朝稽古
(なんなの、なんなの、なんなのよ!!)
紅葉は全力疾走で自転車を漕いでゆく。
ひらり、と紺色の制服のスカートが風になびき道行く男性の目が行くが下にはスパッツを履いている。最近の女子高生は抜かりがない。
都立清新高校。紅葉の家からは自転車で40分ほど。
スポーツ強豪高校であるここはとにかく広い。校舎よりも体育館が大きい。
紅葉は自転車を停め、一直線に弓道場に向かってゆく。寒蝉が声を張り上げる植栽を抜け、更衣室へ入ると道着に着替え、胸当て、足袋、弽と慣れた手つきで装着し、汗の滲んだ髪を一つに結ぶ。
一礼して道場に入ると、まだ暑さの残るそこは朝日に埃がチラチラと照らされていた。古びた木の匂い。壁に貼られた「一弓一心」の文字。余三郎の書だ。
紅葉はその書にそっと触れるとその横に誂えてある神棚に手を合わせる。
(今日も一日お願いします)
そう紅葉が祈ったときだった。
「おお、早いな如月。全く…一年坊主は何をしてるんだ…」
顧問の遠藤だ。ぶつくさ言いながらも神棚に手を合わせる紅葉を見るとニッカリと笑って
「いい心がけだ」
と言った。
「あれ?紅葉今日はいつにも増して早いじゃん。」
遠藤に次いで入ってきたのは同級生の柳瀬弥生。この二人が実質弓道部のトップ2と言っても過言ではない。
「インハイも近いしね。」
紅葉は短く言うと弓と矢を手に取り位置につく。
足踏み。
カーボン製の弓矢を手にした両手を高く上げる。
キリ、と弓矢が軋む。
その瞬間から古びた木の匂いも使い込まれた印伝の革の匂いも遠藤と弥生の話し声も⸺そして残暑の暑さすらも全て紅葉の周りから消え去る。
ゆっくりと両の手を下ろしてゆく。
紅葉はまっすぐに的を見据えると限界まで引き絞った手を放す。
タン!と小気味の良い音がして矢は的のど真ん中を貫いた。
的中。
紅葉が残心の姿勢からゆっくりと座る。
喧しいほどの蝉の声も、道場の木の匂いも、そして自分を賞賛する弥生の声も耳に入ってきて、ようやく五感が戻ってきた。
「すごいすごい!ど真ん中!よっ、次期主将!」
弥生にそう煽てられて紅葉がはにかんだその時だった。
「ほう?現代の若い者にしてはやるじゃあないか。」
その声におもわず振り向くと、拍手を送っている遠藤の隣にイナリが胡座をかいてこちらをニヤニヤと見ている。
「⸺イナ…」
イナリ。そう言いかけたがやはりその後は言葉にならない。
イナリがそっと近づきながら紅葉に囁く。
「無駄だよ。縁あるものにしか見えないし触れられない。そのことを言うことすらできない。」
紅葉はイナリをキッと睨みつけると遠藤に向かってこう言った。
「先生ごめんなさい。少しお手洗いに行ってきます。」
紅葉はイナリの手首を掴みズカズカと弓道場を後にすると、人気のない駐輪場の陰まで歩いていく。
「どういうつもり!?神様だかなんだか知らないけど…お願いだから!!部活の邪魔はしないで!!」
紅葉の目の端に涙が滲む。
イナリはバツが悪そうにコリコリと頭を掻くとこう言った。
「わたしはただ…その…お前が朝餉も半端に飛び出していったから…腹が減っていないかと…」
そう言ってイナリは懐から取り出したチョココロネを紅葉に手渡す。幸子が買い置きしておいたものだ。
言われてみたら腹の虫が空腹を訴えている。
紅葉はおずおずとそれを受け取ると
「ありがと…」
と一言言ってチョココロネを食べ始めた。
脳に糖分が回り、先程よりもずっと視界がクリアになっていく。食べ終えて道場に戻ろうとしたその時だった。
「お!次期主将!こんなところで優雅にモーニングか?」
声の主は先日引退した3年生の前主将、中峰隆。
紅葉の顔が紅潮してゆく。
「ち、違うんです!ちょっとその…朝ごはん食べ損ねちゃって…先輩こそどうして…?」
紅葉の問に隆はニッと笑いながら、
「インハイが近いだろ?可愛い後輩の指導にでもと思ってな。」
そう言いながら紅葉の頭をポンポンと叩く。
紅葉の顔がますます赤くなってゆくのを見てイナリがボソリと呟く。
「へえ…懸想の相手か…やるじゃないか。」
それを聞いた紅葉はおもわず、
「うるっさいッ!」
と声を上げ⸺そしてハッとする。
隆がこちらをぽかんと見ている
「…くらいの蝉の声ですね、なーんて…はは…。」
(帰ったら覚えておきなさいよ…!!)
殺気に近い覇気を纏った紅葉の後ろ姿を見送るとイナリはクスクスと笑い、すっと姿を消した。




