真実という名の劇薬
ただ毒を振りまいてもダメかもしない……。この異様な空間の影響か、私の思考はかき乱され、狂気に染まっていく感覚に陥る……。
肺が焼ける。
吸い込む空気のすべてが、腐敗した甘い果実の汁に変わったかのようだ。
私は、透明なクリスタルの床に手をつき、胃液が逆流するのを必死で堪えていた。
「……っ、ハァ、ハァ……っ」
視界が赤い。
頭上からは、数え切れない人々の「負の感情」を煮詰めた雫が、重力を無視してポタポタと、天井という名の底へと吸い込まれていく。
私が今立っているのは、王都の広場の残骸などではない。
一人の、救いようのない狂った悪魔の――その「内臓」の真上だ。
「……す、姿を見せなさい、ゼストゥルゴーラ!!」
叫んだはずだった。けれど、自分の声がひどく頼りなく、震えているのがわかった。
怖い。
怖いなんて言葉では足りない。
指先は氷のように冷たく、膝は笑い、奥歯がガタガタと鳴り止まない。
ルカも、クロエも、誰もいない。この異界で、私はたった一人、この化け物の胃袋に放り込まれている。考えちゃダメ……恐怖に飲み込まれてしまう。必死に自分に言い聞かせ続ける。
「ンフフ♪ 相変わらずおもろい子ね。私は今も、あなたの側にいるのよ、エルゼ。ンフフ……ンフフフフッ♪」
耳元で、濡れた舌が這うような声が響いた。
反射的に振り向く。だが、そこにはまたしても誰もいない。
ただ、足元を覆う真紅の液体が、ヌチャリ、と不気味に蠢いた。
「どこ、ですって? おかしなことを聞くのねぇ。私は今も、あなたの血管の中にいるわ。あなたの脳髄が、私の愛したあの騎士の絶望と同じ色に染まるのを、こうして特等席で見守っているの。……ねえ、聞こえる? ほら、彼が『次は君の番だ』って、笑ってお祝いしてくれているわ」
液体の底から、無数の顔が一気に湧き出してきた。
あまりにも無数な、そして歪な「顔」だ。
数千、数万の顔。そのすべてが、一斉に私を見て、同時に笑った。
「ハッ……!」
私は悲鳴を飲み込み、一歩、後ずさる。
だが、逃げ場などない。
私の足首には、いつの間にか「赤い神経」のような蔦が絡みつき、ドレスの裾ごとじりじりと侵食していた。
きっとゼストゥルゴーラは、私という「個」を見ていない。
ゼストゥルゴーラは、私の魂が「発酵」し、最高の苦味を醸し出す瞬間を待つ、飢えた獣なのだ。
「……ああ、そうね、公爵夫人。この子の『自責』は、あの頃のあなたよりもずっとコクがあるわ。ンフフ……楽しみねぇ、どんな味がするのかしら」
ゼストゥルゴーラは、宙に向かって楽しげに相槌を打つ。
そこには、誰もいない。ゼストゥルゴーラはただ、自分の魂に閉じ込めた「過去の犠牲者たち」と、今なお私の苦しみを肴に、酒盛りを楽しんでいるのだ。
こんな狂った相手に果たして、言葉という武器が届くのか……私は不安で仕方がなかった。
私は、懐の小瓶を握りしめた。
手の平は汗でべとべとだ。小瓶を落としそうになるのを、爪が食い込むほど強く握って耐える。
今、私がここで倒れれば、私もあの「顔」の一つに成り下がってしまう。
永遠に、この悪魔の脳内で再生され続ける、ただの「味」の一部に。
――そんなの、死んでもお断り。
不意に、脳裏にあの図書室での光景が鮮明に蘇る。
作戦会議の、重苦しくも決意に満ちた空気。ルカの優しく強い声が、今も耳の奥で響いていた。
「ゼストゥルゴーラの『過ち』を指摘する……? 一体どういうことだい、エルゼ」
ルカの問いに、私は机の上の魔導書を指先で叩きながら、確信に満ちた声で答えた。
「ルカ、あなたは言ったわ。彼女は地獄の貴族に捧げる『最高級のワイン』を醸造しているのだと。……でも、ワインの世界において、最も忌むべき罪は?」
「……産地偽装、あるいは、添加物による味の捏造……」
「そうよ。彼女は『システム』という形であまりに直接的に、私の運命を、私の行動を、そして周囲の感情を操作しすぎた。……これ、不自然だと思わない? 熟成を見守るはずの醸造家が、あろうことか自分の手でシロップを樽に注ぎ込んで、無理やり甘くしているようなもの」
ルカの瞳が、急速に知性の光を取り戻していく。彼は私の意図を瞬時に理解し、震える声で言葉を継いだ。
「なるほど……! 負の感情は、人間の魂から『自発的』に滴り落ちるからこそ価値がある。だが、ゼストゥルゴーラがシステムとして強制的に私を動かし、王子たちの心を歪めて作ったこの絶望は、人間由来の純粋な産物ではない……。悪魔が自作自演で作った『人工甘味料』だ!」
「その通りよ。彼女は『自分の腕前』に酔いしれるあまり、職人が絶対に守らなければならない『素材の純度』という規律を自ら踏みにじったの。……これを地獄の王族に捧げたらどうなるか、一目散瞭然のはずよ」
「ああ、献上どころか、王に対する『詐欺』になる……。職人としての失脚どころか、地獄の法廷で裁かれる致命的な不祥事だ!」
ルカは机に身を乗り出し、狂ったように笑い声を上げた。
「ハハハ……! 素晴らしいよエルゼ! 彼女が誇る『完璧な盤面』そのものが、彼女を有罪にするための動かぬ証拠になる。彼女が有能であればあるほど、介入の痕跡は色濃く残る。……追い出すんじゃない。彼女に『返品・廃棄』をさせるんだ!」
「ええ。彼女が自分の地位と命を守りたければ、今すぐこの『欠陥品』を捨てて、介入の証拠をすべて消して逃げ帰るしかない。……これが、わたくしたちが彼女に突きつける『毒』の正体よ」
「……あぁ、これなら勝てる。不落の要塞だと思っていたのは、ただの『偽造工房』だったというわけだ。エルゼ、行こう。君という最高に不味いヴィンテージを、彼女の喉元に突きつけてやるために!」
ルカの言葉とあの笑い声が、私の心の揺らぎを断ち切った。
みんなが与えてくれた希望。
ルカが託してくれた毒。
それを信じる。ルカを信じる。そして、何より自分を信じる。
私は、顔を上げ、無限に湧き出す「顔の海」を正面から睨み据えた。
「……ンフフ、エルゼ。いい目ね。その『足掻き』こそが、最高のスパイスになるの。さあ、もっと私を愉しませて? あなたの人生というヴィンテージが、最も美しく砕け散る音を、私に聴かせてちょうだい」
私に、もう迷いは一切ない。
「……笑ってられるのも、今のうちよ、ゼストゥルゴーラ。……ンフフ♪ って、そんなに楽しい? 自分の舌が、とっくに腐り落ちていることにも気づかないなんて」
私の声が、響いた。
自分でも驚くほど、冷たく、鋭い声だった。
「なんですって?」
その一言だけで、私の心臓が凍りつき、鼓動を忘れた。
ゼストゥルゴーラの声から、先ほどまでの湿った艶が完全に消え失せた。
代わりにそこにあるのは、凍てついた深淵の底から響いてくるような、無機質で、それでいてひどく「おぞましい」響きの声。
同時に巨大なゼストゥルゴーラの顔の更新が、ピタリと止んだ。
そして世界から、音が消える。一切の「音」が剥ぎ取られた。
さっきまで脳髄を掻き乱していた不気味な笑い声も、数多の犠牲者が漏らしていたはずの吐息も共に消滅した。
赤い液体の表面を這っていた波紋が消え、鏡のような静寂が訪れた。
何万もの瞳が、一斉に私を凝視する。
その重圧に、心臓が握りつぶされそうになる。
けれど、私は引かなかった。ここで引けば、食べられる。
「ゼストゥルゴーラ……。あなたのその完璧な『アドバイス(システム)』。それは、この魂の純度を汚す『混ぜ物』じゃないかしら? あなたが今、うっとりと目を細めているその絶望。……あなたが『素晴らしいヴィンテージ』だと思い込んでいるその成分。……本当に、私のものだと思っているの? 三千年月の公爵夫人の残り香と、私の新鮮な感情を、まだ区別できると思っているの? あなたの仕掛けは完璧だった。でも、この絶望は私の内側から出たものじゃない。あなたがシステムとして『操作』して作らせた、偽物の味よ!」
私は、一歩、赤い液体を踏み荒らしながら前へ出た。
「一流のソムリエ? 笑わせないで。……あなたはただの、思い出に依存したジャンキーよ。過去の味を反芻しすぎて、新しい味を判別する能力なんて、とっくに失っている。……ねえ、気づいてる? あなたが今、至福の表情で味わっている私の『味』……。それ、ルカが作った、安っぽい保存料入りの『人工甘味料』よ。これを地獄の王族達に捧げなさいな。でも、彼らが一口飲めば気づくはずよ。これはゼストゥルゴーラが自分で調合した、偽りのヴィンテージだ』って。それは献上ではなく、王への侮辱(詐欺)になるわよ。」
ゼストゥルゴーラの「顔」が、ひきつった。
「……そんなはずはない。そんなはずはないわ!……私は完璧」
「ただの錯覚よ。……あなたは、自分の『鑑定眼』を信じすぎた。だから、私がわざと見せた『偽物の絶望』を、本物だと思い込んで飲み下したの。……どう? プロ失格の味は。……あなたの魂という名のアトリエは、今、私の持ち込んだ『不純物』で、泥水のように汚染されているわよ。そして自分の手で味を調律して、地獄の王族に『天然のヴィンテージ』だと偽って差し出すつもり? 一流のあなたのキャリアに、そんな『銘柄偽装』の汚点を残して、本当に後悔しないの?」
その瞬間、世界が消えた。
音も消え、視界すべてが闇に覆われた。
だが次の瞬間…。
「……ああ……あああああああああああああああ!!!! 違う! 違う!! 私の、私の 私のーー!! 穢れる、穢れる穢れる穢れる穢れる穢れる穢れる穢れる穢れる穢れる穢れる穢れる……」
世界が赤く染まり、また闇へ。赤く染まり、また闇へ。視界が焼けるように赤と黒の世界が入り乱れる光景に私の網膜が悲鳴を上げている。ヴィンテージが割れるような、高く不快な音、最高級の絹が泥水で腐るような嫌な感触が私を覆い尽くす。
ゼストゥルゴーラの数多の「顔」が、一斉に崩壊し始めた。
溢れ出し、咲き誇っていたあの無数の顔が、今度は逆流し始め内側へ、中心の暗黒へと、凄まじい速度で顔が外縁から現れては、吸い込まれていく。
外側へ広がることを許されず、互いの顔を噛み砕き、魂を削ぎ合うようながら一つの点へと収束していくマトリョーシカ状態の液体。
ゼストゥルゴーラが魂に取り込んでいた「最高の瞬間」が、偽物の味によって拒絶反応を起こし、腐敗した澱のように沈殿していく、悍ましい光景そのもだった……。
ゼストゥルゴーラの魂に刻まれた「至福」たちが、偽物の不純物を拒み、互いを押し潰しながら、ゼストゥルゴーラという核に向かって崩落していく。
光が弾けるたびに、彼女の顔が歪み、縮んでいくのが見える。
さっきまでの優雅なソムリエの面影はない。
自分の宝物に泥を塗られ、パニックを起こした幼児のような、あるいは内側から裏返ろうとしている化け物のような、正視に耐えない絶望の形。
赤と黒の点滅の中で、私は見た。
彼女の目から、涙ではなく、どろりとした「澱」が溢れ出すのを。
彼女の誇りは、今や自身の魂を焼き尽くす「猛毒」へと変わっていた。




