悪役令嬢の帰還
この普通のにおい。どこか埃っぽくて、パンが焼けるような平和な景色。
ああ、戻ってきたのね……って。
「……景色が高い!!」
「きゃーーーー!!」
バッシャーン!!
凄まじい水音と共に、全身に衝撃が走った。
水面に映るのは、五体満足っぽい自身の姿。うん、生きてる。とりあえずバラバラになってない。
けれど、肺から火が出そうな勢いで鼻に水が入り、ついでに一番嫌な「耳の奥」にまで。
「……っ、ゲホッ、ゲホッ……!」
眩しい。日差しが凶器のように眩しい。
背中にはドバドバと冷たい噴水が当たり続けている。そこは、王都の広場の中央。愛を象徴する女神、シャラゼリスの噴水の中だった。
引き戻された瞬間、全身を襲ったのは、激しい精神疲労と何とも言えない安堵感。
びしょ濡れのドレス(高級品)の重みを感じながら、私は噴水の縁に捕まって息を整える。周囲の市民たちが、突然「噴水から降臨した悪役令嬢」を不思議そうに見守っているのが分かった。
視線が痛い。でも誰も近付いてこない。
そりゃそうよね、びしょ濡れの女が悪魔みたいに唸りながら噴水から這い出そうとしてるんだもの。不審者どころの騒ぎじゃないわ。
ふと見ると、向こうから銀色の甲冑を響かせた殉教騎士が二人、こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
(……やばい。逃げなきゃ……)
そう思っても、極限状態を終えたばかりの体は、ふやけたワカメのように力が入らない。
もはや私は噴水の中で錆びていく、非常に見栄えの悪い銅像。
されるがままに捕まるしかないのだと、絶望が首を擡げた――が。
騎士たちは私のすぐ横を通り過ぎ、あろうことか、そのままスルーしていった。
「え……?」
無視? 悪役令嬢ですよ? 国家転覆の容疑者ですよ?
一度は安堵したものの、何かに気づいたように騎士たちが「二度見」して戻ってくる。
終わったー! 自分を、仲間を、国を救ったのに、最後の最後で「不法侵入(噴水)」とかで処刑台送りになるんだわ、きっと!
「あの……エルゼ様ですか?」
「ひ、人違いですわ……」
声が裏返った。裏返りすぎて、もはや超音波の域。
「どう見てもエルゼ様なんですが……。それより、大丈夫ですか!? いま、噴水に落ちたような音がしましたが……!」
なんと、彼らは私を救うために手を貸してくれたのだ。
処刑担当だと思っていた騎士達に、文字通りお姫様抱っこ(ただし中身はびしょ濡れのホラー)で救出された私の元へ、遠くから必死な声が聞こえてきた。
「エルゼ!!」
ルカだった。
全速力で走り寄ってきた彼は、私がその名を呼ぼうとした瞬間、挨拶代わりの「全霊のハグ」をかましてきた。
「あ☆※○?▷Β↔❨(ぐぇっ)」
「エルゼ! 無事か!?」
彼の胸から伝わる心音に胸が熱くなるけれど、いかんせん抱擁が強すぎて肋骨が悲鳴を上げている。
「……ルカ。ええ、なんとか。……ゼストゥルゴーラは、地獄へ帰ったわ……たぶん」
抱き合う私たちを、助けてくれた殉教騎士たちは困惑気味に見ていた。
どうやら彼らの目にはもう、私を「悪魔の手先」と断じるような敵意は、最初から(少なくとも今の私の惨めな姿を見てからは)霧散していたようだった。
ひと心地つき、震える手でホラー映画の主役みたいに乱れた濡れ髪を掻き上げた、そのとき――私は「それ」に気づいた。
「……っ!? な、何これ!?」
右手の薬指。そこには見覚えのない、真紅の輝き。
細い真鍮の枠が「毛細血管」のようにうねりながら、一滴の大きな「血の雫」を抱え込んでいる。中の赤い液体が、生き物みたいにゆらゆらと波打っている。
「……は!? な、なにこれーーーー!? 呪いよ、ルカ!! 今すぐ外して! これを外してぇぇぇ!!」
必死に引き抜こうとするが、指輪は皮膚の一部になったかのように、びくともしない。
ルカが私の手を取り、その指輪を凝視して、呆れたような溜息を吐いた。
「……エルゼ、これは呪いじゃないよ。精神を汚染するような魔力から君を守ってくれる、強力な守護の魔道具だ」
「え? じゃあ、あのイカれたゼストゥルゴーラが!? ……そんな親切を? あり得ない。あり得ないわ! 絶対に呪いよ!!」
あの執念深い悪魔が、タダで私を助けるはずがない。信じられるわけがない。
「そうだね。今のは人間の言葉だ。悪魔の言葉で言うなら――『私の獲物だから、他の雑魚は手を出すな』だね」
「…………最高ね」
あまりの最悪さに乾いた笑いが出た。ルカがさらに追撃をかける。
「特別な紋章さ。これを持っている限り、下級の悪魔は君を見ただけで震え上がって逃げ出すよ。『この人間を傷つけたら、ゼストゥルゴーラが黙っていないぞ』という警告板をぶら下げているようなものだからね」
守られている。……けれど、それは同時に、あの狂ったソムリエに一生「味見」の予約を入れられたようなものだ。
「……最悪だわ。最悪!! あんな執念深いソムリエ、二度とお断りなのに……ルカ!! これ、今すぐどうにかして! 無理やり押し付けていったのよ!! しかもこんなに趣味の悪い指輪! センスの欠片もない!」
私は、忌々しそうに右手の不気味な指輪を突き出す。
「まあまあ、便利だよ」
ルカは、いつものように爽やかに笑っている。私は顔を引きつらせた。
「……守られているっていうより、ストーカーに付きまとわれている気分だわ」
こうして、私の「悪役令嬢バッドエンド回避」の戦いは、一つの大きな決着を迎えた。
……けれど、指先でゆらゆらと揺れる真紅の液体を見るたび、私の前途、どころではない多難な未来を予感せずにはいられなかった。




