第三十九話 小さな亀裂
眠れない夜だった。
布団に入ってから何時間経ったのか分からない。 目を閉じても夜の電話の声が何度も頭の中で繰り返される。
「勉強に集中したいんよ。」
「しばらく会うのも、電話も控えたい。」
受話器の向こうの沙織の声は、いつも通りだった。
嫌いになった訳でもないみたいだ。
だからこそ、余計に苦しかった。
「……わかった。」
そう返した時、自分でも驚くほど声が出てなかった。
本当は何もわかっていない。
電話を切った後、湊は机の上に置かれた写真を見つめていた。
試合の日に撮った二人の写真。
袴姿の自分と隣で笑う沙織。
最近は毎日電話していた、 声を聞けば安心した。
会えばもっと会いたくなった。
でも沙織は違ったんだろうか…。
ずっと勉強に集中したかったのに、自分に付き合わせてしまっていたのかもしれない。
そう考え始めると、胸の奥がじわりと痛む。
「好きになるって、しんどいな……。」
小さく呟き、布団を頭まで被った。
暗闇の中で少しだけ泣いた。
翌朝。
海沿いの風はさらに冷たくなっていた。
灰色の雲が空を覆い冬の匂いがする。
校門前には、新古と松沢さんが並んで立っていた。
「おはよ。」
湊が声を掛ける。
「おう……。」 「おはよう……。」
返事は返ってきたが二人とも妙に暗い。
三人並んで歩くものの、誰も会話を続けようとしない。
白い息だけが冬空へ消えていく。
「……ふぅ。」
部室に入り二人になった途端、ため息をついたのは新古だった。
「なんかあったん?」
湊が聞くと、新古は頭を抱えた。
「昨日、喧嘩した。」
「最近さ、毎日電話して休みの日もずっと会いたいって言われてたんよ。」
「最初は嬉しかった。」
「でも正直、自分の時間が全然なくてな……。」
新古は苦笑した。
「ちょっと一人の時間欲しいって言ったら、めちゃくちゃ怒られた。」
「……。」
湊は黙った。
その気持ちが分かってしまったからだ。
それは重い事なんだろうか。
昨夜の沙織の言葉が頭をよぎる。
『電話も今は控えよう。』
あれは、やっぱり負担だったんだろうか。
「好きだよ?」 新古は続ける。
「そりゃ好きだけどさ。」
「でも、このままずっと今の距離感やと正直しんどい。」
その言葉が胸に刺さった。
好きでも苦しくなる。
そんな事、今まで考えた事もなかった。
道場へ向かう途中、湊は意を決して口を開く。
「なあ、新古。」
「ん?」
「僕、松沢さんと少し話したい。」
新古が目を丸くする。
「なんで?」
湊は昨夜の沙織との話を打ち明けた。
勉強に集中したいと言われた事。
電話を控えたいと言われた事。
話を聞き終えた新古が苦笑する。
「……うちら逆やん。」
「うん。」
「わかった。松沢さんに聞いてみる。」
二日後。
練習後の校門裏、 夕暮れの光がアスファルトを赤く染めていた。
「遅くなってごめん。」
頭を掻きながら近付く湊を見て、松沢さんは少し笑った。
「話、聞いたよ。佐倉君も大変やね。」
以前みたいな刺々しさは無かった。 むしろ、妙に落ち着いていた。
「新古君、勉強する時間欲しいって言ったんでしょ?」
「うん。」いや、本当の話は言えない。
「私も頭では分かってるんよ。」
「進学もあるし、部活もある。」 「でも……好きやけん、声聞きたいし会いたい。」
冬の風が制服の裾を揺らす。
「僕も同じ。」
湊は苦笑した。
「試合近いのに、全然集中出来ん。」
「電話無いだけで落ち着かんし。」
「……それ、わかってて言ってる?」
「違う違う!」
慌てる湊を見て松沢さんは吹き出した。
「うそうそ、冗談。」
笑った後、松沢さんは空を見上げた。
「結局さ、好き過ぎるんよね。」
「……。」
「自分の時間より、相手を優先したくなる。」
「でも、相手はそれを重いって感じる時もある。」
その言葉が痛いほど胸に落ちた。
理解出来る。
新古の気持ちも。 沙織の気持ちも。
でも同時に、会いたい気持ちも止められない。
「なのに、なんで毎日連絡したくなるん?」
湊が聞くと、松沢さんは困ったように笑った。
「好きやからかな。」
その答えがあまりにも真っ直ぐで、湊は何も言えなかった。
駅までの道を二人で歩く。
海から吹く風は冷たい、けれど不思議と居心地は悪くなかった。
話せば話すほど、お互いの気持ちが理解出来てしまう。
「もし相手も同じ距離感だったら、こんな苦しくならんかったんかな。」
湊の呟きに、松沢さんは静かに笑った。
「どうやろね。」
ホームへ向かう階段の前で松沢さんが振り返る。
「でも、好きって多分そういう不器用なもんなんやと思う。」
北方駅から電車がゆっくり発車する。
互いを理解し過ぎたその時間は、周りを置き去りに進み始める。




