朝餉
その時だった。
トトッと小さな足音。
幸子にドライヤーをかけられふわふわになったヨイチが紅葉の部屋のドアをカリカリとひっかく。
イナリがふわり、と右手を上げるとドアは勝手に開きヨイチが入り込んでくる。
「あ…紅葉寝ちゃった?」前足をぺろぺろと舐めながら尋ねるヨイチにイナリは薄ら笑いを浮かべて一言。
「どうしてヒトはヒトならざるものに対してこうなってしまうかな…余三郎なぞすぐにわたしを受け入れてセミ取りなどしたものだというのに…」
その目はどこか遠く何かを懐かしむように悲しげな微笑みを湛えている。
「時代の変化じゃない?」
ヨイチはまだ半乾きの尻尾をペロペロとやりながら返す。
「だって僕だってイナリのところに迷い込むまでこんなふうには喋れなかったもん。その枕元に小さい箱があるでしょ?信じられる?いまはその箱一つでなーんでもできちゃうんだ。」
枕元に置かれたスマートフォンをイナリはひょい、と持ち上げるとそれを弄びながら淡々と答えた。
「知ってるよ。参拝客どもが持ってる。全く…神域に金物は厳禁だというのに…。」
そうため息をつくイナリをヨイチが見上げる。
「とりあえずさ、紅葉の髪なんとかしてやってよ。これじゃ風邪ひいちゃうし。」
イナリは紅葉の頭に手をかざすと一言。
「良い艶だ…黒々と…これは余三郎に瓜ふたつだね。」
そう言い終わるか終わらないかのうちに紅葉の髪はすっかりと乾いていく。
上弦の月はすっかりと空高く上がっていた。
翌朝。
紅葉はスマートフォンのアラームで目を覚ました。
「あれ…?わたし…?」
昨夜の記憶が断片的に浮かび上がる。確かあのまま、髪も乾かさずに気絶するように寝落ちしたはず⸺
だが、髪はしっかりと乾き体はきちんと布団の中に収まっていた。
階下から声がする。
「紅葉ー!!朝練あるんでしょ?ご飯できてるわよー!」
その声にハッとすると紅葉は大慌てで部屋を飛び出して言った。
今日の朝餉はサンマの塩焼きに菜っ葉と油揚げの味噌汁。それから紅葉専用にササミのサラダ。アスリートの体には必要不可欠なタンパク質を考えてくれる母に感謝しながら紅葉が両手を合わせて
「いただきます」
と言った瞬間だった。
リビングの隅にイナリがいる。しかも油揚げを咥えながら。
「⸺ッ!?」
ガタン!と音を立てながら立ち上がる紅葉に幸子は一言。
「お行儀が悪いわよ?さっさと食べちゃいなさい。」
「お…お母さ…あれ…」
紅葉はリビングの隅を指差そうとしたが体が動かない。幸子は不思議そうに紅葉を見ていたが、やがて無理矢理に紅葉を座らせると、
「いいからご飯!!」と声を上げた。
油揚げを食い尽くして舌なめずりしながらイナリが近づいてくる。
「無駄だってば…。わたしのことはヨイチとお前にしか認識できないし、誰かにそれを言うこともできない。言っただろう?縁は結ばれた、ってね。」
その目は昨夜のように赤く吊り上がり、まるで狐面のような表情をしている。
紅葉はたまらなくなり朝餉もそこそこに荷物を掴むと
「行ってきますっ!」
と飛び出していった。
ソファで丸くなっていたヨイチがイナリに話しかける。
「あんまり驚かさないでやってよ…」
イナリはクスクスと笑いながらヨイチを撫で、一言。
「アレの反応があまりにもうぶなもんでつい…ね。」
そして呆気にとられて玄関を見ている幸子たちの目を盗み、飲みかけの味噌汁を飲み干すと、
「ああうまい。やはり味噌はいい。油揚げも残してあった。」
と満足そうに笑う。
幸子が食卓に目を戻すと、そこには食べかけのサンマと白米、完食したササミのサラダと味噌汁の器が。
そしてテーブルの下ではヨイチが何やらウニャウニャ鳴いている。
「ヨイチはサンマはだめよ?骨がたくさんあるからね。」
そう言って幸子はヨイチを日当たりのいい窓辺に連れて行った。
朝の爽やかな光が射し込む。ヨイチはクワッと一つ欠伸を漏らすとそのまま窓辺で眠りに入った。
イナリはただその光景を黙って見つめていた。
遅筆ですみません。猫の体調と私の体調がイマイチで…。ゆっくり書いております。お付き合いいただけたら幸いです。
2026/07/15 杜 妃湖




