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瀬戸内今昔物語  作者: 森村征爾
第二章 高校生編
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第五話 執着

ゴム弓を渡されてから巻藁へ進むまでに時間はかからなかった。


一年生の多くが形を崩して注意される中、湊は暇さえあればゴム弓を引いていた。 放課後の部活だけでは足りず、昼休みも校舎の大きなガラス前で練習することまであった。


鏡の前で足踏みを確認し、肩の高さを揃える。 引き分けの途中で肘が落ちれば何度でもやり直した。

頭の中には、あの日の静けさだけが残っていた。


体育館で初めて見た弓道部の演武。 射法八節で周囲の音が消えた感覚。 あの空気へ、もう一度入りたかった。


巻藁へ進めると聞いた日、朝から落ち着かなかった。

初めて本物の弓を持つ。

弦の張り、 矢の重み、 袴と道着を身につけた瞬間、自分が少しだけ弓道部員になれた気がした。


けれど…。。


実際に弓を引くと思っていたものとは全然違った。

巻藁の前へ立つ。

足踏み、 胴造り、形は作れる。

だがそこから先が駄目だった。

後ろで見ている先輩の視線が気になる。 ちゃんと引けているか。 変な動きになっていないか。 矢を落としたらどうしよう。

そんな雑音ばかりが頭へ入り込む。

弦を引いても、あの静けさは来なかった。


「力入っとるぞ」

「肩上がっとる」

「離れ急ぐな」

次々と指導が飛んでくる。

湊は何度も深呼吸した、けれど焦れば焦るほど身体は固くなる。


休憩時間となり 道場の外でスポーツドリンクを飲みながら湊は小さくため息をついた。

すると隣へ池田先輩が座る。


「どうした」


「……集中、出来んのです」

池田先輩は少しだけ笑った。

「佐倉、お前な」


「当てたいとか、上手く引きたいとか考えながら弓引いとるやろ」

湊は思わず顔を上げた。


「え……」


「そんなん考えたら集中なんか出来んぞ」

意味が分からなかった。

当てたいと思うのは当然だ。 上手くなりたいから練習している。

湊が黙っていると、池田先輩はペットボトルを足元へ置きながら続けた。


「一年は考える時期やけんな」

それだけ言って立ち上がる。

詳しい説明はなかった。

けれどその言葉だけが頭へ残った。


当てたいと思うな。

上手く引こうとするな。


じゃあ、自分は何を考えて弓を引けばいいんだろう…。

それからだった。

湊は寝ても覚めても弓道のことばかり考えるようになった。


電車へ揺られていても、指先で見えない弓を引く。 風呂へ入っていても、会の形を思い浮かべる。 布団へ入って目を閉じれば、巻藁の前に立つ自分が浮かんだ。


どうすれば、あの静けさへ入れるのか…。


どうすれば、心が止まるのか…。


気付けばそればかり考えていた。

ある日など考え事をしたまま電車へ乗り、降りる駅を通り過ぎた。


「……あ」

見慣れない景色を眺めながら、湊はようやく気付く。

普通なら最悪だったが不思議と落ち込みもしない。

何かに夢中になっている。

その感覚が、ただ嬉しかった。


でも…ここから先は好きなだけでは駄目だな。

そして今日も乗り過ごしてもしまう。

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