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瀬戸内今昔物語  作者: 森村征爾
第二章 高校生編
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第四話 射法八節

弓道部へ入ってから半年が過ぎていた。

毎朝、始発に近い渡し船へ乗る生活にも慣れた。

眠い目を擦りながら港を渡りまだ朝露の残る道場へ向かう。


床掃除、的場の土ならし、先輩への挨拶。

最初は雑用ばかりだと思っていた。けれど今は、その時間すら嫌ではなかった。

道場には独特の空気がある。

静かな緊張感。

湊はその空気が好きになっていた。

 

放課後、一年生たちは道場へ集められていた。

外ではラグビー部の掛け声が響いている。グラウンドからは土煙も見えた。けれど、道場の中だけは別の場所みたいに静かだった。


二年生の池田先輩が、一年生たちを見渡す。


「今日、射法八節を見させてもらう」

その言葉だけで、空気が一気に張り詰めた。


「合格した者からゴム弓を渡す」

湊は小さく息を飲む。


 射法八節。

足踏み。 胴造り。弓構え。打起し。引分け。会。離れ。残心。


弓道の基本となる八つの動作だ。

まだ本物の弓は持たせてもらえない。

弓も矢もない状態で一連の動きを審査される。

毎日練習した、家でも鏡の前で何度も繰り返した。


 自信はある。

 ……あるはずだった。


「池田先輩かぁ……」

隣で同級生が小さく呟く。


「キツいな……」

皆、緊張していた。

池田先輩は二年生ながらレギュラーだった。部活紹介の日、壇上で矢を放ったあの人だ。


普段は優しい。けれど、弓具を雑に扱った時や稽古を適当にした時は誰より厳しい。


「形が出来とらんうちに、的なんか狙うな」

それが池田先輩の口癖だった。


「一人目」

名前を呼ばれた一年生が前へ出る。

静かな道場、畳を擦る音だけが聞こえる。

 動作が終わる。


 短い沈黙。


「……不合格」

重たい声が落ちた。

戻ってきた同級生は肩を落としている。


「二人目」

「……不合格」

次々と落ちていく。

空気はどんどん重くなっていった。

ようやく一人だけ合格したあと、湊の名前が呼ばれる。


「佐倉」


「はい」

立ち上がった瞬間、心臓が大きく跳ねた。

前へ出る。

池田先輩の視線が真っ直ぐこちらへ向いていた。


喉が乾く…。

失敗したらどうしよう。動きが飛んだら。

そんな考えが頭をよぎる。

 

……好きなら続けたら良い。


ふいに、山内さんの声が浮かんだ。

渡し船で言われた言葉。

水泳をやめたかった時、自分の背中を押してくれた言葉。

湊は小さく息を吐く。


 ……そうだな。

駄目でもいいや、弓道が好きなんやし。

その瞬間、不思議と身体の力が抜けた。


 静かに足を開く。

 足踏み。

 呼吸を整える。

 胴造り。

 見えない弓を持ち上げる。

 弓構え。

 打起し。


胸の中で、弦が張っていく感覚があった。

周囲の音が少しずつ遠くなる。

後ろにいる同級生たち。

グランドからの掛け声。


 全部が遠ざかっていく。


 ……静かだ。


 引分け。

 胸を開く。

 そこには確かに弓があった。


指先には弦の張り、左腕には弓の重み。


見えないはずなのに、感覚だけが鮮明だった。

 会。


 時が止まった。


そして…、

 離れ。

 右手が後ろへ流れる。

 見えない矢が放たれる。

 腰から下は微動だにしない。

 波のない海みたいに静かだった。

 残心。

 湊は、そのまま動かなかった。


弓もない、 矢もない、 的すらない。

けれど確かに今、自分は何かを射抜いた気がした。

静寂のあと。


「……合格」

池田先輩の声が響く。

張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。


池田先輩が珍しく笑う。

「集中力、ついてきたな佐倉。」


「はい!」

思わず大きな声が出た。


湊は自分の手を見る。

そこには何もない。

けれど、さっきまで握っていた弓の感触だけが、まだ残っていた。


 あの静けさ、張り詰めた空気、全部が心地良かった。

池田先輩から渡されたゴム弓を受け取る。

その瞬間、湊は自然と笑っていた。


まだまだ弓道が好きになれそうだ。

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