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無能と虐げられ捨てられた調香師、敵国の冷徹公爵に拾われて極上に溺愛される 〜私が作った香水がないと、もう眠れないそうです〜  作者: 絹ごし春雨


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2話 雨の中の出会い

 冷たい。

手のひらから、膝から、体中の熱がじわじわと濡れた石畳に吸い取られていく。


さっきから降り始めた雨は、リゼットの薄い衣服を容赦なく濡らし、肌にべっぱりと張り付いていた。国境沿いの宿場町は、昼間でも薄暗い。ましてやこんな土砂降りの夕暮れ時、通りに人影はなかった。


(……どこへ、行けばいいんだろう)


ひび割れた石畳の隙間に、濁った水が溜まっていくのを、リゼットはただぼんやりと見つめていた。

もう、指先を動かす力も残っていない。バルト兄様に奪われたあの香水の、最後の残香さえも、容赦ない雨水に洗い流されていく。鼻の奥に残るのは、ただ冷たい泥の匂いだけだった。


視界が、急に暗くなったような気がした。

最初は、雨雲がいよいよ厚くなったのかと思った。けれど、違う。


肌を刺すような、圧倒的な「圧」が上空から降ってきたのだ。空気がずっしりと重くなり、呼吸が浅くなる。


ゴトゴトと、重々しい地響きが近づいてきた。

顔を上げる気力もなくて、リゼットは濡れた石畳に頬を寄せたまま、視線だけを動かす。


視界の端に映ったのは、雨を弾く漆黒の馬車だった。

驚くほど巨大な馬が四頭、見たこともないほど精巧な意匠の施された車体を引いている。御者台に座る男たちの佇まいは、旅慣れた商人などでは断じてない。隙のない、鍛え上げられた軍人のそれだ。


(……この国の、人じゃない)


本能がそう告げていた。国境の向こう側――ここ何年も冷戦状態が続いている、恐ろしい軍事大国の影。


関わってはいけない。そう思うのに、指一本動かせない。

馬車は、リゼットのすぐ目の前でピタリと止まった。跳ね上げられた泥水が、リゼットの頬に冷たくかかる。


バタン、と重厚な扉が開く音が、激しい雨音を割って響いた。


革製の、豪奢な長靴が石畳を踏みしめる。

リゼットのすぐ目の前で止まったその足元から、ふわりと、異質な風が吹いた。


(――っ、この、匂い……)


調香師としてのリゼットの鼻が、その男から漂う気配を鋭く捉えた。

それは、凄まじい「焦燥」の匂いだった。荒れ狂う魔力と、限界まで張り詰めた精神が発する、焦げ付くような黒い匂い。常人なら気圧されて気を失うほどの凶悪な圧迫感。


けれど、リゼットの意識がそれ以上に引き寄せられたのは、男の放つ圧ではなく、彼女自身の小さな鞄から漏れ出ていた「微かな香り」だった。


バルト兄様にすべてを奪われたリゼットが、せめてもの意地で、ポケットの底に滑り込ませておいた小さな試作の香油。

それを見つけるように、長靴の主が、リゼットの前に深く屈み込んだ。


「……お前か」


低く、地響きのように美しい声が、鼓膜を微かに震わせる。


濡れた前髪の隙間から覗いたのは、燃えるような、鮮烈な真紅の瞳だった。

捕食者そのものの鋭い視線が、石畳に倒れるリゼットをまっすぐに射抜いている。


恐怖で心臓が跳ね上がる。けれど、男は信じられないほど大きな、手袋に包まれた手で、リゼットの濡れた細い手首をそっと包み込んだ。

驚くほど、熱い手だった。


「この香りは……お前が持っているのか」


男の、眉間の深い皺。苦痛に耐えるようなその表情を見た瞬間、リゼットの脳裏に、彼が抱える圧倒的な「不眠」と「頭痛」の輪郭が、まるで自分のことのように鮮明に浮かび上がった。


男の手が、拒絶を許さない確かな力で、リゼットの身体を石畳から抱き上げる。

冷え切ったリゼットの身体に、男の圧倒的な体温と、狂おしいほどの執着の気配が一気に押し寄せてきた。


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