彼岸の夜市
いつまでそうしていただろうか。
紅葉の口から不意にこぼれた言葉。
「…おじいちゃん…」
その言葉にイナリの手がピクリと動く。
「…余三郎に会いたいかい?」
一瞬の間。紅葉は涙に濡れた顔を拭うこともなくイナリを睨みつける。
「…アンタは…何を言っているの…?おじいちゃんに会いたいかって…?会えるわけないじゃん!おじいちゃんはね、去年死ん⸺」
「会える…やもしれぬ…と言ったら?」
イナリは紅葉の言葉を遮り返す。
「は…?何…言って…?」
イナリは紅葉の顔をじっと見つめるとふう、と息をついた。
「紅葉山稲荷大明神の魂の欠片として彼岸に命ず。如月余三郎の破魔の矢をここに。」
イナリが両手を高く上げると虚空から一本の矢が現れた。見まごうはずもない。竹製の使い込まれた矢。紛れもなく余三郎のものだ。しかもそれは葬儀の際棺に入れて一緒に火葬したはずの。
「なんで…?確かにわたし…おじいちゃんの棺桶に…これ入れて…」
混乱する紅葉にイナリが語りかける。
「わたしは本来彼岸に棲む者だからね。こんなことは朝飯前なのさ。それにこれはただの矢じゃない。わたしの霊力が込められている。いいかい紅葉、よくお聞き。」
イナリはそこで言葉を区切ると大きく息をついた。
「これからお前を彼岸の夜市に連れて行こうと思う。ただ…約束がいくつかある。まず、あちらの食べ物はどんなに魅力的でも食べてはいけない。「帰れなく」なる。そしてお前が此岸の者であるということがばれてはいけない。この矢に込めた霊力はお前を彼岸の者に見せるためのものだ。決して離すでないよ。何があっても…決してだ。」
そこまで言うとイナリは窓を開け少しだけ寂しそうな顔をしてからこう言った。
「アレは子どものときから物見遊山が好きだったからね…夜市巡りをしている間に会えるんじゃないかな…」
「紅葉。行っておいでよ。」
ヨイチが口を開く。
「僕、ここの部屋の鍵をかけるくらいのことはできるからさ。踏み台でも置いておいてくれたら…そしたら幸子も浩介も入れないだろ?きっとぐっすり眠ってると思うはずだよ…本当は僕も余三郎に会いたい…けど…」
ヨイチの髭はしゅんと下を向いている。
会いたいのだ。自分の命を救ってくれた余三郎に。
紅葉はしばし逡巡すると、やがて部屋の隅に置かれた矢筒に手を伸ばしその中に余三郎の矢を大切に仕舞い込んだ。そして涙を拭うとイナリを見つめてこう言った。
「行く。あっちでおじいちゃんがどうしてるのか知りたい。会えるなら…会いたい。連れて行って。」
「そうか。」
イナリは短くそう答えると自らの足元に手をかざす。素足だったイナリの足にいつの間にか高下駄が現れていた。
「彼岸と此岸を行き来できる下駄だ。お前さんのぶんはないから…ほれ。」
そう言ってしゃがみこんで背を向けるイナリに紅葉は躊躇いを覚えたが⸺
「重いって言ったら…ぶつからね…」
そう言って素直にその背に身を任せた。
「では。」
イナリが言うやいなや二人の身体は空高く舞い上がる。
「ちょ…待って待って待って!!こんな高いとこ行くなんて聞いてない!!!私高いところだめなんだってばー!!!!!」
紅葉の悲鳴が遠くなるのを確認すると、ヨイチは前脚で器用に窓を閉めた。
「行ってらっしゃい。会えるといいな。」
ヨイチの首輪の鈴がチリンと鳴る。その鈴は微かに濡れていた。




