第四十四話 心の隙間
相変わらず蝉が四方八方から夏の報せを放ち続けていた。
まだ朝早いというのに気温は高く、アスファルトからはじわりと熱気が立ち上っている。
三津浜の自宅を朝早くに出発した湊は、自転車のペダルを一定のリズムで踏みながら北へ向かっていた。
国道を走り菊間へ入る。
この辺りは瓦の町として有名だ。
道沿いには瓦工房が並び、屋根の上には整然と積み上げられた瓦が見える。
北方高校の先輩たちの中にも、卒業後に職人として働いている人がいると聞いたことがあった。
弓道部を引退した先輩の一人も、この町で修業を始めたらしい。
高校を卒業して働く、進学する。
それとも昇みたいに別の道を選ぶ。
何をしたいのか。
どこへ向かいたいのか。
その答えがまだ見つからない。
だからこそ旅に出た。
走り続けていれば何か見つかるかもしれないと思った。
もちろん、そんな都合よく答えが転がっているはずもない。
それでも家で考え込んでいるよりは良かった。
蝉の鳴き声を聞きながらペダルを踏み続けていると、少しずつ景色が変わっていく。
旅をしているという実感があった。
菊間を抜け、さらに今治方面へ進む。
瀬戸内海はどこまでも穏やかだった。海の色も空の色も三津浜や北条市と大きくは変わらない。
それなのに見える景色はまるで違った。
やがて今治の港が見えてきた。
巨大なクレーン、岸壁に接岸した大きな船。
そして遠くに見える造船所。
湊は自販機の前で自転車を止める。
冷たいスポーツドリンクを買い、一気に喉へ流し込む。
火照った身体に冷たさが染み渡った。
「同じ港でも、三津浜とは比較にならないな……」
思わず独り言が漏れる。
今治はタオルと造船の街だ。
港には活気があった、大きな船が行き交い、人が働き、車が走る。
街全体が前へ進んでいるように見える。
しばらく海を眺めながら休憩していると、自然と三津浜のことを思い出した。
昇や沙織と育った町。
子供の頃はもっと賑やかだった気がする。
商店街には人がいて、港には漁船が並び、夏祭りになると大勢の人で溢れていた。
だが今は違う。
閉まったままの店が増えた。
知っていた家も空き家になっている。
町は少しずつ静かになっていた。
変わっていくのは当然だ。
寂しさは消えない。
祖父が亡くなった時もそうだった。
自分の知っている景色と記憶が一つずつ失われていく。
それがたまらなく苦しかった。
だから尾道へ行こうと思った。
テレビで見た商店街や海の景色。
古い家並み、どこか懐かしい空気。
初めて見たはずなのに、子供の頃の三津浜を思い出した。
未来を考えるための旅なのに、向かう先は過去によく似た町。
考えてみれば妙な話だ。
未来へ進みたいのか?
それとも過去へ戻りたいのか。
自分でもよく分からない…。
ただ、家にいると沙織のことばかり考えてしまう。
弓道場、試合の時、通学路の渡し船、北方駅や鹿島。
どこへ行っても思い出が残っている。
自分から連絡するのは控えている。 いや、最近は「連絡しないでくれ」と言われているのだと思うようになった。
そうでなければ、これほど何も返ってこない理由が見つからない。
振られたんだな…。
思い出すたびに胸の奥が苦しい。
もしかすると、この旅は進路を探すためではなく、自分の心を整理するための旅なのかもしれない。
そんな気もしていた。
海から吹く風が汗ばんだ頬を撫でる。遠くでは船の汽笛が鳴っている。
湊は空を見上げる。
青空には大きな入道雲が浮かんでいた。
去年の今頃は、国体予選や弓道のことで頭がいっぱいだった。
未来なんて考える余裕もなかった。
だが今は違う。進路。将来。
様々なことが頭の中を巡る。
大人になるとは、こういうことなのだろうか。
「まあ、考えても仕方ないか」
苦笑しながら再び自転車へ跨る。
リュックの中に入っている一通の手紙。
昨夜、松沢さんからもらった手紙だ。
新人トーナメントの応援へ行けないことを伝えに行った夜、旅へ出ることを話した。
松沢さんはは少し驚いた顔をした後、心配そうに笑った。
「いつでも連絡して」
書かれた紙には連絡先が添えられていた。
何かあったら連絡してほしい。
無理はしないでほしい。
そんな言葉も書かれていた。
優しい字だった。
読み返すたびに松沢さんらしいと思う。
沙織とは違う。
話し方も性格も違う。
なのに、最近は話すたびに不思議と気持ちが和んでいた。
何気ない会話をしている時間が楽しかった。
だからこそ少し戸惑う…。
沙織を忘れられるはずもない。
だが心の支えに誰かがいる。
それが良いことなのか悪いことなのかも分からない…。
今夜は生口島のキャンプ場でテントを張る予定だ。
到着したらまず母へ連絡しよう。
心配性だからきっと気になっているはずだ。
それから…。
「……松沢さんにも連絡しとくか。」
言葉にしてみると、少しだけ照れくさい。
だが嫌な気分ではなかった。
再びペダルを踏み込む。
夏の潮風を受けながら、自転車はしまなみ海道へ向かって進んでいく。
尾道への旅は、まだ始まったばかりだった。




