早退
「36.9…熱のうちには入らないっちゃ入らないけど…如月さん、インターハイが近いのよね?」
体温計を手にした保険医はそう言うと、引き出しから早退許可書を取り出した。
「大事を取って今日は帰りなさい。誰か…迎えにこれる人は?」
紅葉はスマートフォンを取り出すと父親の浩介にメッセージを送る。
「お父さんごめんなさい。部活中に倒れちゃいました。今日ってリモートだっけ?」
返事は1分と経たずに帰ってきた。
「タクシーで迎えに行く。待ってなさい」
紅葉はうっすら痛む頭を上げて一言。
「父が…来てくれるそうです。荷物をまとめて担任の先生に許可書出してきます。」
トボトボと廊下を歩いていく。
静まり返った校内。遠くから体育の授業だろうか。ホイッスルの音。購買部のパンがオリコンに入れられて届く。ガラガラと鳴る車輪の音が頭に響く。
窓ガラスに映る自分を見ると大きな溜め息が出た。
「これでいい、って決めたのに…」
また涙が溢れそうになるが、紅葉は鼻をスン、と鳴らすと教室へと戻っていった。
授業中の教室。ドアを開けると刺さる視線。
紅葉はそれらを意識しないように荷物をまとめて職員室へ。そして担任に早退許可書を提出すると、昇降口に座り込んだ。
程なくして⸺昇降口前にタクシーが停まる。
浩介が降りてきて紅葉を見つけると、
「ほら」
と一言行ってゼリー飲料を差し出す。
「ごめん…お父さん…リモートでも忙しいよね…」
差し出されたゼリー飲料を受け取りながら紅葉が目を伏せる。
浩介は何も言わず、紅葉の手を引くとタクシーの後部座席に横たわらせた。
ドライバーが車を走らせる。音もなく滑らかな走行。わずか10分ほどの短いドライブ。終始無言を貫く浩介のそれが、父親としての優しさなのだと紅葉は悟り、ゼリー飲料をぎゅっと握りしめた。
家に着くと紅葉はフラフラと2階の自室に向かう。幸子の姿はない。恐らくパートに出ているのだろう。
ほんのりとした冷気。枕元に用意された冷却シート。
そして、「食べられるなら食べなさい。でも無理には食べないで」と書かれたメモとラップに包まれたおにぎり。
紅葉はそれを手に取ると一口。炊きたてのお米の甘みと仄かな塩気が身体を癒やして行く。二口。三口。食べすすめていくうちに大好物の昆布の佃煮が顔を覗かせる。
「お母さんだって…忙しいのに…」
おにぎりを食べ切ってぽそりと呟くと紅葉はベッドに身を預けた。
先程までの出来事が頭をぐるぐると巡る。
(あれでよかった)
隆の驚いて赤面した顔。
(あれでよかったんだ)
弥生の心配そうな顔。
「…ッ!」
自然と紅葉の瞳から涙が溢れだす。
僅かに開いたドアの隙間からヨイチがするり、と入り込んできた。チリン…と奥行きのある水琴窟の鈴の音。
ヨイチはただ黙って紅葉の右頬を伝う涙をペロペロと舐め始める。
「ヨイチ…ありがと…」
紅葉はヨイチの頭を撫でるとそのまま眠りについた。
夕刻。
左頬に暖かな感触を感じて紅葉は目を覚ました。
「ヨイチ…?」
寝ぼけ眼で左側を向くと、目の前にはさらりとした漆黒の長髪。色素の薄い肌。長いまつげ。
真っ赤な舌がチロチロと動いている。
紅葉は思わず飛び起きてイナリを指差して叫ぶ。
「⸺!?!?イナリ!!あんた何やって…!!なんてことしてるのよ!!」
「何って…私は元々狐だからね。舐め合いは普通のことなんだが?」
しれっと答えるイナリに紅葉はわなわなと震えながら叫ぶ。
「ばかー!!!!!あんたにとって普通でも私にとっては普通じゃないの!!!ファーストキスも済ませてないのに…!」
「はて…?ヨイチは良くて私がダメな理由がわからないね…?ファーストキス?ははぁ、口吸いか。済ませてないのなら私で済ますかい?」
イナリの顔が近づいてくる。
見れば見るほど美しい瞳。
(あ…。)
否応なしに高鳴る鼓動に紅葉はぎゅっと目をつぶる。
ふわり、と額に触れる温かい感触。
「そこはいずれ出逢う大切な者のために取っておくんだね。」
トントン、と唇を指してクスクスといたずらっぽく笑うイナリをみて紅葉は震えながら
「この…ッ!!バカ狐!!!!!もう知らない!!」
そう言って布団に潜り込んだ。
先程唇を押し当てられた額が熱い。
(ばかじゃないの、ばかじゃないの…!?あいつも私も…!!)
夕暮れの真っ赤な光が差し込む部屋で紅葉は鼓動を抑えられず、ヨイチを抱きしめながらただただ布団に包まる他なかった。




