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潰えゆく叡智

旧図書室の闇は、もはや物理的な暗さだけではなかった。ルカの口から語られる「ゼストゥルゴーラ」という悪魔の底知れなさが、私たちの周囲の空気を毒素のように変えていく。


「……4と5は、対象を変えるだけかもしれないわ」


 私は、自分の指先の震えを隠すように声を絞り出した。


「わたくしが『雑音』になったり『欠陥品』になったりして、彼女がわたくしを諦めたとしても……。次は、あのクロエが狙われるかもしれない。……あの子だけじゃない。レオンさんや、カトリーヌ様、そして……」


「ああ……そうだね。奴はきっと、完成までこじつけるだろう。大勢が犠牲になってしまうかもしれない……」


 ルカは苦渋に満ちた表情で天を仰ぐ。


「ゼストゥルゴーラの底知れなさが際立っているな。単に君を突き落とすだけでなく、周囲の人間関係という『土壌』ごと発酵させ、国中を巻き込んだ巨大な『絶望の醸造所』を作り上げてしまっている。……くそ、どうしてもっと早く気づけなかった……!」


 ルカが拳で机を叩くと、その乾いた音が静寂を無惨に引き裂いた。

 私は悟る。ゼストゥルゴーラは、まさに「詰み」の状態を芸術的に完成させていたのだ。いくら私が「普通」でいようとしても、周囲の憎悪という濁流がそれを許さない。ここはもう、乙女ゲームの舞台などではない。ゼストゥルゴーラが丹念に作り上げた、逃げ場のない盤面そのもの。


 きっと、犠牲者は私が初めてではないはず。

 この何百年もの間、多くの高潔な魂が、まな板の上の魚のように彼女の工房へと運ばれ、極上のワインに加工されてきたに違いない。


「……この完璧な布陣を敷く『超一流の悪魔』を地獄へ送り返すには……!」


 私は長く、長く考え、そして一つの閃きに辿り着く。


「ねえ、ルカ。ゼストゥルゴーラの職人としての『プライド』と『納品先(地獄の王族)』への責任感を突く、極めて高度な心理戦を用意すれば……」


 頭を抱えていたルカが、弾かれたように顔を上げた。


「エルゼ……。それは、良い案だ。彼女の最も脆い部分は、その肥大化したプロ意識にある……」


「でも、わたくしじゃ具体的なことが浮かばない。お願い、ルカ。……あなたの知識を、わたくしに貸して」


「……少し待ってくれ。考える」


 ルカは再び沈黙し、自身の脳内にある膨大な魔導書をめくるように思考の海へ潜っていく。私はじっと待った。蒼い結界が揺れるたび、私の心臓も脈打ち、祈るような気持ちで彼を見つめ続ける。


「……考えがまとまった」


 私は固唾を呑んで、彼の言葉に耳を傾ける。


「作戦6。奴が作り上げた絶望が『完璧すぎて、地獄の顧客に提供できない』というロジックで追い詰める。……『絶望の致死量』による価値の反転だ。ゼストゥルゴーラは最高級のワインを造っているが、ワインには『適度なアルコール(絶望)』と『芳醇な香り(かつての幸福)』のバランスが必要だ……。いや、これはダメだ。彼女なら『その致死量こそが至高』と言いくるめてしまうだろう」


 ルカの表情から、見る間に自信が失われていく。


「7……『顧客(地獄の王族)』への背信だ……。ゼストゥルゴーラは自分の作品を地獄の貴族に届けなければならない……。エルゼ、君がゼストゥルゴーラの完璧な『絶望のアドバイス』を逆手に取った『最悪の自爆(物語の強制終了)』をちらつかせ……。いや、ダメだ。彼女は君の自死すらも、悲劇のスパイスとして利用するだろう」


「続けて、ルカ。なにか思い浮かぶかも」


「いや……」


「お願い」


「……ゼストゥルゴーラは『最高の状態で収穫したい』と思っている。しかし、君が今この瞬間に、ゼストゥルゴーラの意図しない形――例えば、誰にも看取られず、憎しみすら抱かずに消えるなど――で物語を終わらせようとすれば、そのヴィンテージは『腐敗』する。名声に傷がつくとゼストゥルゴーラに思わせるんだ。今ここで収穫を強行すれば『二流の品』になる、と。しかし……このまま現世に留まれば、素材である君が壊れてしまう。無意味だ。君を救えないどころか……。あぁ……!!」


 ルカの声が震え、その瞳には恐怖の色が混じり始めた。悪魔の底知れぬ悪意に当てられ、彼の理性が崩壊の危機に瀕している。


「ルカ、落ち着いて。一緒に考えるって言ってくれたでしょ?」


「あぁ……」


「8……。 『デカダン(退廃)の極致』による逆転……。これまでの『普通(普遍)』という武器を、『諦念レジグネーション』に昇華させる方法だ。君が『あなたの勝ちよ。完璧な絶望だわ。……で、これが欲しかったの? 安っぽいわね』と、ゼストゥルゴーラの最高傑作を『どこにでもある、ただの不幸な物語』だと一蹴するんだ。……ゼストゥルゴーラは『特別』を求めている。しかし、君がその絶望を『ありふれた、つまらないもの』として扱い、全く心を動かさずに受け入れてしまうことで、ゼストゥルゴーラの芸術性は否定されるという……。ダメだ! こんな役に立たないことしか思いつかない……。くそ!!」


「ルカ……」


 私は、泣き叫ぶように自分を責めるルカを、ただ呆然と見つめるしかなかった。

 知識も、魔術も、叡智も。

 すべてを兼ね備えた天才魔術師が、たった一人の悪魔が仕掛けた「絶望のレシピ」の前に、無力な子供のように打ちひしがれている。


 図書室を包んでいた蒼い結界の光が、不吉に明滅を始めた。

 それは、ルカの魔力が、そして彼の心が、限界を迎えている合図だった。

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