萌芽
紅葉が眠りについたのを確認するとヨイチはそっと腕から抜け出した。エアコンの効いた室内に入り込むぬるい風。
イナリはベランダの窓を開けてそこに腰掛けていた。
「…ああいうの、ノンデリって言うんだけどにゃあ…」
ため息をつきながらヨイチがイナリの隣にひょいと飛び乗る。
「のんでり?飲みの理か?盃を交わさねばならぬのか?」
キョトンとした顔で答えるイナリにヨイチは深いため息をつく。
「そうじゃない…にゃんていうか…デリカシーがないってていうか…」
余市は身振り手振りで説明するが
「でりかし?その菓子はうまいのかい?」
相変わらずイナリはキョトンとしたまま。
(だめだこれ…)
説明を諦めたヨイチはとすん、とイナリの膝に乗ると丸くなってぽそり、とつぶやく。
「紅葉はね、ウブなんだよ…イナリだって長いこと生きてるんならわかると思うんだけど…」
「だから唇でなくて額にしたのだ。それが何かいけなかったのかね…?」
呆れ顔の黒猫とはてなマークがいくつも浮かんだ神。
二人はしばらく秋風に吹かれていた。
早朝5時。ピピッと無機質な電子音。
「36.1℃…頭痛も嘘みたいに消えた…」
紅葉は布団から這い出すとぐっと伸びをする。
傍らで寝ているヨイチの頭をそっと撫でると汗だくの身体を流そうとバスルームへと向かっていった。
何気なく額に手を伸ばす⸺瞬間。昨夜の記憶が脳裏に蘇る。
「あの…バカ狐!!」
紅葉は拳を握りしめるとバタン!と音を立てて身体を清め始めた。
シャワーを終えて髪を乾かしていると、玄関から物音が。ジョギング帰りの浩介が帰宅したのだ。
バスルームにかけられた「入浴中」の札を見て浩介は外から声をかける。
「紅葉か?もう体調はいいのか?」
紅葉はドライヤーを止めると、
「大丈夫ー!!今入ってこないでねー!」
と大声で答える。
「…父さん、心配したんだけどなぁ…」
浩介は肩を落とすとトボトボとリビングへ向かっていった。
自室に戻り制服に身を包む。髪を一つに束ねるとリビングへ。幸子が心配そうに近づいて紅葉の額に手を当てる。
「…本当に下がったみたいね…。無理しちゃだめよ?インターハイも近いし…何よりお母さんもお父さんも本当に心配したんだからね…」
その言葉に紅葉は申し訳なさそうに微笑むと、
「ごめんなさい。でももう大丈夫。朝ごはん何?」
と食卓を覗き込む。
「それだけ食い気が戻ってるなら大丈夫そうだな。」
ぽそりと呟く浩介に紅葉は少しムッとしたが、昨日のタクシーの車内を思い出して、黙って食卓についた。
朝餉が終わると紅葉は一路自転車を漕いでゆく。
(部活のみんな…それから…)
坂道をぐんぐんと下ると風がほんのり冷気を帯びていることに気づく。
(夏、終わるんだな…)
そんなことを考えながら駐輪場に自転車を止めると、紅葉は校舎に消えていった。
まず担任に解熱したことを報告する。
吹奏楽部の練習の音。サッカー部の立てる土埃。
いつもと同じ光景なのに何かが違って見える。
廊下を歩いていくとはた、と隆に出くわした。
「あ…その…昨日は…」
隆が困ったような顔で俯く。
紅葉の胸にチクリ、と何かが刺さるような感覚。
「…何がです?部活のことならもう私達に任せてくださいって…言ったじゃないですか。じゃあ私、これから稽古に行きます。先輩は受験頑張ってくださいね!」
そう言って横切る紅葉の姿を見送ると、隆は小さな声で
「…おう。」
と答えた。
弓道場に行くと弥生が飛びついてくる。
「紅葉ー!!メッセも既読にならないし…心配したんだからー!!」
遠藤はそれを窘めようとしたが、フッと視線を逸らすと1年生たちの指導に当たった。
「ごめんごめん。深く眠っちゃったみたいで…でももう大丈夫だから…ね?」
紅葉はそう言うと弥生の頭をぽんぽん、と軽く撫でる。
そして遠藤のところに向かうと深々と頭を下げた。
「すみませんでした。自分の体調管理が至りませんでした。インハイに向けて⸺どうかご指導お願いします。」
「…いい顔になった。完全にアスリートの顔だ。好きなように射ってこい!」
遠藤にそう言われ紅葉は弓矢を手にして構えに入る。
その眼差しは昨日よりもさらに鋭く的を見据えていた。
蝉の声もまばらになった空気の中、一人の少女が成長した瞬間をイナリは弓道場の屋根からそっと眺めていた。




