3話 敵国にて
視界が、一瞬にして深い夜に変わった。
打ち付ける雨の音は、厚い防音の扉が閉まった瞬間に遠のき、代わりに重厚なビロードの匂いがリゼットの鼻腔を満たした。
自分がどこにいるのか、すぐには理解できなかった。ただ、極上の革のシートに深く沈み込まされ、信じられないほどの暖かさに包まれていることだけが分かる。
「――っ、ひ、……っ」
喉の奥から、乾いた悲鳴が漏れた。
リゼットは反射的に身を縮め、シートの隅へと流るようにして下がった。濡れた衣服のせいで、せっかくの豪奢なシートに黒いシミが広がっていく。それがまた恐ろしくて、身体の震えが止まらない。
目の前には、あの真紅の瞳があった。
薄暗い車内だというのに、男の瞳だけが、まるで冷えた夜を灯す篝火のように怪しく光っている。
敵国の、おそらくは高貴な軍人。
リゼットを石畳から軽々と抱き上げたその腕は、今、彼女の目の前でゆっくりと、警戒を解くようにして両手に広げられていた。
「怯えなくていい。……お前を害するつもりはない」
低く、けれど地響きのような威圧感を極限まで削ぎ落とした声だった。まるで、小さな動物を刺激しないようにと細心の注意を払っているかのような。
ディードリヒは、リゼットと距離を置くようにして対面のシートに腰掛けた。
その長い足が車内をさらに狭く感じさせる。彼は手袋を嵌めた手を自分の首元へと伸ばし、衣服にかけられていた最高級の毛皮の外套を、滑らかな動作で外した。
「これを着ろ。身体が冷え切っている」
差し出された大きな毛皮。
リゼットがおずおずと、震える手でそれを引き受けると、圧倒的な熱と、彼の男らしい香りが一気に押し寄せてきた。
さっき外で感じた「焦げ付くような焦燥」が、今は少しだけ凪いでいる。リゼットのポケットにある香油が、彼の頭痛を和らげているのだと、彼女の鼻が教えてくれた。
「お前、名は?」
「……り、リゼット、です……」
「リゼット」
彼がその名を唇で転がすだけで、リゼットの背中に甘い戦慄が走る。
「私はディードリヒだ。……すまない。私から漂う気配が、お前を怖がらせているな」
ディードリヒは、自分の大きな手をじっと見つめた。
その端正な顔立ちに、微かな、そして痛切なほどの苦みの色が浮かぶのを、リゼットの目は見逃さなかった。
「私は長年、魔力の暴走による頭痛に病まれている。周囲の者は、私に近づくだけでその毒気に当てられ、恐怖に震える。……だが、お前は違った」
ディードリヒが、ゆっくりとリゼットを見つめ直す。その真紅の瞳にあるのは、暴力ではなく、飢えた者が救いを求めるような、深い懇願の光だった。
「お前の持つその香りが、私の頭の奥の嵐を止めてくれた。……リゼット。私を救ってくれたお前を、私が傷つけるはずがない。信じられなくとも無理はないが、ここにはお前を脅かすものは何一つない」
彼はそう言うと、リゼットの濡れた靴を、自らの大きな手でそっと脱がせ始めた。
恐れ多さにリゼットが足を引こうとすると、彼は優しく、けれど拒絶を許さない確かな力でその足首を支える。
「……私の国へ行く。そこでお前を、私の命に代えても守る。だから――」
ディードリヒは、自分の顔のすぐ近くまで、リゼットの冷え切った小さな手を引き寄せた。
そして、革の手袋を口で器用に外し、剥き出しになった熱い手のひらを、リゼットの荒れた指先にそっと重ね合わせる。
「まずは、その震えを止めるといい。私の胸に寄りかかれば、少しは温まるはずだ」
じわりと、彼の大きな手のひらから、火傷しそうなほどの熱が伝わってくる。
バルト兄様にすべてを否定され、雨の中に捨てられたリゼットの心に、ディードリヒの重すぎるほどの、けれど絶対的な熱が、静かに染み込んでいくようだった。




