりだ」
ユノはしばらく黙って、それから深く頭を下げた。 下げ方が、さっきよりほんの少しだけ強かった。 怖いままでも、希望が混じった人間の礼だった。
その横で、ヒナが木刀を肩に担ぎ直す。
「明日、私らも行く?」
「来たいなら来い」
「別に」
「じゃあ来なくていい」
「何でそうなるの」
即座に不機嫌になる。 だが、完全に隠す気もない。
「支える役の実例、見せた方が早いでしょ」
「僕も行く」
ノアが言う。
「設備の方も見たい」
「わ、わたしも……」
セレナはそこで一度詰まったが、ちゃんと続けた。
「ユノさんが、一人だと怖いと思うので」
ユノが目を見開く。 それから、今度こそ少しだけ笑った。
大きな笑顔ではない。 でも、ここへ来た時にはなかった顔だった。
昼休みの終わりを告げる鐘が、少し遅れて学院中へ響く。
明日はE組の査定前確認。 ただの見学で終わるとは、たぶん思えなかった。




