開門/飴屋
「ねえったら!無理無理無理!聞いてない!!降ろしてえええ!!」
紅葉はイナリの背にしがみつきながら必死に訴えていた。
「世話の焼ける…。ほれ、あまり騒ぐと舌を噛むぞ。一旦着地するから一寸待て。」
イナリはそう言うと3丁目の神社⸺つまり自分の社のご神木の上に降り立った。
「高いことに変わりないじゃない!」
涙目の紅葉を見てイナリはクスリと笑うと懐から小さな螺鈿細工の箱を取り出しながらこう言った。
「これはね…目くらましの秘薬。あそこに椿の木があるだろう?アレの花を絞って私の血を混ぜたものだ。ちょいと失礼するよ。」
螺鈿細工の箱が開く。真っ赤な紅のような半練りのそれが月の光に照らされて輝いている。
「そら、こっちをご覧。」
イナリはそう言うと両の手で紅葉の顔を掴む。
「⸺ッ!待ってわたし…そういうの…!!」
紅葉がぎゅっと目を瞑ったその時だった。
両頬に優しい感触。
「もういいよ。…まあ何と勘違いしたのかは言わぬでおこう。」イナリがクスクスと笑う。
紅葉の頬には先程の紅が塗られていた。
「これでお前さんはあちら側の者たちからは童女にしか見えない。言っただろう?目くらましの秘薬だと。」
イナリは小箱を懐にしまうと手を虚空にかざす。
「紅葉山稲荷大明神の御霊の欠片として命ずる。開け、彼岸の夜市。」
イナリがそう言うと周りの景色がぐにゃりと歪み⸺紅葉は思わず目を瞑った。乗り物酔いのような不快感。
時間にして1.2分だろうか。
「目をお開け。そら、ここが彼岸の夜市だ。約束事を忘れていないね?ここでは何も食べてはいけない。そしてその矢を絶対に手放すな。絶対にだぞ。」
そう言われて紅葉が恐る恐る目を開けると⸺
そこには色鮮やかな出店がたくさん並んでいた。
お祭りの屋台⸺それよりもどの店もキラキラと輝いて見える。
「ここが…夜市なの…?」
恐る恐る尋ねる紅葉にイナリは一言。
「そうだよ?さ、見て回ろうか。」
そう言うと紅葉の手を引き夜市の門を潜った。
「お!イナリの旦那!来てくれやしたか!」
威勢のいい声がする。
そこには獺が豆絞りの手ぬぐいを被り鋏を片手に何かをしていた。甘い香り。よくよく見ると店頭には魚を象った飴が並んでいる。
「そちらの童女は?」
獺が尋ねる。
「コレかい?これは…まあ神使見習いとでも言うところか。相変わらずお前さんの飴は美しいね。」
イナリがそう言うと獺は
「ヘヘッ。」
と頭を掻きながら作り終えたばかりの飴⸺鱗の一枚一枚まで繊細に描かれた鮎の飴を誇らしげに掲げる。
「まあ見てってくださいよ。」
獺はそう言うと、その飴を水の張った手桶に入れた。
するとどうだろうか。
清流を遡上する鮎そのもののように飴が動き出す。時折パシャン、と跳ねながら手桶の中を泳ぎ回る飴に紅葉がそっと手を伸ばすと、その手をイナリがそっと制する。
「紅葉。約束。」
そう言われて紅葉ははっとする。ここでのものはどれだけ魅力的でも口にしてはいけないのだ。
「後で土産に買いに戻るよ。この神使見習いに今夜は一通り夜市を見せる約束なんでね。」
イナリがそう言うと獺は
「お待ちしてやすよ」
と言って出来たての飴を串に刺して並べ始めた。
「イナリ…あれって…私科学博物館で見たことある…絶滅したはずのニホンカワウソ…よね?」
小声で尋ねる紅葉にイナリはあっさりと
「そうだよ?」
と返す。
「ここにはね、今は失われたもの、此岸に未練のあるもの、様々な者達が集まるんだ。紅葉、お前さんよく耐えたね。」
そう言うとイナリは紅葉の口元を指差す。
「え?…あ…!もう!」
紅葉は口の端に溜まっていた涎を拭き取るとキッとイナリを睨みつけた。
「さあ、夜市は広い。ゆっくり回ろうじゃないか。」
カラカラと笑うイナリが先を行く。
「待ってよ!もう!」
あとを追う紅葉の背後で先程の飴細工が一度パシャリ、と跳ねた。




