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職人の矜持と、泥の純度

蒼い結界の中に漂う沈黙は、重く、そして冷たかった。

 ルカは私が提示した「作戦1〜3への懸念」を、まるで複雑な数式を解く学者のような目つきで反芻していた。図書室の窓から差し込む月光は、結界の蒼に混じり、不気味なほど美しい紋様を床に描いている。


「……確かに、君の言う通りだね、エルゼ」


 ルカが静かに、そして納得したように言葉を紡いだ。その声に棘はなく、むしろ私の未熟な指摘すらも、彼は反撃のための重要なピースとして拾い上げてくれた。


「ご、ごめんなさい……。せっかくあなたが命懸けで考えてくれたのに、水を差すようなことばかり……」


 私は思わず俯き、力なく謝罪の言葉を零した。自分でも驚くほど声が震えている。唯一の味方であるルカの案を否定して、もし彼が「なら勝手にしろ」と去ってしまったら――その恐怖が胸を締め付ける。


「いいんだよ。正直に言ってくれた方が助かる」


 ルカは私の頭にそっと手を置き、宥めるように言葉を続けた。


「相手はとても恐ろしいからね。……ふ〜ん。そうだね、一緒にじっくりと作戦の欠点を洗い出して、別の作戦を考えていこう。君の『直感』は、誰よりも当事者としての鋭さを持っている」


 ルカは再び、テーブルに広げた魔導書に視線を落とした。


「まず、君の指摘した通り、ゼストゥルゴーラのような『職人』タイプの悪魔にとって、2の『客の評判を盾にする』という人間側の口出しは、プライドを逆なでするだけのノイズにしかならなかった。確かに、ワインの出来栄えに人生を賭けているプロに、素人が『それ腐ってますよ』と言っても、『お前に何がわかる』と一蹴されて終わりだ。彼女の審美眼は、人間の倫理や論理を超越したところにあるからね」


 ルカの指先が、ページの上で複雑な軌跡を描く。


「そして1と3の『味を壊す』行為。これは芸術家にとっての『作品の損壊』だ。地獄へ帰るどころか、その場でこっちを握りつぶすような猛烈な憤怒を招くリスクが極めて高い。……そうだね、作品を侮辱された職人が取る行動は、撤退ではなく『破壊』だ。エルゼ。やはりゼストゥルゴーラは、他の悪魔に比べてかなり『扱い』が難しいよ。洗練を求めすぎるがゆえに、一切の妥協が死に直結するタイプだ」


 私は、ルカの目を見つめ続けた。

 彼の中に、新たな「火」が灯るのを待っていた。


「そこで考えたんだ。悪魔の性質である『次元の違う傲慢さ』と、ゼストゥルゴーラの役職である『滴下ディスティラー』という点から、別の方向性を探ろう。……今までの作戦プロセスのように、貶したり、破壊したりという敵対的な手段ではなく、――『興醒め』させる方法はどうかな?」


「興醒め……?」


 私は……頭が混乱してきた。先ほどまでの「死か、屈服か」という二択の戦場に、ルカは全く異なる概念を持ち込もうとしている。


「いいかい? 悪魔が地上から去るのは、その場所が『自分にとって価値のない、あるいは居心地の悪い場所』になった時だ。ゼストゥルゴーラの場合、それは『極上のワインを造る環境が、物理的・概念的に損なわれた時』を指す。もちろん、君が言ってくれたように、物理的に暴れるのは逆効果だけどね。……そこで、作戦4。ゼストゥルゴーラの『熟成の沈黙』を『雑音』で汚すのはどうだろうか?」


 ルカは身を乗り出し、私に言い聞かせるように言葉を刻んだ。


「ゼストゥルゴーラが求めているのは、愛が憎しみに、希望が絶望に変わるまでの『静謐で濃厚な時間』だ。彼女はその移ろいの中に、至高の美しさを見出す。……そこに、彼女が最も軽蔑するような**『低俗で、一貫性のない、あまりに浅はかな感情の垂れ流し』**をぶつけ続けるという方法だ」


「低俗で、浅はかな……感情?」


「そう。洗練を好むゼストゥルゴーラにとって、洗っても落ちない泥のような『理解不能な低俗さ』にその場が汚染されたら、職人として『ここではもう良い仕事ができない』と、道具をまとめて工房――つまりこの地上を引き払う可能性が出てくる。例え精製途中でも、完成間近の献上品を必死に守る為にね。なにせ相手は地獄のお偉方だ。下等な雑味の混じった不完全な品を出すくらいなら、その場を放棄して逃げるのが、職人としての最後のプライドになるかもしれない」


 あまりに「悪魔の心理」を突き詰めた策に、私は寒気を感じた。

 だが、ルカはまだ止まらない。


「或いは、作戦5。『醸造の権利』を放棄させる。

ゼストゥルゴーラは『自分が愛憎をコントロールしている』という全能感に酔っているはずだ。もし、人間側が**『自分の感情を、自分ですら制御できないランダムなもの』**として扱い、彼女の『滴下(抽出)』のロジックを根本から無効化してしまったら、どうかな?」


「自分で、感情を制御、できない……」


「『計算通りに滴らない滴』は、ゼストゥルゴーラにとっては単なる失敗作だ。欠陥のある樽からは、いくら待っても最高級のワインは得られない。それを無理に修正しようと足掻かせるよりも、潔癖な職人として『この素材は欠陥品だ』と放り出す方向に誘導できる。作戦1、2、3と、この4、5が根本的に違うのは……こちらからの訴えではなく、ゼストゥルゴーラ自身に判断させるという点に焦点を当てている事なんだ」


 ルカの言葉が、私の心に深く沈み込んでいく。

 これまでは、私がどうにかして彼女を「追い出そう」としていた。だがルカの案は、彼女自身の「美学」によって、彼女自身の意思で、私を「捨てる」ように仕向けるというものだ。


「……だがエルゼ。ゼストゥルゴーラを地獄へ送り返すのは、正直に言って至難の業だ。下手にキレさせれば即死、理屈を並べても『いいから絞らせろ』で終わりだ。完璧な作戦なんて、この世には存在しないのかもしれない」


 ルカは再び、私の両手をしっかりと握り締めた。

 彼の灰色の瞳が、結界の蒼光を反射して、かつてないほど激しく燃えている。


「でも、重要なのは、君の強い意志が必要なんだということだ。 君が、あの悪魔に『この女は、私のレシピには収まらない、救いようのない不純物だ』と確信させるだけの、揺るぎない覚悟……。それがあれば、道は開ける」


 私はルカの手の温もりを感じながら、深く息を吐いた。

 雑音、ランダム、低俗、不純物。

 公爵令嬢として、そして「完成された悪役」として教育されてきた私にとって、それは最も受け入れがたい屈辱の姿。


 ――けれど、あの嘲笑う悪魔を追い払うためなら、私はどんな「泥」にでもなってやる。


……でも。

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