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絶望の処方箋

旧図書室の冷たい空気の中に、ルカが展開した蒼い結界の光だけが、私たちを包み込む「聖域」として浮かび上がっていた。結界の向こう側では、ゼストゥルゴーラという名の悪魔が、今もなお私の破滅を肴に喉を鳴らしているかもしれない。その事実が、皮膚の下を這うような不快感を私に与え続けていた。


「……どうやって、その悪魔を倒せばいいの?」


 私の震える声に、ルカは片眼鏡の奥にある鋭い瞳を向けた。彼は私の肩に置いた手を離し、代わりにテーブルに広げられた古めかしい魔導書の一ページを、静かに、しかし重々しく指差した。


「いいかい、エルゼ。悪魔は感情を喰らう。……だから、まずは落ち着いて聞くんだよ」


 ルカの声は、冷徹なまでに冷静だった。その冷たさが、逆上しそうになっていた私の心を、ゆっくりと凪いでいく。


「……分かったわ」


 私は、膝の上で握りしめた拳に力を込め、冷静さを必死に保った。ここで私が取り乱せば、ルカの紡ぐ「反撃の糸」を読み違えてしまう。


「まず、現在の状況を整理しよう」


 ルカは私の目だけを見つめ、淡々と語り始めた。


「ゼストゥルゴーラにとって、今は『まもなく最高級のワインが完成する』という、至福のデッドヒートの最中だ。君が絶望し、周囲との絆を自ら断ち切り、孤独の中で沈んでいく……。その過程そのものが、彼女にとっての熟成工程なんだよ。そして周りの、国中の皆んなもね。だからこそ、今のゼストゥルゴーラの関心は『完成間近の果実』。自分の腕に惚れ込んで、素材が反抗してくる可能性を低く見積もっているはずだ」


 ルカの言葉を一言も聞き漏らさないよう、私は彼の瞳を凝視し続けた。


「……うん。続けて」


「そして、残酷な現実だが……悪魔は人間には絶対に倒せない。特にゼストゥルゴーラのように『洗練』を司る存在を、力でねじ伏せるのは不可能なんだ。暴力や魔力といった物理的な抵抗はまったく意味をなさない」


 ルカの目だけを見つめ、冷静さを必死に保つ。その瞳の奥には、私を救おうとする執念と、人智を超えた存在への敬畏が混ざり合っていた。


「……だが。悪魔を『打倒』する必要はないんだ。それは先人達が、数々の犠牲を払いながら何度も証明してきた既成事実だ」


 ルカは、三本の指を立てた。


「ゼストゥルゴーラを地獄へお引き取り願うには、彼女が持つ『審美眼』や『職人のこだわり』を逆手に取った、非常に繊細な劇薬が必要になる。……私が導き出した策は三つだ」


 ルカの声が、一段と低くなる。


「作戦1。『ヴィンテージ』の崩壊。

ゼストゥルゴーラが求めているのは、濃度の高い感情だ。純粋な愛が深淵の憎しみに変わったり、希望が絶望に変わったり、そういう『時間』と『過程』なんだ。ならば、その熟成期間を台無しにする、あるいは『味が急激に劣化する』ような精神的変化を突きつける方法だ。例えば、対象が……つまり君が、絶望や憎しみを通り越して『無関心(虚無)』になる。あるいは、絶望や憎しみを抱いたまま、それを自己犠牲の愛として昇華させてしまうといった、ゼストゥルゴーラのレシピにない『不純物』を混ぜる作戦だ。職人は、予定していた味から外れたものを、最も嫌うからね」


 私は、自分が無関心になる姿を想像しようとした。だが、あんなに大切だった王子やクロエを、ただの虚無として扱うことが、果たして私にできるのか。それに今さらポジティブに……悪魔を騙すほど本気にはなれない……。


「作戦2。『納品先(地獄の貴族)』の威を借る。

彼女は職人だ。そして職人である以上、上客である地獄の王族たちの舌を恐れているはずだ。『ゼストゥルゴーラが今作っているこの滴は、実は致命的に腐っている。あるいは偽物だ』と、論理的、あるいは直感的に確信させることができれば、彼女は自身のキャリアとプライドを守るために、その『ロット(人間)』を廃棄して地獄へ逃げ帰るかもしれない。失敗作を納品して、主君の不興を買うリスクは冒さないはずだ」


 それは、彼女の「恐怖心」を煽る策。だが、悪魔を騙し抜くことが、人間に可能なのだろうか。


「作戦3。『最高の滴』を自ら飲み干させる。

芸術家は、自分の最高傑作を他人に汚されるのを何よりも嫌う。ゼストゥルゴーラが丹精込めて育て上げた『愛憎の滴』を、完成の瞬間に、人間側が自ら『毒』に変えてしまう。……ゼストゥルゴーラ自身にその毒を、比喩的に浴びせることで、地上という工房そのものを嫌悪させるやり方だ。『二度とこの場所で醸造などしたくない』と思わせるほど、彼女のプライドを完膚なきまでに叩き折る」


 ルカは語り終え、ゆっくりと私に問いかけた。


「……ここまでで、君の意見はあるかい、エルゼ」


 私は、ルカが提示してくれた三つの残酷な選択肢を、一つずつ咀嚼するように深く考えた。

 蒼い光の中で、思考だけが高速で回転し、それと同時に絶望的な重圧が肩にのしかかる。


「……ルカ。わたしの考えを言ってもいいかしら」


 私は、ゆっくりと口を開いた。


「……1と3は、ゼストゥルゴーラがキレるリスクが高いと思うわ。……丹精込めて作ったものを、完成の間際で台無しにされたと知ったら、ゼストゥルゴーラは職人としてのプライドを傷つけられ、逆上して私を食い殺すだけなんじゃないかしら? 撤退させるどころか、ただの『怒りの捌け口』として処理されて終わる未来が見えるの」


 ルカは無言で、私の言葉を促す。


「そして、作戦2……。悪魔を倒すのに、悪魔の威を借る? 人間の言葉を、悪魔が信じるとは到底思えないわ。ましてや、地獄の王族のお抱えなんて……。……しかも、そこにはが心血を注いだ『ワイン』が掛かっているのよ? 目の前の極上の獲物を捨ててまで、正体不明の『不審な噂』を信じて逃げ帰るなんて、そんなお人よしな悪魔がいるとは思えない」


 私は、ルカの目を真っ直ぐに見つめ返した。


「……ルカ。あなたの言っていることは、論理的には正しいのかもしれない。でも、ゼストゥルゴーラは紛れもない『悪魔』。私たちの常識や、人間の計略を嘲笑い続けてきた、本物の怪物なの。……もっと、彼女を震え上がらせるような、逃げ出すしかないほどの『致命的な理由』が必要なんじゃないかしら?」


 沈黙が図書室を支配した。

 ルカは私の言葉を反芻するように、片眼鏡を指でなぞりながら、深い思考の海へと沈んでいく。

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