5-19 花の匂い(Side Ricardo)
姿が見えぬというのに何種類かの花が混ざった匂いがして、家に居るはずの彼女がそこに居るとわかったのは、これがリカルドにとって二度目だったからだ。
鉄格子で囲まれた檻の中でリカルドが眠っていた時、花の匂いがして目覚めればそこには自分に懸命に手を伸ばしていたスイレンが居た。
だから、その時も確信を持ってリカルドは彼女の名前を呼んだ。
高い塔最上階にある窓の外だというのに透明で触れることの出来る温かな手も、上位竜の不思議な力がどの程度のことが出来るのかを知ればそれは何の不思議もなかった。
守護竜イクエイアスは自身の眷属の竜に対し、ワーウィックが人化の術を使いたいとねだったように、彼らの使える術を制限することも出来るのだ。
ひょんなことから花魔法を使うスイレンを気に入った青い上位竜とて、イクエイアスと同等のことが出来るだろう。
「……リカルド・デュマース。開けなさい」
高飛車な物言いは、ヴェリエフェンディの王女カトリーヌだとすぐに分かった。
おそらく不機嫌であることを隠そうとしないのは、もういい加減にしてくれとリカルドが直接訴えたと王から聞いたからだろうか。
「スイレン。戻れ……必ず帰るから、待っていてくれ」
不思議なものだ。リカルドがそう言えば、今も姿が見えなかったスイレンがそこから居なくなったのだとわかった。柔らかな気配が消えた。
(これとて……俺自身が全て招いたことだ。決して従わずに、静かに拒絶をしていれば、いつか諦めてくれると安易に考えていた。それが今ではどうだ。どんどん要求は増し、まるで我慢比べじゃないか。このままスイレンを悲しませるくらいなら、不利益があったとしても、ここではっきりと言った方が良い)
例え王族の一人に逆らったとて、貴族の身分やここまで積み上げて来た重要性からリカルドが始末される事はないだろう。
リカルドは応えを返すことなく扉へと近づき、それを開け放った。
仰々しいマントを纏い、いかにも王族といった豪華な出立ちのカトリーヌは、強い怒りを表すような扉の開け方をしたリカルドに目を見開いて驚いていた。
今まで彼女の臣下であるリカルドがこのようなわかりやすい無礼を働く事はなく、カトリーヌはそれに甘えて彼が嫌がっているのをわかりつつ近付いていた。
今ではリカルドもそれは悪手だったと、言い切ることが出来る。
「……殿下。私に何用でしょうか」
静かに放ったリカルドの低い声に、カトリーヌはこくんと息を呑んだようだった。
まるで、脅されたかのように怯えた反応を見せるカトリーヌに、リカルドは息をついた。
(自分は何をしても許されるけど、誰かが同じようにすれば気に入らないんだよな。俺がどんな希望を持っていようとも、この人にとってはどうでも良いことだ……自分には、何の関係もないからな)
カトリーヌは現王にとっては唯一の実子であり、世継ぎの王女だ。
本来ならば彼女は女王として厳しく教育され育てられるはずだったのに、王の愛する正妃の子ではなかったことで事態が酷く拗れてしまった。
「いいえ……私は貴方が捕えられたと聞いて、とても心配だったのよ。ただ、様子を見に来たのだけど……」
いつになく強気なリカルドを見て自信なく視線を彷徨わせているカトリーヌに、何の罪もないスイレンに対し何て卑劣なことをしてくれたんだと怒鳴りつけたい気持ちを抑えた。
(いいや……あれだって、状況的にこの人だろうと思うだけで……証拠がないんだよな。取り巻きの令嬢が忖度し勝手にやったことだと言えば、この人は逃げられるんだから)
そして、もし濡れ衣を着せられたとしても、実行犯だとされたご令嬢は何も言えない。
いずれ王位を継ぐ姫に、誰が逆らいたいと思うだろうか。その父親とて娘一人切り捨てただけで事が収まるのなら、そうするはずだ。
(本当に……哀れなものだ。仕える主君が暗君ならば、その手は泥にまみれるだけだというのに)
「あの……どうしたの? 貴方、いつもと違うわ」
じっと自分を見つめ、何も言わないリカルドにカトリーヌは焦れている様子だった。
リカルドはカトリーヌと自分との関係性を十分に把握し、だからこそ慇懃無礼だとしても話しかけられれば礼儀として彼女へ言葉を返して来た。
「……殿下。恋人が私が留守をしていた間に、仕事中に池に落とされたそうです。この凍えるような寒い気温の中」
「えっ……そうなのっ……酷いわね」
リカルドの言葉に不意を突かれたのかカトリーヌは酷く動揺し、狼狽えているようだった。
(まあ……そうだよな。仕事を頑張っているだけのスイレンを池に落として、俺の大事な二人に隠し事をさせるような真似をしたのもこの人だ……許せない)
彼女の態度を見て自分の推理は間違えていないと確信を得たリカルドは、決して逃さぬと追い詰めるようにして言葉を重ねた。
「その後、恋人は体調を酷く崩して……ええ。偶然居合わせた私の友人に救って貰ったのだとか……殿下。俺は二人のことを、誇りに思います。恋人や友人を傷つけまいと行動した。誰かを傷つけぬための嘘は、俺は何もかも許そうと思うんですよ」
リカルドはスイレンとブレンダンを利用して、自分をどうにか思い通りにしようとしても無駄なのだと伝えたかった。
真っ直ぐに見つめる視線に耐えきれなくなったのか、カトリーヌはぶるぶると身体を震わせて言った。
「ちょっと……何の話なの! 私には、関係ないわ! いい加減にしてちょうだい。心配をしてこんなところにまで駆けつけていれば、何の話なの!」
王族の自分が塔の長い階段を苦労して昇り、リカルドの元へとやって来てやったと言いたいようだった。
(俺が、望んでもないのに?)
「それは、申し訳ありません……殿下には、何の関係もない話でしたね。俺の身内の……とても親しい人たちの話でした。それで、何かご用ですか? これからは、来られる前は知らせをいただけますか。王族である殿下をお迎えするように、私も出来るだけ準備したいと思いますので」
お前は身内でもなく自分には無関係な存在なのだと淡々とリカルドに示された事に余程衝撃を受けたのか、カトリーヌは黙ったまま走り去って行った。
(これだけでは、足りない。どうせあの人をこうやって直接拒絶したところで、すぐに忘れる。俺の言ったことなど、聞いてないんだからな)
遠慮がちに警備の者が閉めた扉を見て、リカルドは大きく息をついた。
スイレンの立場は、余りにも弱過ぎる。それは仕方ない。彼女は敵国からリカルドが連れ帰った子で、一生懸命に生きて来た平民の女の子だ。
だが、そんな彼女を幸せにしたいとこの国にまで連れ帰ったのだから、リカルドは彼女以外のその他全てを捨ててもそうするつもりだった。
そうしてすべての問題から逃げても、健気な彼女は手放しで喜ばないとわかっているから、リカルドは立ち向かうことに決めた。
(……団長だ)
窓の外に見えるのは、月の光を浴びながら飛行する銀竜だ。王都に建設された巨大な竜舎へ降りようとしていた。
リカルドは出来る限り、すべてを自分の力でこなして来た。デュマース家のことはどうしても手が足りず妹のクラリスに頼ったこともあるが、その他ではすべて解決して来た。
手紙を残して居なくなったスイレンを探して欲しいと、その場に居合わせた竜騎士全員に頭を下げて頼んだ時も必死だったからだ。
あの子をこんな広い世界の中で、どうしても見失いたくなかった。
今だって、そうだ。リカルドは絶対にスイレンを諦めたくない。後でどんなに泥にまみれようが、何の関係もない。必死になる必要のある時だった。




