徘徊者
二人が夜市の奥へと足を運んでいく。
「ねえ、他にどんなお店があるの?」
紅葉がイナリの顔を覗き込みながら尋ねる。
「そうさね⸺」
その時だった。
嗅ぎなれた線香の匂い。見慣れた着古した紺色の作務衣。聞き慣れたサンダルの音。
「おじい…ちゃん…?」
カタ、と矢筒の中の矢が音を立てる。
作務衣の老人は振り向くと満面の笑みで答える。
「紅葉じゃないか…どうしてこんなところに来たんだ?稽古はいいのか?」
「…おじいちゃん!!」
紅葉が余三郎に駆け寄ろうとした刹那⸺
矢筒の中の矢がガタガタと震えだす。
「…え…?」
紅葉が振り向いて矢筒を見ようとしたその時だった。
「違う。」
イナリは一言そう言うと余三郎と紅葉の間に割って入る。
「紅葉山稲荷大明神の御霊として畏み畏み申す。夜市での神としての顕現を!」
そういうや否やイナリの白い狩衣と浅葱色の袴が霧のように消え⸺霧が晴れたときにそこにいたのは1匹の大きな白狐であった。
毛並みは怒りに震え逆立っているがキラキラと美しい。
(きれい…)
紅葉がそう思った瞬間、白狐はグルル…と喉を鳴らすと鋭い爪で余三郎を押し倒す。
「イナリ!!おじいちゃんに何てことするの!!やめて!!」
思わず紅葉が叫ぶ。
「目を覚ませ!!破魔の矢が警告しているのが分からぬか!!こやつは余三郎ではない!!」
イナリがそう叫びながら余三郎に喰らいつく。
「やめて!!ねえ!!」
叫びながら紅葉が駆け寄ろうとしたその時だった。
「バレたか。流石は御霊分けされたとはいえ神というだけある…」
余三郎の暖かな微笑みがぐにゃりと歪み、眼窩は黒く落ち窪み、作務衣はどこまでも黒いの黒衣へと変わる。そしてするり、とイナリの牙からすり抜けると虚空から大鎌が現れる。
「あ…ああ…」
紅葉は思わずその場にへたり込む。
「夜市に此岸の者がいるから食ろうてやろうと思ったのに…」
歪んだ口から溢れる声。
「死神め。嗅覚だけは相変わらずだね。でもこの娘の命、くれてやるわけにはいかないんだよ!!」
夜市に来ている者たちが何事かと集まり始める。
「お嬢さん!!」
背後から声がしたかと思うと濡髪が紅葉を捉える。息をつく暇もなく磯女が紅葉を抱きとめる。
「あの野郎…性懲りもなく…!仁太!!」
磯女が叫ぶと気弱そうな藍染の小紋を身に纏い、髷を結った男性が大八車を押してやってきた。
「ここに隠れておいで。すべてのことは旦那がカタをつけるから。」
獺はあわあわと飴細工を仕舞い、店の隅でガタガタと震えている。
「おっかさん!死神だ!!」
平太が叫ぶと大狸はピイッと指笛を鳴らす。
すると虚空から大狸よりも更に大きな髭を蓄えた巨大な狸が現れ、平太を抱きかかえて死神を睨みつける。
「おっと…。多勢に無勢じゃあ分が悪いな。」
死神はニタリと嗤うと姿を消した。
再び霧が立ち込めてイナリの姿がもとに戻る。
「磯女。それから仁太。手間をかけたね。」
そう言って大八車から紅葉をひょいと下ろすと天を仰いだ。
「紅葉山稲荷大明神の御霊の欠片として命ずる。開け。此岸への扉。」
再び景色がぐにゃり、と歪む。
気がつくと紅葉は3丁目の神社の参道に座り込んでいた。
「…こんなのって…ない…」
目に大粒の涙を溜めながらポツリと紅葉が呟く。
イナリは憐れむように紅葉を見つめながら一言。
「帰ろう。」
二人連れ立って参道を進んでゆく。
2つめの鳥居を潜ったその時だった。足元に何かがキラリと光る。
イナリはしゃがみこんでそれをつまみ上げる。
タマムシの翅。胴体は蟻に食い尽くされたのであろうか。既にない。
「儚きものよの…」
9月半ばのなまぬるい風が境内を抜けて、タマムシの翅をサラリとなでてゆく。
泣きじゃくる紅葉の頭をゆっくりと撫で、イナリはざわざわと叢雲が忙しなく動く空を仰いでいた。




