イナリとジャージ
21時前。
紅葉はバタンと思い切り玄関のドアを開け、そのまま膝から崩れ落ちた。
その衝撃で腕の中にいたヨイチがポンッと飛び出す。
幸子が紅葉の様子を見て慌てた様子で尋ねる。
「どうしたっていうの!?あんた雨にでも降られたみたいにびしょ濡れで…あーあ、スカートのプリーツもしわくちゃ…とりあえずお風呂に行きなさい!お母さん制服きれいにしておくから!」
紅葉は幸子に先程のことを伝えようと懸命に口を開くが、その口は餌をねだる鯉のようにはくはくと動くだけ。言葉が出ない。
(なんで…?話さなきゃいけないことたくさんあるのに…)
その時だった。先に帰宅していた父親の浩介が廊下に佇むヨイチを抱き上げて一言。
「感心しないな。嫁入り前の娘がこんな時間まで…ヨイチ、お前もいけないぞ。」
そう言ってヨイチの額に軽く人差し指を当てると浩介は紅葉に問うた。
「どこに居たんだ?」
その声にやっと紅葉は声を絞り出す。
「3丁目の…稲荷神社…それで…」
神だと名乗る烏帽子の男に会った。そう言いたいのにそこから先は口が動かない。
「そんなところまで…!ヨイチ、お前も紅葉と風呂だ。その後駆虫薬!」
両親に半ば強引に風呂場まで追いやられた紅葉は制服を脱ぎ捨てるとシャワーで汗を流す。
「どうして…」
イナリと名乗ったあの男の事になると口が動かないんだろう。
「ねえヨイチ…お前なんであんなところまで行ったの…?」
そう話しかけてヨイチにもシャワーを当てようとしたその時だった。
「ちょっと…お湯は温めにしてくれないかな。」
どこからともなく聞こえた声。紅葉は慌てて周囲を見渡すが、狭い浴室の中には紅葉とヨイチしかいない。
「聞いてる?僕は温めのお湯がいいんだけど?」
声の主は明らかにヨイチだった。
「ホントはお風呂なんか大ッキライだけどさ…脱走した僕が悪いんだろ?洗われてやるから…お湯温くしてよ。」
紅葉は再び口をハクハクとさせながら呟く。
「喋…喋った…ヨイチが…」
ヨイチはこともなげに返す。
「神域でイナリに構ってもらってたらなんか喋れるようになったみたい。びっくりした?」
あまりのことに紅葉は目を白黒させながらヨイチに話しかける。
「嘘…でしょ…?あ、そっか、私疲れてるんだよね、うん、そうだ。だっておじいちゃんがいた頃からヨイチが喋ったことなんて一度も…」
「それがあるんだニャア。」
紅葉の言葉を遮るようにヨイチが言葉を返す。
「余三郎が彼岸に行ったときさ、紅葉を頼むって言われたから…うん。って言ったよ、僕。そんなことよりさっさとシャンプー済ませてよ。あれ嫌いなんだからさ。」
紅葉は信じられないといった様子で⸺それでも猫用シャンプーを手に取るとワシャワシャと泡を立てヨイチを洗ってゆく。
一通り洗い終えるとヨイチはブルブルッと身震いをして一言。
「やっぱり風呂は嫌い。」
その時だった。浴室のドアがノックされ、恐る恐る開けるとそこには幸子がバスタオルを持って立っていた。
「ヨイチ洗えた?乾かすから貸して。」
ヨイチは自ら幸子の腕の中に飛び込むと白々しく、
「ナァーオー」
と鳴いてみせる。
紅葉は湯けむりの中しばし立ち尽くしていたが、はっと我に返ると自らの頭と体を清め、急いで風呂場から出ていった。
風呂からでると浩介が落ち着かない様子で何かを探していた。
「お父さん…どうしたの?」
紅葉が問いかけると浩介は頭を掻きながら、
「いや…夜のジョギングに行こうと思ったけど…お気に入りのジャージがないんだよ…。仕方ない。今日は違うので行こう…」
そんな父を横目に紅葉はタオルで髪を拭いながら2階の自室へと上がって行った。
ドアを開くとそこには⸺
「邪魔しているよ」
先程の烏帽子の男、イナリが父のジャージを着て部屋の真ん中であぐらをかいていた。
紅葉は急いでドアを閉めるとイナリに近寄る。
「それ!!お父さんのお気に入りのジャージ!!何勝手に着てるの!?て言うか!どうやって家に入ったの!?」
イナリはクスクスと笑いながら、
「あの格好は疲れるんだ。いいじゃないか、一晩くらい拝借したって。あー楽だ。」
紅葉は呆然としながらベッドに身を投げると、
「あはは…夢だ…疲れてるんだ…猫は喋らないし神様はジャージなんて着ないし…」
とぶつぶつと呟く。
イナリはそれを見てさも愉快そうにこう言った。
「夢でも幻でもないよ。お前とわたしの間には縁が結ばれた。逃げられないからね」
更に高く上がった上弦の月が窓から差し込む。
その光がイナリの艶のある黒髪と紅葉の濡れ髪を照らしていた。




