⑧ 青い庭園
「へえ。そうなるとサンドールはすっかり貴方の手中というわけですか、ビジオール様」
そう言ってレングラットは微笑んだ。しかしそれは、社交界で数多の令嬢を虜にしてきたような甘く優しげなものではなかった。
「先にこちらに届いた報告では、次期エクラート公爵と次期アルトニヤ公爵の滞在するサンドール領主邸が賊に襲撃され、領主は殺害、屋敷は全焼、客人二人は次期アルトニヤ公爵が賊を返り討ちにして逃げ延びた……などと言うものですから、見舞いの品を何にしようかと考えあぐねていたところなんですよ」
「その割には簡素な出迎えだったな? レングラット。こちらは上質なワインを手土産にこうしてお前の屋敷に足を運んだというのに」
フローター邸の客室のソファに深々と腰をかけながら、ビジオールは同じように笑った。
「もったいないものを頂いてしまいましたね。サンドール産のワインは薫り高く上品で、私の好みなんですよ」
「ならば太客にでもなってやれ。新領主は商売のしの字も知らない粗雑な男だからな」
「貴方の傀儡だからではなく?」
二人は顔を見合わせて、にやりと笑った。それからレングラットは、自身の髪と同じ鮮やかな青いテーブルクロスの上に置かれたワインに目を移して声を落とした。
「その傀儡が、貴方の意に反し『商売上手』になる可能性は?」
ビジオールは背もたれに身体を預けて脚を組み、その上で両手を組み合わせた。
「それより前に東の空に月が沈むだろうな。奴にだけは前領主の所業を明かし、私の命に反することがあれば父親の罪状を申告して一族もろとも破滅させると言っておいた。奴には離れて暮らしていた父親への情などないし、領地経営への意欲もない。事勿れでなるべく楽に贅沢な暮らしがしたいだけの器だ」
「なるほど。では来月にでも買い付けるとしますか……」
レングラットはワインボトルの独特な曲線美を指でなぞりながら言った。と、不意に胸元に手をやって懐中時計を取り出した。
「おや、もうこんな時間ですか。失礼ながら、私はこれでお暇いたします」
「何かあるのか? 第二王子の授業まではまだ時間があるのだろう?」
レングラットは立ち上がりかけた姿勢のままぐっと身を乗り出すと、細い目を見開いて輝かせた。
「ワールイズく……殿とお会いする約束があるのです。訓練場のそばに庭園があるのはご存じでしょう?」
ビジオールは目をしばたかせた。
「庭園で? ワールイズとお前が? 何の為に?」
「なんて質問なさるんですか、貴方らしくもない! 友人と語らうのに理由なんて要りますか? 青々と茂る葉と色とりどりに咲き乱れる花のかぐかわしい香りに包まれ、夕べの雨が残した滴がシャンデリアのごとく互いの姿を照らし出すあの小道で、私は彼を知り、彼は私を知るのです。今日、ここに来る途中で空模様をご覧になりましたか? あのように一点の曇りもない純粋で美しい友情があと一時間と経たないうちに育まれようとしているのですよ!」
一気に熱を帯びた語りに、広い客室の気温までも上昇したような気がした。学園卒業時に最高成績取得を後押しした彼の著作の中では、家族愛でも母性愛でも性愛でもない、友愛こそが本能から最もかけ離れたものであり、それゆえに理性により他の獣たちと一線を画す人間を人間たらしめる最たるものであるといった趣旨の論理が展開されていたことをビジオールは思い出していた。ワールイズに対するこの彼らしからぬ熱意はそのあたりに起因しているのかもしれない。しかし、口にした質問は全く別のものだった。
「あそこはこの時期、婚約を控えた貴族の令息や令嬢たちのデートスポットだと聞いているが」
「むろん貸し切りました。フローター公爵家にもそれくらいの権限はあるのですよ」
そう言って胸を張るレングラットに、ビジオールはもう何も言うまいと首を振った。
○○○
レングラットが外の日差しの反射に目を細めながら二十一回目に懐中時計の文字盤をみたとき、針はちょうど二時きっかりを指していた。ワールイズが小走りしてやって来た。
「すみません、レングラット殿。お待たせしてしまいましたね」
「いえ、時間通りですよ。ワールイズ殿」
「今日はお誘いくださってありがとうございます。こうしてゆっくりとお話しできるのはいつぶりでしょう。訓練場でお会いする時はいつも慌ただしいですからね。それにしても、実に見事な庭園ですね」
レングラットは懐中時計を再び取り出してワールイズに示した。
「実に七年一か月二四日と十八時間二分三十四秒ぶりですよ。私達が初めて出会ったあの社交界デビューの会場で貴方を見送ったとき、その先にあった大時計とこの懐中時計が今ズレていなければの話ですがね。この庭園は今の時期が見ごろなんです。デルフィニウムが美しく咲きますから」
ワールイズは目を見開いた。
「レングラット殿は素晴らしい記憶力をお持ちですね。王立学園でも大変優れた成果を上げられて、ユリアルス王子殿下の専属教師に抜擢されたと聞きましたが……お噂以上なんですね」
屈託のない尊敬のまなざしを向けられて、レングラットはつい目を逸らした。
「貴方のお耳にまで入っていたとは……励んだ甲斐もあったというものです」
「はは、貴方って謙虚なんですね」
ワールイズは人懐っこい笑みを浮かべてそうコメントした。アルトニヤ一族に特有の目つきの鋭さを宿しながらもこの彼に兄のような一種の冷徹さが感じられないのは、彼が兄と違って母方の血を色濃く反映した容貌で生まれついたことだけが原因ではないのだろう。楽しげに細められた目が、あたりをぐるりを見回した。
「庭園をじっくり見て歩くなんて初めてですよ。ええと、何が見ごろだと仰いましたっけ?」
「デルフィニウムです。あの、青く背の高い花ですよ」
レングラットが指さした先に、ワールイズは手でひさしを作って目を向けた。足元の植え込みに濃い緑の影を落として、デルフィニウムはその色鮮やかな花びらを雲のない空へと伸ばしていた。
「細いのに、とても力強い花ですね。それに、綺麗ですね……綺麗な青色です」
レングラットはうんうんと頷きながら、耳ざわりの良い声で話し始めた。
「青色の花というのは、実はとても希少なんですよ。最近の博物学の研究では、我々が目にする花や蝶の青は実際には紫に近い色をしているという説が有力でしてね。どうも自然というのは青いものを作り出すことを好まないらしく、このデルフィニウムもどこまで青いのか議論の余地があるんです。つまり、人間が自然界で正しく青いものを見ようとするなら、晴れの日の昼間に空を見上げるか海を見渡すかするしかないというわけなんですよ」
レングラットの説明に、ワールイズは感心したように頷いた。
「へえ、青色ってそんなに貴重なんですか。でもそれなら私、空と海以外にもひとつ知ってますよ。青色のもの」
「それはぜひともお聞きしたいですね」
ワールイズはレングラットの目を見つめて、にっこりと笑った。
「レングラット殿、貴方ですよ。貴方の髪は本当に綺麗な青色をしていますね」
ギニュン。
この青髪の青年の胸に内蔵された臓器がたてた音に文字を当てるなら、恐らくそんな文字列が比較的近しいものと思われた。
庭園を一周して戻って来た頃には、レングラットの懐中時計の針も一周していた。
「レングラット殿。名残惜しいですが、私はそろそろ戻らねばなりません」
「そうですね、そろそろユリラノス殿下の授業が終わる頃ですか。私もユリアルス殿下の授業に向かわねばなりませんね」
(俺とワールイズ君の友情の時間を邪魔するのは、常にあの王子二人だ……)
レングラットは心の中でそう毒づきながら、穏やかな微笑みを浮かべてワールイズを引き留めた。
「ワールイズ殿。私達の友情はそろそろ次の段階に進んでも十分良い頃合いだと思いませんか」
「次の段階?」
レングラットは不意に立ち止まると、いつになく真剣な面持ちでワールイズに向き直った。
「貴方のことを、今後私が『ワールイズ君』とお呼びしても気分を害さないでいていただきたいのです」
ワールイズは目をぱちくりとさせた。それから、この一時間で何度も見せた表情でからっと笑った。
「はは! 貴方って、おもしろいことをお聞きになりますね! どうぞお好きな呼び方で呼んでください。そもそも、次期公爵の弟である私より次期公爵である貴方のほうが目上なんですし」
「私達は対等な友人ですよ、ワールイズ君」
即座にそう答えたレングラットに頷いてみせてから、ワールイズは手を振って歩き出した。
「楽しい時間をありがとうございました。また次の機会がありましたらぜひ、レングラット殿!」
○○○
メジアスト王家には現在三人の子供がいる。王女ユリミルア、第一王子ユリラノス、第二王子ユリアルスである。王族の象徴たる黄金色の髪と瑠璃色の瞳を輝かせる彼らは社交の場に足を踏み入れるだけで注目の的となり、華やいだ空気であたりを満たすので、彼らの出席する舞踏会にはいかなる装飾も照明も音楽さえもいらないと言われるほどだった。
王女は上品な立ち振る舞いの中に愛嬌を覗かせる淑女で、彼女の着たドレスは必ず次の流行となった。第一王子は気取ったところのない性格と剣術や狩猟の名手であることから、貴族令嬢だけでなく令息たちの憧れでもあった。第二王子は社交界デビューを迎えていないため、上の二人に比べれば噂は控えめだったが、それでも非常に聡明な子供らしいという話がそこかしこで囁かれていた。ゴシップ好きなお茶会でさえ、三人の名が出るのは決まって明るい文脈だった。
しかし最近になって、第二王子に関する新しい噂が流れ始めた。なんでも彼の専属教師に次期フローター公爵が任命されたのは、本人の才覚だけではなく第二王子直々の希望もあったらしいというのだ。もちろん、ほとんどの噂がそうであるように、その真偽は本人たちしか知らなかった。
「本日の授業はここまでです。今日もよく集中されていましたね」
そう言って、レングラットは資料の端を指で丁寧に揃えた。向かいに座った第二王子ユリアルスもまた、丁寧にノートを揃えた。
「王国史はやはり興味深いね。神学や数学もおもしろいけど、僕はこれが一番好きだな」
「さすがは王家の方ですね」
「先生は何が一番好きなんだ?」
「思想史ですね」
まとめ終えた資料を鞄に入れようとしていた手を止めて、レングラットはそう答えた。王子が話している間は手を動かすわけにもいかない。おかげで、帰りの支度に随分時間がかかるのが常だった。
「思想史? 意外だな。先生はもっと……なんていうか、確実なものが好きなんだと思ってた。数学とか法律とか」
「思想ほど人類にとって確実なものもないと思いますけどね。人間は考える葦、我思うゆえに我あり、ですよ」
淀みなくそう答えるレングラットを、ユリアルスはふうんと頬杖をついて見つめた。
「……ねえ先生、知ってる? 最近僕の噂が流れてるんだ」
「噂、といいますと?」
話が続行したことにうんざりしつつも、それを表に出さないのが貴公子レングラットである。
ユリアルスは一語一語区切るようにしてゆっくりと言った。
「先生が僕の専属教師になったのは、僕がそう望んだからだって。そういう噂」
「確証のない噂ほど広がりやすいものですからね」
「確証がない……。そうだね。先生は、どう思う?」
「どう、とは」
「本当だと思う? この噂の通り、僕が先生を僕の教師にと、言ったんだと思う?」
レングラットは軽く首を傾げてみせた。
「そうだとしたらこの上ない光栄ですが、根拠が思い浮かばないもので」
ユリアルスは整然と文字の並んだ自分のノートに目を落とした。
「たとえば、王国史」
声が顰められたので、レングラットはテーブルを回りこんで王子のそばに寄らねばならなかった。
「メジアスト王国では代々、国王の子供のうち長男が次の国王となる。けれど、歴史上その反例がなかったわけじゃない。王国史を学ぶとよく出てくるよね。次期国王とされていた人が死んで、王位継承権が次に移ることが……。原因は様々だ。病死、移動中の事故、そして……暗殺」
ユリアルスの瞳が碧く瞬いた。
「王国史を学ばないような人は……授業を受ける代わりに狩猟や訓練場に出かけるような人は……たとえ王位継承権を持つ王子であっても、そんなこと知らないのかもね」
(この王子……)
レングラットはユリアルスが無造作にページをめくるノートに顔を向けながら、目線だけを彼の方にやった。
(第二王子ユリアルス……王位継承権は、現在第二位)
沈黙が続いた。レングラットはふと、隣に佇む少年の息が浅くなっていることに気付いた。ページをめくる手も、よく見れば固く強張っている。
レングラットはいったん身を起こすと、テーブルの端に手をついて王子の耳元に顔を近づけた。
「ユリアルス王子殿下。噂の真偽については、私なりの解釈を施すことにいたしますが……貴方が私を教師にと望んだのでしたら、私は貴方が望むことを教えましょう。それが『専属教師』としての務めであると心得ておりますから」
ユリアルスがはっと顔を上げた。
「……先生、それって」
今度こそ鞄に資料を片付けて、レングラットは扉へと一歩踏み出した。
「次の授業までに、復習と予習を怠らないでくださいね。明後日は今日の復習から始めますが、この先の内容はもっと複雑になりますよ」




