反撃の狼煙
蒼い結界の光が、ルカの荒い呼吸に合わせて激しく明滅している。
天才と謳われた王宮魔術師の彼が、たった一人の悪魔が描いた「絶望のレシピ」の前に膝を突き、その叡智を自ら否定し始めていた。
「そんなことない。あなたの考え出した方法は、誰でも考えつくようなことじゃないわ。それに……」
私が必死に言葉を継ごうとしても、ルカは力なく首を振った。
「エルゼ、完璧じゃないとダメなんだ。完璧じゃないと……。この悪魔は追い返せない。プロフェッショナルな悪魔に対して、素人(人間)が『言葉』や『態度』でどれだけ挑んでも、鼻で笑われておしまいだ。完全に詰みだよ……。ゼストゥルゴーラは、もはや『攻略対象』ではない……。不落の要塞だ」
ルカの瞳に宿る深い陰。
図書室を支配する空気は、鉛のように重く沈んでいく。不落の要塞。その言葉が、私の希望を冷たく押し潰そうとした。
けれど。
「………………」
私はルカのその言葉を、頭の中で反芻した。プロフェッショナル。完璧。要塞。
「…………プロフェッショナル…………プロフェッショナル……待って!」
脳内で火花が散る。私はルカの肩を強く掴み、彼の顔を覗き込んだ。
「ゼストゥルゴーラを攻略対象と考えなかったら? ゼストゥルゴーラの『正解』を突くのはやめましょう。……ゼストゥルゴーラの『過ち』を指摘するのよ!」
「過ち? 完璧な悪魔に、そんなものがあるのか……?」
ルカが呆然と呟く。だが、次の瞬間、彼の灰色の瞳に劇的な変化が訪れた。絶望の澱みが一気に晴れ、かつての、いや、それ以上の恍惚とした光が宿る。
「…………そうか!!」
ルカは狂ったように笑い出した。その笑い声は、迷宮の出口を見つけた冒険者の歓喜そのものだった。
「逆転のロジックだ!! ハッハッハッハッ! そうだ、その通りだエルゼ! 要塞本体のゼストゥルゴーラに執着せずとも落とせる。落とせるぞ!! エルゼ、最高だ! あぁ……作戦は……そうだな……、うーん、こういうのはどうだ?」
ルカは声を潜め、私に「最終案」を語り始めた。
それは、これまでのどんな魔導書にも記されていない、悪魔の誇りを逆手に取った最も残酷で美しい「毒」の処方箋。
聞き終えた私は、静かに、けれど確信を持って頷いた。
「勝てるわ。さすがルカね」
「いいや、エルゼ。君のおかげだ。君の発想が、不落の要塞に唯一の、そして致命的な亀裂を入れたんだ」
私たちは、暗闇の中で小さく笑い合った。
「ンフフ……」
「ハハハ……」
束の間の、しかし確かな勝利への予感。
だが、運命は一刻の猶予も与えてはくれない。
その時。
外から、石畳を激しく踏み鳴らす、凄まじい足音が聞こえてきた。
「……っ!」
私とルカは、図書室の汚れた窓に駆け寄り、外を覗き込んだ。
そこには、銀の甲冑を纏った一団が、冷徹な隊列を組んで進軍してくる姿があった。――殉教騎士団。
私の体から血の気が引いていく。私は知っていた。彼らは本来のバッドエンドの時……私を罪人として連行し、処刑台に運ぶ時にしか現れない「死の使い」であることを。
「……ゼストゥルゴーラが、仕上げに来たようだね」
ルカの横顔が引き締まる。結界が消え、耳元に再び「あの声」の予兆が微かに混じり始めた。
「ここから早く逃げなければ」
「でも、どこに?」
「学園にある魔術塔から、私の私室へ繋がる僅かな転移を用意してある。そこへ行こう」
ルカは私の手を強く引き、先導するように走り出した。
旧図書室を出て、ルカが周囲を警戒しながら左の廊下へ。その時、右の廊下の奥から、地鳴りのような金属音が響いてきた。
「――エルゼ・シュタインの名を確認せよ! 悪魔の手先を逃がすな!」
騎士たちの声が微かに聞こえる。恐怖で足が竦みそうになるのを、ルカの温かな手が繋ぎ止めていた。
階段への角を曲がった、その時だった。
「…………!」
目の前に、二人の人影が立ち塞がった。
金髪を揺らすアルフレッド王子。そして、大剣を背負ったギルバート様。
妙な沈黙が流れる。
王子はじっと、私の目を見ていた。しかし、昨日の茶会で見せた冷徹な氷の瞳ではない。そこには、複雑な熱を帯びた、深い後悔と決意が混ざり合っているようでもあった。
「……騎士団は任せろ」
王子の口から出た言葉に、私は理解が追いつかなかった。
「ギルバート、騎士団がこの階段から来た時のために、先導を頼む」
「はっ。快く承りましょう」
ギルバート様が、私に向かって短く、力強く頷いた。
「……エルゼ。もう一度、君を信じる」
騎士団の近づく足音が、背後で大きくなっていく。
「早く行くんだ。ここは私が食い止める」
王子の背中は、かつてないほど大きく見えた。
私とルカ、そしてギルバート様は、弾かれたように階段を駆け降りていく。
上からは、既に到着した騎士団と王子の、緊迫した会話が響いていた。
「これはアルフレッド様。……悪魔の手先となったエルゼ嬢が、あなたの命を狙っているとの一報を受けました」
「ああ、知っている。だからギルバートにこの先を調べさせていたんだ」
王子の声は、一分の隙もない冷静さを保っていた。
「相手は悪魔の手先。お一人では危険です」
「……そうだな。では、外まで護衛を頼む」
「はっ!」
王子の「嘘」が、騎士団の進軍を鮮やかに逸らしていく。
私たちは、その背に守られながら、薄暗い魔術塔へとひた走る。
ゼストゥルゴーラ。あなたが描いた「完璧な絶望」に、今、綻びが生じている。
待っていなさい。あなたのその最高級のワイン、私たちが一滴残らずぶちまけてやるわ。




