遠い昔の僕と……Ⅲ
厩舎の奥へと突き進んだライムは、壁に掛けてあった斧に手を伸ばした。
ーーと、その瞬間。シギー ハントの感情が身体の中に浸透して来るのを感じた。勿論、過去の自分であった者たちの存在は、歴代頭の中に蓄積されていたのだが、鮮明な感情や情緒などは、余りに量が膨大過ぎて、記憶から削ぎ落とされてしまっていたのだ。
不安。恐怖。絶望。孤独。
ゾクゾクッと、薄暗い厩舎の中で身を震わせる。
遠い遠いーーあの頃の記憶。
両親を魔族に殺され、村人を殺され、家はおろか全てを失い、行く当ても無く彷徨い続けた日々。
何処にも居場所の無い不安や寂さが生み出す感情は、冷酷で凶暴な闇の化身に姿を変え、毎晩夜が来るのが恐ろしかった。
『オマエの居場所は、もう何処にも有りは無いんだよ』
『いっその事、オマエも魔族に殺されれば良かったのに』
『父さんも母さんも苦しみながら死んでいったのに、どうして自分だけのうのうと生きていられるんだ』
「ーーーーーーっ……?!」
突然、ふと肉体が切り離されたように、厩舎の中に居るライム自身の元へ意識が戻って来た。
直後に彼の脳裏に過ったのは、昨日人間界からやって来たばかりの女の顔。
今朝、バケツの冷水を浴びせ掛けた時の驚愕した瞳ーー。
先輩侍女たちに悪い噂話をされていると気付いた時の、居た堪れなさそうに縮まった細い肩ーー。
先程、別塔の中で『とっとと魔界から出て行け』と詰め寄った時の畏怖しきった表情ーー。
まるで硝子玉のように、一突きで壊れてしまいそうな心を、何とか自我で持ち堪えようとしているように見えた。
その時は、自分の行いを正当化していたので特に何も感じなかったのに、今は罪悪感からか胸の奥が締め付けられるように痛んでいる。
ーー何時もこんな気持ちでいるティファニーの事を、俺は、魔界から追い出そうとしているんだよな……。
アクシス グランドールだった時の記憶は、今でもはっきりと存在している為、ティファニーが【呪われた侍女】と言う通り名のせいで、三年前までどういった人生を送ってきたかは良く知っている。
早くに両親を亡くし、侍女になってからは、不幸な事故で立て続けに主人たちを失った。それが原因で、住み込み先を転々とし、周囲から忌み嫌われていた。
当時は、シギーであった時の記憶を失っていた上に子供だった為、そんな彼女の苦労や孤独を想像する事しか出来なかった。
侍女として魔界にやって来た今でも、ティファニーが帰る場所の無い不安を抱えているのは、ある程度理解しているつもりだった。
ーーしかし。そんな宿命を背負った彼女の事を、他の誰でも無い、自らのこの手で一日でも早く追い出そうとしているのだ。人間界へ戻った所で、何処にも帰る当ても無い彼女をーーーー。
遥か遠い昔の記憶を思い出し、ライムは、自分のしようとしている事が、どれ程残酷な事かと思い知った。
☆彡
魔術書と斧を手に別塔へ向かったライムを待っていたのは、頭に三角巾を付けたティファニーだった。
本来なら部屋の中で掃除をしている筈なのに、何か様子がおかしい。箒を握る手も震えている。
「何だよ? まるで呪いが逃げ出して行きそうな、凄い顔してるぞ」
皮肉交じりに問い掛けるとーー、
「……奥の部屋の方から、変な声がするんです」
ーーと、奇妙な答えが返って来た。
訝しんでティファニーの顔を見たが、デタラメを言っているようにも思えない。寧ろ、彼女がそんな嘘を付くような人間では無いと承知している。
「……幽霊かも知れません」
「まさか。気のせいだろ」
思わず速答で否定したが、青褪めた顔色をしているティファニーの様子で、本当に何かがあった事を察した。それに、もしも本当に城内に侵入者が居たとしたら、騎士としても忌々しき事態であり、一刻も早く対応しなければならない。
腰の長剣に手を掛け、慎重に部屋の中へ脚を踏み入れる。
これから窓の目張りを外そうとしていた矢先だったので、手元の灯りが頼りの室内は、視界が最悪の状態だ。入り口付近は、既にティファニーが片付けていた後なので歩き易くなってはいるが、少し進むと、廃材や使わなくなった道具等が乱雑に置かれていて、「奥の部屋」と言われても、方向が全く掴めない。
「どっちだよ?」
「そっちの方です」
「そっちじゃ分からないだろう。お前も来い」
「ええっ?!」
「ーーくっ……」
「……っ?!」
狼狽えるティファニーを睨み付けると、少し沈黙を置いてから、しぶしぶ後に続いてやって来た。
するとーー、物凄く何か言いたそうにしている。
「何だよ? 気持ち悪い」
「あ……、あの。手を握ってて貰えませんか?」
「はぁっ?!」
「お願いです。わっ、私……。こここ、恐くて……」
「……」
未だ震えているティファニーの手をここで握らなければ、一体、彼女はどうなってしまうのだろうと想像した。
一日も早く魔界から追い出す考えに変わりは無いが、既に恐怖心でいっぱいの彼女にくだらない嫌がらせをして精神的に追い詰めても良い道理は無い。
それに、侵入者が潜んでいるとしたら、自分よりも先に彼女を襲って来る危険性だってあるのだ。
ーーこの状況の今だけだ……。別に、優しくする訳じゃない……。
「……」
無言でティファニーに手を差し出すと、彼女は、お礼の言葉を言いながら、その手を強く握り返して来た。既に過去のたわ言だが、一度でも好意を寄せていた女。何だか妙な気持になりながら、ティファニーの言う通り奥へと進んで行く。
やっと隣の部屋の入り口までやって来ると、ティファニーが空いている方の手で部屋の奥を指差した。
「ここです。あの奥から、人の声がしたんです」
「ーー……。ちょっと、これを持ってろ」
ライムは、ティファニーに蝋燭を預け、腰の剣を引き抜いた。
ーーそして。一番近場の窓の前に立ち、先程見付けた魔導書の呪文を頭の中で唱え始める。魔導書には、封印を破る為には斧が必要と書かれていたが、別塔の入り口に置いてきてしまったので、やむを得なく長剣で目張りを打ち破る事にしたのだ。
破壊音。
『再生魔術』を掛けられた時に、ロージックから分け与えて貰った魔力が火を噴いた。
一気に室内へと光が差し込むーーと同時に、人影が廃棄物の裏に姿を消すのが視界に入った。
「何者だっ?! 大人しく出て来い!!」
人影の方へ剣先を向け、室内中に緊張感が張り詰めた。
暫しの間静寂が続いた後、物影から姿を見せたのは、良く知った長い銀髪の男の顔。
「おっ、俺だよっ……ライム!」
妖艶な薄笑いを張り付けた端正な顔から発せられた声は、同性の男が聴いても艶っぽい。
ーーしかし。そんな色男の首から下に眼を向けた瞬間、その出で立ちに、思わず身体が凍り付いた。
『亀甲縛り』
俗世間では、そう呼ばれている代物。
極々一部の性的趣味の大人が、こよなく愛する緊縛方法。
気になって、それとなくティファニーの横顔を覗くと、やはり彼女も身を凍り付かせていた。
ーーいや……そりゃそうだろう……。
「フェルキス様。こんな恰好……いえ。こんな所で、一体何をなさっていたの……」
喋れば喋る程、自分で自分の首を絞める事になっていると気付いた。情けない事にすっかり言葉を見失ってしまい、妙な汗も出て来る始末。
フェルキスの方は、そんなライムの様子を察したようで、
「すまない、ライム。ちょっと、何時もより趣向を凝らそうと思ってさ、ははは……。出ておいで。可愛子ちゃんたち!」
ーーと、周囲に向かい声を上げる。
するとーー。一人、二人、三人と、身体にぴったりと張り付くような服を纏った女たちが、次々に姿を現した。
「……」
「……」
もうこの時点で、ライムもティファニーも、放心状態に陥っていた。
三人の美女を連れたフェルキスは、さっさと部屋から出て行く準備を始める。
「いやぁ~邪魔して悪かった。あれ? 君は、ティファニーちゃんだよね? 俺は、ロージックの兄のフェルキス。宜しくね。勿論、俺たちはここで退散するから、二人共、お掃除頑張ってくれよ。ーーあっ! それとライムの奴、こう見えて意外に超硬派だから、暗い部屋に二人きりになっても安全な男だから安心して。じゃあ……」
そう言うと、爽やかな笑顔で別塔から立ち去って行った。
ライムは、純粋なティファニーに、この状況を何と説明したら良いか分からず、暫しの間沈黙が続く。
ところが。先に沈黙を破ったのは、ティファニーの方だった。しかも、意外な形でーー。
「きょ……兄弟そろって、マゾヒストだなんて……。驚きだわ……」
表情は呆れ返った顔そのものだが、彼女の口から、冷静に『マゾヒスト』と言う言葉が出るとは思いも寄らなかった。
ライムに、嫌な予感が過る。
「ーー?! なっ……なあ。どうしてロージック様がマゾだって分かるんだよ? 昨日何かされた……いや、もしかして、何かしてくれって頼まれたのか?」
「いえ。頼んだのは私です。でも……とても無礼で恥ずべき行為なので、誰にも言わないで下さいと口止めまでしてしまったんです……」
「はぁーーっ??!!」
俯いて、恥ずかしそうにほんの少し頬を染めたティファニーを見て、ライムは愕然とした。
昨日、魔王城に着いたばかりの二人の様子が、何かおかしいと思った理由をやっと理解出来た。
ロージック ジェファーソンは、もう既にティファニーに手を出していたのだ。
ーーあの落ちこぼれ王子がぁーーっ!!!
ーーこんなにも早くティファニーをものにしてるなんて、とんでもない女たらしの才能があったもんだなぁ!!!
「きっ、騎士様?! どうかなさいましたかっ??」
「……」
ショックを隠し切れず、頭を抱え込む。
三年前まで、純粋で可愛らしかった少女が、すっかり大人の女になってしまっていたなんてーー。
ライムは、涙を堪えながら、ティファニーを睨み付けた。
ーー一刻も早く、こいつを魔界から追い返してやるっ!!!
勿論。ティファニー ポジットが『マゾヒスト』の意味をちゃんとは理解していない事を、彼は、知る由もなかった。
お待たせしました。
遠い昔の僕と……編は、これで終わりです。
今後も宜しくお願い致します。




