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発酵する国

裏口から這い出した私たちが目にしたのは、夕闇に染まる学園ではなく、どす黒い殺意に満ちた異様な光景だった。遠くに見える魔術塔。そこへ至る道には、殉教騎士団の銀甲冑が不気味に蠢き、じわじわと包囲網を狭めてきている。


「……ここからは私が時間を稼ぐ。早く、魔術塔へ!」


 ギルバート様が鋭く命じ、私たちは茂みの影に身を潜めた。


背後から、彼が騎士団を欺く毅然とした声が聞こえてくる。

「ギルバート様。エルゼ嬢を見かけませんでしたか?」

「見かけた。校舎の中に入っていくのを見たぞ。貴公らはあそこの出口を封鎖し、誰も出入りできないようにせよ。残りは私と共に来い。校舎内をくまなく捜索する!」

「了解!」


 ギルバート様の「偽の誘導」によって、騎士たちの足音が校舎内へと吸い込まれていく。その隙を突き、私たちは必死に魔術塔へと駆け込んだ。


 塔の最下層。行き止まりの壁の前で、ルカが短く呪文を唱え、掌をかざす。すると、強固な石壁が陽炎のように揺らぎ、隠し部屋への道が開かれた。


「エルゼ、こっちだ。さあ!」


 私たちが飛び込むと同時に、背後の壁が再び塞がり、追手を完全に遮断する。ルカは息を切らしながら、部屋の中央に描かれた、見たこともないほど精巧で複雑な魔法陣へと私を導いた。


「私に掴まっていろ。……大丈夫だ」


 ルカの言葉に、私は彼の腕を強く抱きしめた。恐怖で震えそうになるのを、彼の温もりが打ち消してくれる。


魔法陣が白銀の光を放ち、視界が真っ白に染まった。


 転移の衝撃が収まった時、そこはルカの私室だった。

 天井まで届く本棚には、禁忌の魔導書や不気味な薬瓶が所狭しと並び、中央の広々としたデスクには解析途中の羊皮紙が散乱している。普段なら彼の知的好奇心の聖域であるはずのその部屋は、今や「革命の司令部」と化していた。


「ルカ様! 国中が大騒ぎです!」


 飛び出してきたのは、ルカの弟子であるレノスだった。その顔は恐怖で青ざめている。


「噴水や川……あらゆる水が赤く染まり、そこからエルゼ様の声が、呪いのように国民に語りかけてきていると! ゼストゥルゴーラが、国ごと飲み込むつもりです!」


 悪魔の精製所が、ついに最終工程に入ったのだ。私の声を使い、国民の恐怖を煽り、この国を巨大な「絶望の樽」に変えようとしている。


「レノス、落ち着け。扉を見張っていてくれ。……絶対に誰も入れるなよ」

「わ、分かりました。……エルゼ嬢、幸運を……」


 レノスの祈るような視線を受け、私は部屋の奥へと進んだ。だが、そこにいたのはレノスだけではなかった。


「エルゼ様……! ご無事でよかった!」


 駆け寄ってきたのは、クロエだった。その隣には、険しい表情ながらも私を見て安堵の溜息を漏らすレオンの姿もある。


「どうして……あなたたちまでここに?」


 私の問いに、ルカが苦渋に満ちた声で答える。


「クロエの『聖女』としての力がなければ、ゼストゥルゴーラの本体がいる隠蔽空間まで、転移することができないんだ」


「……クロエと、彼女の友人であるエルゼ様を、放っておくことなんてできません」


 レオンが、一歩前に出て私を見据えた。彼の手に握られていたのは、ドワーフの遺物と思われる、重厚で荘厳な装飾が施された小瓶だった。


「レオン、例の物は?」

「……ええ。命懸けで調達してきました」


 その小瓶こそが、ルカの立てた「最終作戦」の鍵。

 ルカは小瓶を受け取り、それを愛おしそうに、そして恐ろしそうに見つめた後、私に向かって静かに差し出した。


「これで、ゼストゥルゴーラの元へ行ける。……だが、エルゼ」


 ルカの表情が、これまでに見たことがないほど沈痛に歪んだ。


「……君が一人で行くしかないんだ。あの空間は、ゼストゥルゴーラが君の魂と結びつけ用意した『純粋な醸造所』。不純物である我々が踏み込めば、その瞬間に空間は崩壊し、すべての魂は永遠に消失する」


 私は、ルカから差し出された小瓶を受け取った。冷たく、重い、運命の重み。

 クロエが泣きそうな顔で私の服の袖を掴んでいる。レオンは拳を握りしめ、ルカは今にも私を引き留めそうなほどに瞳を揺らしていた。


「……わかったわ」


 私は、鏡の中にいる自分自身を見つめるように、深く息を吐いた。

 孤独な戦い。けれど、背負っているのは私一人の命ではない。


「ルカ。作戦は、すべてこの頭に入っているわ。……わたくしを、あの悪魔のところへ送って」


 私は、友人の聖女と恩人の魔術師、そして最高のシェフに見守られながら、最後の一歩を踏み出す決意を固めた。

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