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瀬戸内今昔物語  作者: 森村征爾
第二章 高校生編
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第四十六話 交差点


夕暮れが生口島の町をゆっくりと包み始めていた。

湊は市役所近くで見つけた公衆電話の前に立ち、小銭を投入した。

旅に出てから母親へ連絡する。


数回の呼び出し音の後、聞き慣れた声が受話器の向こうから聞こえた。

「もしもし?」


「母さん、僕。」


「湊?元気そうな声やね。」

その一言に自然と笑みがこぼれる。

湊は今日見た景色を話した。


しまなみ街道の橋の上から見た島々の景色。 頬を撫でる潮風、 大山祇神社の大楠。

母親は時折相槌を打ちながら静かに話を聞いていた。


「ちゃんとご飯食べよるん?」


「食べよるって。」


「ほんとに?」


「ほんとほんと。」

受話器越しに母親が笑う。

その時だった。

玄関の呼び鈴が鳴る音が聞こえた。


「あら。」

母親の声が遠くなる。

「誰か来たみたい。ほな気を付けるんよ。」


「うん。」

電話はそこで切れた。

受話器を置いた湊は、しばらく交差点を眺めていた。


その頃、三津浜では湊の母親が玄関の扉を開いていた。

そこに立っていたのは沙織だった。

制服ではなく私服姿だったが、どこか緊張しているのが分かる。

「あら、沙織ちゃん。」


「あの……。」

沙織は一度唇を結び、それから小さく息を吸った。


「湊君、いますか?」

勇気を振り絞った声だった。

だが返ってきた言葉は、沙織の予想とは違っていた。


「湊なら今、自転車で旅に出とるんよ。」

沙織の表情が止まる。


「旅……ですか。」


「尾道の方まで行くって出ていったんよ。」

そうですか、と呟いた声は思った以上に小さかった。


ようやくここまで来たのに。

ようやく会って話そうと思えたのに。

その相手はもうここにはいない。

胸の奥に溜め込んでいた言葉の行き場がなくなる。


「帰ったら来てくれたこと伝えようか?」

母親は優しく声を掛けた。


だが沙織は首を横に振った。

「いえ……大丈夫です。」

頭を下げる。

それ以上は何も言えなかった。

背を向け歩き始める。

夕暮れの住宅街を進む沙織の背中を、母親はしばらく見送っていた。


「湊に伝えとくけん。」

その言葉が届いたかどうかは分からない。沙織は振り返らなかった。


一方その頃。

湊はポケットの中の小銭を確かめていた。

手紙に書かれていた番号を思い出す。

少し迷った後、再び受話器を取り上げた。

ダイヤルを回す、呼び出し音。

数秒後、明るい声が聞こえた。


「もしもし?」


「松沢さん?」


「佐倉君?!」

声が弾んでいた。

「連絡くれたんだ!どうだった?今日?」

待っていたと言わんばかりだった。


湊は思わず笑う。

そして今日一日の出来事を話し始めた。

橋から見た景色、海を渡る船、大山祇神社の大楠。

そして楠の周りを回っていた男女のこと。


「女の人がね、一緒に過ごせますようにって願っとったんよ。」


「ふふっ。」

松沢さんが笑う。

「なんか可愛いね。」

佐倉君が…とは言えない。


「でしょ?」と湊は返答する。

話しているうちに昼間の景色が鮮やかによみがえる。


松沢さんは急かすこともなく、時折笑いながら最後まで聞いてくれた。

それが心地良かった。

気付けば思った以上に長い電話になっていた。


「そろそろ切るね。」

湊がそう言うと、受話器の向こうで少しだけ間が空く。

そして優しい声が返ってきた。


「明日も連絡待ってるね。」

その言葉に胸の奥が少し温かくなる。


「うん。また明日連絡するよ。」


「楽しみにしとる。」

電話が切れた。

受話器を戻し、湊は大きく伸びをする。

交差点では車のヘッドライトが行き交い、街灯が白く路面を照らしていた。

その光の周りには無数の羽虫が集まっている。

小さな影は光に引き寄せられるように飛び回り、その外側では別の虫たちが静かに旋回していた。

焦ることなく、慌てることなく。

ただ機会を待つように。


遠く離れた場所で、一人の少女が肩を落として帰っていったことなど知らないまま。


夜風が交差点を吹き抜ける。

そしてその風と共に、何かが少しずつ近付いていた。

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