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瀬戸内今昔物語  作者: 森村征爾
第一章 少年編
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第五話 少年時代の最後

夏祭り当日。

三津浜の町は、朝からどこか浮き足立っていた。

港近くの道路には交通規制の看板が立ち、普段は静かな道を大きなトラックが何台も行き来している。

電柱には祭り会場の案内板が括り付けられ、商店街の軒先には赤い提灯が吊られていた。


遠くから演歌が流れてくる。

潮風に混じって、焼きそばのソースや焼き鳥の煙の匂いが町を漂っていた。

大人たちまでどこか楽しそうで、いつもの商店街とは少し違う。


湊は、この空気が好きだった。

祭りの日だけの空気。

夕方になるにつれて町全体がそわそわし始め、夜を待っている感じがする。

窓の外を見ると、もう浴衣姿の女の子たちが歩いていた。


「湊ーっ!」

突然、玄関の外から昇の声が響く。

湊は慌てて窓を開けた。


「待っとって! 今、降りるけん!」

すると昇は、近所中に聞こえるような声で叫んだ。


「三津浜焼き食ってから会場行こやー!」


「わかったーっ!」

湊は笑いながら返事をする。

行きつけの三津浜焼きの店は港に近い。

小さい頃から昇と通っている。

祭りの日になると必ず寄る場所でもあった。

鉄板の前に並んで座り、汗をかきながら食べる三津浜焼きは、祭りの始まりそのものだった。


湊が階段を降りると、母親が台所から顔を出した。


「さっきの声、昇ちゃん?」

「うん」


「家入ればええのにねぇ」

母親は昇の母親とも仲が良い。

子どもの頃から、家族ぐるみの付き合いだった。

湊が靴を履いていると、母親が財布からお金を出してきた。


「はい」


「無駄遣いせられんよ」

渡されたのは三千円だった。


「えっ、多くない?」

思わず聞き返す。

祭りでも、普段は千円か二千円くらいだった。

すると母親は少し笑った。


「ずっと水泳頑張ってきたけんね」


「今年は思いっきり楽しみなさい」

その言葉に、湊は少しだけ黙った。

大会では結果を残せなかった。

悔しさばかりが残っている。

けれど、ちゃんと見てくれていたんだと思った。

冬の寒い朝。

眠そうな顔のまま車へ乗せてくれたこと。

帰りが遅くなっても迎えに来てくれたこと。

いろんな記憶が浮かぶ。

金額より、そのことが嬉しかった。


「……ありがとう」

帽子を被りながら、小さく言う。


「行ってくる!」

玄関を出ると、夕方前の熱気がまだ町に残っていた。

遠くから太鼓の練習する音が聞こえてくる。

自転車置き場へ向かいながら、湊はふと足を止めた。


端の方に、青い六段ギアの自転車が置かれている。

三年前、どうしても欲しくて何度も頼み込んで買ってもらった自転車だった。


ハンドルには白い錆が浮き、折り畳み式の編みかごには茶色い錆が滲んでいる。

あの頃は、それに乗るだけでどこまでも行ける気がしていた。


友達と港まで競争したこと。

雨上がりの道で転んだこと。

ガチャガチャを回しに商店街を走ったこと。

全部、この自転車と一緒だった。

けれど去年くらいから、ほとんど乗らなくなっていた。


同級生たちは、もう少し大きな大人用の自転車に乗り換えている。

子ども用の六段ギアは、いつの間にか乗るのが少し恥ずかしくなっていた。


湊は黙ったままサドルを軽く撫でる。

それから隣に停めてあった母親の自転車を押し出した。

前カゴの少し曲がった古い自転車。

けれど今は、そっちの方がしっくりきた。

外へ出ると、昇が待っていた。


「遅いわ」


「うるさい」


「早よ行かんと混むぞ」

二人は並んで港の方へ向かっていく。

町には少しずつ人が増え始めていた。

浴衣姿の女子。

ビールケースを運ぶおっちゃん。

汗を拭きながら屋台を準備する人たち。

みんな、夜を待っている。

港へ向かう途中、湊は一度だけ振り返った。

家の横の自転車置き場。


置いたままの六段ギア自転車が、夕暮れの中に静かに残っていた。


点灯していないライトだけが、遠ざかっていく湊の背中を見つめているようだった。


少年時代が終わっていくのを、あの自転車だけが知っている気がした。


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