決別
翌朝。
泣き腫らした顔を鏡に写すと紅葉はパン、と両頬を叩く。
そして髪をくくり制服に着替えると食卓についた。
いつもの平和な食卓。
ナスの煮浸し。湯気を立てる目玉焼きとベーコン。ほうれん草のお味噌汁。そして紅葉専用のササミのサラダ。
黙々と食べていると浩介が口を開く。
「紅葉⸺その、悩みとかあるなら父さん聞くぞ?」
不安げに顔を覗き込む浩介に紅葉は微笑んで一言。
「違うんだ。ちょっと怖い夢見ちゃって。悩みなんかこれっぽっちもないから安心して?」
「そうか…なら良いんだけど…何かあったらちゃんと言うんだぞ?じいちゃんも向こうで心配してると思うからな。」
そう言ってチラ、と仏壇に目を向ける浩介に紅葉の胸が痛む。
朝餉が終わり紅葉は玄関に向かうと幸子が後を追いかけてきた。
「その根付…素敵じゃない。どうしたの?」
昨夜のうちにスクールバッグにつけた磯女の根付。
「いいでしょ。アクセサリーショップでおまけにもらったの!行ってきます!」
そう言うと紅葉は自転車にまたがり一路朝稽古に向かっていった。
(大丈夫。言える。今の私なら…。)
駐輪場に自転車を停めるとまっすぐに道場に向かう。
着替えを済ませると忘れ物と書かれた箱に入れられた隆の印伝を握りしめ、紅葉は目を閉じて深呼吸をした。
「今日も早いな。感心感心。」
顧問の遠藤が隆を連れてやってきた。
「インハイまでは指導に当たってもらおうと思ってな。まあ受験もあるし無理のない程度だが…。」
紅葉は二人を見やると一言。
「遠藤先生。先輩と大事なお話があるので少し席を外していただけますか?」
「…そうか。一服してくる。」
何かを察した遠藤が弓道場を去ると、紅葉は隆に印伝を手渡す。
「あ、ここにあったか!どこやったかなと思ってたんだ。悪い悪い。」
頭を掻きながらはにかむ隆を紅葉はまっすぐに見据える。
そして口を開いた。
「先輩。私…先輩のこと、大好きでした。それに…受験もありますし、私達の世代は私が引っ張っていきます。心配しないでください。」
真っ直ぐな告白。
紅葉はたじろぐ隆の背後に回ると
「ほらほら!推薦枠取れたとしても筆記も大事ですよ?」と背中を押す。
グイグイと隆を弓道場から追い出すと紅葉は俯きながら一言。
「ほらね…言えたでしょ…。」
その目から涙が溢れそうになるが、紅葉はそれを堪えて祭壇に手を合わせる。
(一弓一心。今日もお願いします。)
煙草の匂いを纏わせた遠藤が戻ってくると、紅葉は一言。
「先生。私、今日は竹弓使ってみてもいいですか?」
「構わんが…どうした。慣れたカーボン弓の方が…」
「いえ。」
紅葉は遠藤の言葉を遮り、使い古された竹弓と余三郎の矢を手にする。
足踏み。まっすぐに的を見据えて両手を高く上げる。
無音。喧しいほどのセミの声も、後からやってきた部員に喝を入れる遠藤の声も遠ざかってゆく。
キシ、と竹弓がしなる。
そしてゆっくりと両手をおろし、一息つくと紅葉は矢を放った。風を切って余三郎の矢が飛んでいく。
タンッ。
小気味良い音が響く。
矢は的のど真ん中を捉えていた。
残心から姿勢を崩すとたちまちに弥生が抱きついてくる。
「すごい!竹弓で的中!さすが!!」
その声でようやく五感が戻り、紅葉の頬に汗が伝う。
「うん…あれね、おじいちゃんの矢なんだ…」
そう言ってはにかむ紅葉に惜しみない賞賛の言葉が送られるが⸺
「紅葉?ちょっと!!誰か早く冷やすもの持ってきて!早く!!」
紅葉は座したまま気を失っていた。
「う…。」
紅葉が目を覚ますと白い天井が目に飛び込む。
頭に貼られた冷却シート。消毒液の匂い。
「起きた…!!先生!紅葉起きました!」
側にいた弥生が声を上げる。
保険医がやってきて一言。
「熱中症ね。35℃超えだもの。そこに経口補水液があるからそれを飲んで様子見しましょう。柳瀬さんは戻っていいわよ。」
「ねえ…ずっとついててくれたの…?」
掠れた声で尋ねると弥生は首を縦に振って紅葉に抱きつく。
「当たり前でしょ…心配かけて…。ほら、これ飲んで!私は戻るから…無理そうなら早退するんだよ?」
そう言って押し付けられた経口補水液のペットボトルに口をつけると体にそれが染み渡ってゆく。
一口。二口。
そしてごくごくと一気に飲み干すと身体の隅々まで感覚が戻ってくるのがわかる。
「ざまないな…心配かけて…。」
紅葉が独りごちたその時だった。
さらり。
紅葉の髪を触れる手。
気がつくとイナリがすぐそばにいた。
「見ていたよ。極限までの集中。やっぱりお前さんは余三郎の孫だね。」
「…また冷やかしに来たの…?」
そう言った紅葉にイナリは
「いや。」
と短く答えると言葉を続ける。
「お前さんは素直じゃないね…褒めに来たんだよ。あとその髪…似合ってるよ。」
その言葉を聞くと紅葉の目から涙が溢れる。
紅葉は震える声で返す。
「あれだけのこと、昨日体験したんだもん…なんだってできる…。気持ちに整理をつけることも…。」
「そうか。」
イナリはそう言うと保健室のベッドの上にそっと矢を置いた。余三郎の矢。
紅葉はそれに頬ずりすると我慢していた涙が溢れだす。
イナリはただただ震える頭を撫で続けていた。




