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最悪の感性を持つ芸術家

旧図書室の空気は、肺の奥まで凍りつかせるほど冷たかった。

 カビ臭い古書の匂いと、長い年月放置された埃が、淡い蒼光の結界の中に閉じ込められている。私はルカの胸に顔を埋めたまま、その温もりと、規則正しい鼓動の音を聞いていた。


 「あの声」が聞こえない。

 それだけで、世界がこれほどまでに静かで、穏やかなものだったのかと、涙が止まらなかった。


「……少し、落ち着いたか」


 ルカが静かに問いかけ、私は名残惜しさを感じながらも、ゆっくりと彼の胸から身を引き、乱れた髪を指で整えた。

 ルカは私から視線を外さず、結界を維持したまま、傍らに置かれた重厚な魔導書を開いた。


「エルゼ。君が『システム』と呼び、君の脳内で語りかけていた存在……。あれは、機械的なプログラムなどではない。――本物の、高位の悪魔だ」


 ルカの言葉に、私は息を呑んだ。

 これまで「運命を管理するメタ的な存在」だと思い込もうとしていたものが、血の通った(あるいは魔力の通った)邪悪な意思そのものだったという事実に、背筋が凍る。


「……悪魔。わたくしを操り、破滅へ導こうとしていたのは、意志を持った魔物だったというの?」


「ああ。それも、ただの悪魔ではない。君を操っていたあるじは、非常にたちが悪く、狡猾だ。……普通の悪魔は、無差別に魂を喰らい、死を撒き散らす。だが、こいつは違う」


 ルカの表情が、かつてないほど険しくなる。彼はページをめくり、黒い煤で描かれたような不気味な挿絵を私に見せた。


「この悪魔は、絶望や憎悪を単に集めるのではない。……『精製』するんだ。それも、極めて上質で濃度の高い、純粋な負の感情だけを抽出する。……例えるなら、最高級のヴィンテージワインを作るように、時間をかけ、手間をかけ、最も美しい瞬間にその魂を摘み取る。……君がどれほど理不尽に耐え、ツッコミを入れ、前向きに抗おうとしても、それ自体が『味わい』を深めるための熟成期間に過ぎなかったということだ。しかも単に一人の人間を絶望させるのではない。周囲を「味方」に育て上げ、その期待や絆を肥大化させてから一気に破綻させる。君本人の絶望だけでなく、君を信じていた周囲の「裏切られたという絶望」までもすべて混ぜ合わせ、一つの樽で最高のワイン(アサンブラージュ)に仕上げようとしている……。一度完成(発酵)が始まれば、人間には止められない」という点で非常に厄介なんだ」


 私は、自分の指先が震えるのを感じた。

 私が必死にクロエを守ろうとしたことも、王子への想いに葛藤したことも。すべては、最後に滴り落ちる「絶望」の雫を、より芳醇にするためのスパイスだったのか。


「……私は、この悪魔の正体を突き止めた」


 ルカが低い声で告げた名は、私の魂に不気味な振動を与えた。


「――ゼストゥルゴーラ。 『愛憎滴下統括官マスター・ドロップ・ディスティラー』。……これが、君に憑いている者の真名だ」


「ゼストゥルゴーラ……」


「そうだ。古い文献の隅に、僅かな記述を見つけた。……その独特な喋り方、嘲笑う時の声の特徴。そして、君の魂に刻まれた独特の魔力周波を解析した結果、この悪魔以外には考えられない。……こいつはいわば、魔界の貴族や王族に献上する『特別な雫』を作る、専属の醸造家のような役職だ。……君という高潔な公爵令嬢が、愛する者たちに裏切られ、孤独の中で狂い、最後にはすべてを失って泣き崩れる……その一連の物語は、彼らにとって極上のヴィンテージワインに他ならない」


 ルカの言葉が、私の喉を締め付ける。

 システムが私を「操り人形」と呼び、あの時、王子をビンタさせた後に狂ったように笑った理由が、ようやく理解できた。


 奴は、私が「愛」を信じかけた瞬間に、それを粉々に砕くことで、最も甘美な「絶望の雫」が滴るのを待っていたのだ。


「……なんて、悪趣味な」


 私は、震える声でそう呟いた。

 怒りと、恐怖と、そして計り知れない悔しさが、涙と共に溢れそうになる。

 

「エルゼ。君は、彼らのうたげのための供物ではない」


 ルカが、私の冷え切った手を、自分の両手で包み込んだ。

 魔術師らしい、少し硬くて、熱を帯びた手。


「ゼストゥルゴーラは、完璧な熟成を求めている。……逆を言えば、その工程を狂わせれば、奴の術式は崩壊する。……私は、そのための方法を見つけ出すために、持てる知識のすべてを注ぐと決めた」


「ルカ……。わたくし、もう、王子には……」


「アルフレッドのことなら気にするな。……あいつもまた、悪魔に酔わされた被害者だ。今は、自分を信じることだけを考えろ。……私が、必ず君をこの不気味なシナリオの中から救い出してみせる」


 ルカはそっとハグし、優しく私の頭を撫でた。

 その温もりに包まれながら、私は目を閉じた。

 窓の外では、学園中に「エルゼ=魔物」という噂が、悪魔の囁きのように広まり続けている。

 けれど、この蒼い光の結界の中だけは、私を「一人の人間」として見てくれる者がいる。


「……ありがとう、ルカ。わたし、負けないわ」


 愛憎の雫を啜る悪魔への、反撃の火蓋が切って落とされた。

 私はもう、ただの操り人形ではない。

 この運命を、ゼストゥルゴーラにとって最も「不味い結末」へと書き換えてやる。

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