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真紅の醸造所

魔法陣の中央で、私はルカの指示通り、小瓶に入った鈍い銀色の粉末を足元へ撒いた。

 ルカとクロエの詠唱が重なり、視界が爆辞的な光に包まれる。


 ――一瞬だった。


 転移の光が収まった瞬間、私を襲ったのは、むせ返るような「甘ったるいラズベリーの焦げた臭い」と、ねっとりと肌にまとわりつく湿気。なにより、胃の腑を直接掴まれるような、濃密すぎて吐き気を催す香気だった。


「……っ、う、あ……」


 私は咄嗟に口を手で塞ぎ、膝をつきそうになるのを必死で堪えた。

 顔を上げると、そこには現実を裏返しにしたような、悪夢の情景が広がっていた。


 そこは、王都の広場を逆さまにした異界の広間。

 本来の「地面」であるはずの遥か頭上には、巨大な漏斗ろうとの形をした雲が国全体を覆うように渦巻いている。その先からは、一滴、また一滴と、真紅の雫が滴っていた。……いや、違う。それが天にある漏斗に吸い込まれるたび、ピチャリ、ピチャリと、鼓膜の裏側を直接叩くような粘ついた音が響く。この国中の人々が、今この瞬間も、無意識のうちに心を削り取られている音だ。


 私が立っている床(本来の天井)は、透明なクリスタルのように透き通っており、その下の暗い虚空には、これまで犠牲になった人々の魂の抜け殻が、ワインの樽に漬け込まれた果実のように静かに浮かんでいる。


 私は、震える足取りで空間の中央へと歩を進めた。

 そこには、空間全体から血管のような管で繋がれた、一際巨大な黄金の蒸留樽が鎮座していた。床は得体の知れない赤い液体で満たされ、一歩踏み出すたびに波紋が広がっていく。

足元の液体が、ただの水ではなく、まるで生き物の体温を持っているよう。一歩踏み出すたびに、赤い飛沫がドレスの裾を汚し、それはまるで生きた吸血虫のように布地を這い上がってきた。


「……っ、離れなさい……!」


 振り払おうとしても、液体は粘りつく熱を持って、私の肌を品定めするように蠢いている。


冷静に……冷静に……冷静にならないと……。


 周囲では、目に見えぬ「何者か」が操っているかのように、いくつもの道具が宙を舞い、機械的に動いていた。


 黒いガラス製のテイスティング・ピペットが、蒸留樽の穴から吸い上げた真紅の液体を赤い光に透かし、色調をチェックしている。


「……透明度が足りないわ。あなたの絶望には、まだ『期待』という不純物が混ざっている」


 空間そのものが喋っているかのように、声が直接脳内に響く。

 比重計ハイドロメーターが、誰かの「魂のおり」を計測し、その目盛りをミリ単位で厳密に読み取っている。


「……0.1ミリ。これだけの差で、あの方々に捧げる『感情』は『ただの汚水』に成り下がってしまう」


「……一体……一体どこにいるの!?」

私は叫んだ。だが、声は濃密な霧に吸い込まれて消える。しかし、叫んだ私の頬を、冷たいガラスの感触が撫でた。いつの間にか、黒いピペットが私の目元に迫っていた……。

「動かないで。涙の塩分濃度が狂うわ。……ああ、いいわ。その怯え。瑞々(みずみず)しくて、けれど後悔のコクが足りない」


 銀の燭台が、澱引きのために「瓶」の首を赤い光に透かしている。


「最後に残るこの苦味こそが、ヴィンテージの魂。……でも、あなたは少し……苦すぎたかしら?」


 赤い霧がふわりと晴れ、私の目の前で、宙に音もなく波打つ真紅の巨大な円形の「海」が姿を現した。

 いや、それは海ではなかった。


「……顔……?」


 海のような液体の中央から、女の顔が湧き出しては、肥大化していき、縁へと波紋するように消えていく。その消えゆくまでの間に、再度内側からまた新たな顔が産声を上げ、歪んだ笑みを浮かべて肥大化していく。それを延々と、高速に、何度も何度繰り返していく光景は、視点が定まらず、見ているだけで吐き気がしてくる感覚に囚われる。


 マトリョーシカのような底なしの顔の群れ。

 さらに、その顔の一つ一つが、かつてゼストゥルゴーラが「収穫」したであろう犠牲者たちの成れの果てだと気づくのに、時間はかからなかった。


 引き裂かれたような笑顔は、三百年前に非業の死を遂げたという公爵夫人に酷似していた。

 うっとりと目を閉じている青年は、行方不明になった伝説の騎士に似ている。そしてあり得ない物を見てしまった。歴史の教科書で見た人達だけでなく、幼少期に行方不明になった親戚達の顔までも映し出されては消えていった……。もはやありとあらゆる顔が明暗繰り返すように、止まることはない。

 ゼストゥルゴーラは、彼らが死の間際に放った「最高の煌めき」を魂に刻み込み、こうしてアトリエを飾る絵画のように、永遠に自身の体内で愛で続けているという悍ましい現実を叩きつけられた。。


 ゼストゥルゴーラにとって、この惨状は「仕事」ですらない。

 ただの娯楽。至福のコレクション。誰にも邪魔されずに反芻し続ける、狂ったソムリエの内なる晩餐会。


「いかれてる……。常軌を逸してる……」


「いいわ、エルゼ。……あなたのその、すべてを悟った絶望」


 数多の犠牲者の声が重なり合い、一つの意志となって私を包囲する。


「――今、最高に『飲み頃』ね」


 逃げ場はない。私はすでに、ゼストゥルゴーラの胃袋の、ど真ん中に立っている。

 私は足元の赤い液体を見つめ、ルカとの「回想」を呼び覚まそうと必死に意識を繋ぎ止めた。


(……まだよ。まだ、あなたの思い通りにはさせないわ。ゼストゥルゴーラ)


 私は、悪魔の甘美な誘惑に抗うように、懐に隠した「毒」へと、震える手を伸ばした。

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