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瀬戸内今昔物語  作者: 森村征爾
第二章 高校生編
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第十九話 新たな世界と代償

今、自分は何をしているのだろう…。


ゆっくりと打ち起こしする身体とは別に、もう一人の自分が湊を見ている感覚…。


不思議な感覚だった…。


前に入った世界は、的しか見えない世界。

今の感覚は違う。


あの時は的しか見えていなかった。

なのに今日は…。


会場横で祈るように見ている松沢さん、女子弓道部の姿。

腕を組み怖い顔のまま見つめる池田先輩。


全部見えている。

これ、雑念なんかな?まあ良いか。


けれど身体は軽かった。

弓がもう道具じゃない、自分の腕みたいに自然だった。


風が吹き道場横の芝生がゆっくり揺れている。

気持ち良さそうやな。

そんな事まで思っていた。


会。



時間が止まる。いや…。



離れ。

矢は的に真っ直ぐ吸い込まれた。

的中。


会場がどよめく。一射目、北方は全員的中していた。


残心。


静止したままの湊へ、突然大きな拍手が聞こえた。

池田先輩だった。

普段ほとんど褒めない人が、誰より大きく拍手している。

その拍手につられるように、会場にも拍手が広がった。


2本目開始する宮下。

どっしりと構え、そのまま射ち抜く。

的中。

続く新古、田中、菅沢。

全員が続いた。


会場の空気が変わり始めていた。


湊は、静かで見渡せる世界にいた。

雑音がない。

迷いもない。

なのに周囲はよく見える。


媛工の連中がこちらを見ていた。

けれど、もう関係なかった。



会。



時は、湊だけ動いていた。



離れ…矢羽は空気を裂く。

乾いた紙の的に的中。


二本目、三本目、四本目

湊の矢は、4本全て的へ突き刺さっていた。


静まり返っていた会場がざわめき始める。

個人戦の予選突破は、ほぼ確実だった。



一回目の予選を終え、北方弓道部は控室へ戻っていた。

張り詰めていた空気はまだ消えていない。

池田主将が全員を見る。


「良い流れや。」

その一言だけで少し空気が緩む。 だが次の瞬間、視線が三人へ向いた。


「新古、田中、菅沢」

名前を呼ばれた三人が背筋を伸ばす。


「当て気に走るな。今のお前らは的しか見えてない。」

三人とも何も言えなかった。


「次入るまでに形戻せ。起座して集中。」

静かに頷き三人は道場横へ向かい、壁際で起座し目を閉じた。

池田先輩は次に宮下を見る。


「宮下。」

「はい。」

「流れ作るんはお前だ。最初の一本は出来れば欲しい。」

「……まぁ細かい話はいらんな。」

と笑う。


「任せたぞ。」

宮下もニヤリと笑った。 「はい」


そのやり取りを見て、少し空気が和らぐ。


そして最後に池田先輩の視線が湊へ向いた。

「佐倉。」

「はい。」

池田先輩が笑う。


「……本番に強いやつやな。」


それだけだった。

けれど湊には十分だった。

ずっと背中を追ってきた先輩からの言葉だった。


「昼飯食ったら準備して待機」


「はいっ!」

部員たちの声が控室へ響く。


だが湊だけはまだあの静かで見渡せる世界から現実に戻れていなかった。


周囲の時間と自分の感覚がずれている。

皆の動きが少し遅く見える。

身体は軽く意識だけ先へ進んでいく。


このまま何も食べんのはまずい…。


そう分かっている、 けれど集中が解けない。


その感覚に酔い始めていた。

立っているだけで苦しい…。



「湊君。」




不意に声が届く。

聞き覚えのある声だった。

「見てたよ。」 「やったね。」

その声だけで、張り詰めていた神経が少し緩む。

山内さんだった。


両手で小さな袋を差し出している。

「はい、三津浜焼き」

袋には 肉そば入りと書かれていた。

ソースの匂いがふわっと広がる。


その瞬間。

張り詰めていた意識が、一気に現実へ戻す。

楽しかった過去の時間。

全部、その匂いの中にあった。


「……ありがとう。」

湊は小さく呟く。

今の湊が言える最高のお礼だった。

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