第四十話 不安定な人間関係
年が明けた。
北方高校弓道部では毎年恒例の射ち始めが行われていた。
冷え切った朝の道場には白い息が一人漂い、張り詰めた空気は部員たちが固唾を飲んで見ていたからである。
射ち始めで最初に的を射抜いた者は、その年に結果を残す。
そんなジンクスが北方高校弓道部にはあった。
昨年は池田主将が見事に的中させ、その後団体戦は県大会進出、個人では佐倉湊が地区予選を突破した。
だから今年も自然と期待が集まっていた。
新主将候補の宮下が射位へ立つ。
下半身は安定している。
弓を起こす動作にもブレは無い。
部員たちは静かに見守っていた。
だが…。
「……え?」
誰かが小さく声を漏らした。
会へ入る前だった。
宮下の指が耐え切れず、離れが出た。
早い。
完全な早気だった。
放たれた矢は的を大きく外れ、乾いた音だけが道場へ響く。
一瞬の静寂。
その直後だった。
「宮下ァッ!!」
池田主将の怒号が道場を揺らした。
「何回同じ事を言わせるんや!!」 「会から逃げるな!!」
宮下は俯いたまま動かない。
道場の空気が一気に重くなる。
嫌な年になるかもしれない。
誰も口には出さなかったが、そんな不安が部員たちの間に流れていた。
湊はその光景を見ながら、ぼんやり空を見上げた。
冬空は重たい灰色だった。
沙織とは、あの日の電話から連絡を取っていない。
自分からも掛けていないし向こうからも来ない。
最初の数日は家の電話を何度も見てしまった。
夜九時頃になると、無意識に受話器へ目が向く。
けれど鳴らない。
それでも湊は、自分から連絡する気にはなれなかった。
沙織が決めた事だから。
今は勉強に集中したいんだ。
邪魔したくない。
そう言い聞かせるように、自分の気持ちを押し殺していた。
その代わりという訳ではないが、最近は松沢さんと話す事が増えていた。
授業の合間、部活前、帰り際の短い時間。
内容は大した事ではない。
新しいパン屋の話、 新古への愚痴、 弓道部の話。
本当にそれだけだった。
特別な感情なんて無い。
……少なくとも湊はそう思っていた。
練習後の道場。
新古が新しい弓の握り革を巻き直していた。
「なあ。」
「ん?」
「さっき松沢さんと何話してたん?」
何気ない声だった。 だが、どこか硬い。
「さっき?」 「ああ、駅前のパン屋で新作出たって話。」
湊は何も考えず答えた。
新古の手が止まる。
「……ふーん。」
空気が少し変わった。
「俺の彼女やぞ?」
低い声だった。
湊は眉をひそめる。
「世間話だろ?」
言った瞬間、自分でも少し苛立っているのが分かった。
別に隠れて何かしている訳じゃない。 やましい気持ちも無い。
それなのに責められている気がした。
けれど次の瞬間、湊は気付く。
……違う。
新古は不安なんだ。
松沢さんと話したいと言い出したのは自分だった。
最近、松沢さんと話す時間も確かに増えていた。
誤解されたくなかった。
「……悪かった。」
湊は小さく息を吐いた。
「嫌な思いしたなら謝る。」
「これからは、あんまり話さんようにするよ。」
新古は視線を上げないまま、握り革を強く引っ張る。
「そうしてくれ。」
「……イライラするから。」
その言葉が思った以上に胸へ刺さった。
道場の空気が重い。
革を擦る音だけがやけに響いていた。
湊は黙ったまま窓の外を見る。
灰色の空、海から吹く冬の風。
県大会予選は、もうすぐそこまで迫っていた。
けれど今、道場の空気は弓よりも人間関係の方が張り詰め始めていた。




