小さな狂気
翌朝、学園の廊下で私は「それ」に遭遇した。
「……私は岩だ。私は石だ。私は、ただそこに存在するだけの質量である」
虚空を見つめ、微動だにせず呟いているのは、この国の第一王子アルフレッド殿下だった。
滝行の成果か、肌は青白く冷え切り、表情筋は一ミリも動いていない。その姿はまさに、意思を持たない彫像――あるいは、昨日私が適当に口にした「ゴーレム」そのものだった。
「……バカなの? 貴重な王位継承者が、廊下の真ん中で何してんのよ」
私は扇子で顔を隠しもせず、真顔で吐き捨てた。
周囲の生徒たちは「殿下が究極の精神統一を成し遂げられた!」「なんて崇高な無欲の境地……!」と涙を流して感動しているが、私の目には正気を疑う光景にしか映らない。
【システム・ログ】
[状況:ターゲットが完璧に『無機質』へと進化しました。おめでとうございます。フラグを折っていくゴーレムスタイルですか? これ、あなたが望んだ姿ですよね? 理想の男性像とのご対面、いかがですか?]
「煽らないで。理想なわけないでしょ、黙りなさい。……はぁ、胸焼けがするわ」
私はそのまま立ち去ろうとした。
しかし、私の「歩く良心」が、無慈悲にブレーキをかける。
……あんなアホな状態になったのは、私の嘘のせいだ。もしこのまま彼が本当に石になって公務を放棄したら、この国の未来が危うい。それは巡り巡って、私の平穏でマシな「国外追放ライフ」を脅かす。王子より質の悪い輩が……。
「……仕方ないわね。元に戻してあげますわ」
私は冷めた目で、石像と化した王子の前に立った。
「王子、聞こえていますか。わたくしです。あなたの嫌いな悪役令嬢、エルゼですわ。ほら、わたくしのドレスに泥でも投げたらどうです? 怒りで人間性を思い出してくださいまし」
「…………私は、風に侵食されるのを待つだけの岩石だ」
「返事がさらに哲学的になってるじゃないの。……システム、何か有効な刺激はないの?」
【システム:提案】
[物理的刺激、あるいは『強い感情の揺さぶり』が有効かと。ギルバート卿に彼を粉砕(稽古)してもらうのはいかがでしょう?]
「物騒なこと言わないで。……こうなったら、力業よ」
私はそこから一時間、あらゆる「人間性回復作戦」を試みた。
王子の耳元で「実はわたくし、隠れて子猫にミルクをあげてますの!」と秘密の善行を暴露してみたり、彼の鼻先に最高級のステーキをぶら下げてみたり、挙句の果てには「ゴーレムよりも、やっぱり知性のある人間の方がマシな気がしてきましたわ!」と前言撤回までしてみた。
しかし、王子は揺るがない。
「私は……苔の生すまで……動かない……」と、もはや時をかける石になろうとしている。
「……もう、無理。わたくしの語彙力と良心が限界よ」
私は冷たい石(王子)の肩を叩き、すんとした顔で告げた。
「王子。勝手になさい。あなたが石になろうが土に還ろうが、わたくしの知ったことではありませんわ。……さよなら、ただの質量さん」
結局、自分には無理だと悟った。
他人の人生に責任を持つなんて、悪役令嬢の領分ではない。私は踵を返し、優雅に、かつ迅速に現場を放棄することにした。
……だが、私が立ち去った直後。
「質量」だったはずの王子の瞳が、わずかに揺れたことに私は気づかなかった。
【システム・ログ】
[通知:王子の『悟り』にヒビが入りました。]
「…………この学園、やっぱり一度滅びた方がいいんじゃないかしら。薄々感じてたけど、潜在的な狂気を感じるわ……」
私は独り言をこぼしながら、明日の予習のために図書室へと向かった




