第9話:白の二段弁当
影島の急勾配に建つ「二人だけの家」は、その骨組みを夕陽に透かし、少しずつ血の通った「構造体」へと近づいていた。
ジアンとジュウォンが一つの運命を共に歩み始めてから二ヶ月。それはジアンにとって、加速度的に色褪せていく世界の中で、唯一「鮮やかな熱」を感じられる時間だった。
照りつける太陽が影島の岩盤を焦がす、ある日の昼休み。
日陰に腰を下ろした大工たちが、ジュウォンの抱える大きな二段の弁当箱に視線を送った。
「ジュウォン。なんだその大層な重箱は。あのお嬢様の手製か?」
「いつも一言も喋らねえ男が、大事そうに抱えてやがる」
無骨な職人たちの冷やかしに、ジュウォンは「うるさい、ただの飯だ」と低く返し、汗の滲む日焼けした首筋をぬぐった。
最近のジアンは、記憶が砂時計のように零れ落ちていく恐怖から逃れるように、台所に立つことに執着していた。自分という存在が消え去る前に、せめてこの男の身体を温かい食事で支えたい——早朝から慣れない手つきで包丁を握る彼女の背中を思い出すたび、ジュウォンの胸の奥には熱い塊がこみ上げていた。
ジュウォンは、ジアンの「真心」を受け止めるように、一段目の蓋を開けた。
釜山の市場で選んだ米が、ふっくらと艶やかに炊き上がった真っ白な白飯。
「いい炊き加減だな。で、下の段のおかずは何だ? 魚か、それとも肉か?」
仲間の声に応え、ジュウォンは静かに二段目の蓋に手をかけた。
パカッ、と乾いた音が響く。
——重苦しい沈黙が、現場を支配した。
そこに詰まっていたのは、彩り豊かなおかずでも、慈愛に満ちた副菜でもなかった。
一段目と全く同じ、寸分の狂いもなく炊き上げられた「真っ白な白飯」だった。
「……おい。これ……」
職人たちの軽口が、風に浚われたように消えた。誰もが、その異様な光景に言葉を失った。
二段とも、おかずのスペースすらなく敷き詰められた白飯。
ジュウォンは、その真っ白なふたつの箱を、穴が開くほどじっと凝視していた。
彼は理解してしまった。
ジアンは二段目に何を入れるべきか迷ったのではない。おかずを作るのを怠けたわけでもない。
「一段目にご飯を詰めた」という自らの行動を、二段目に手を伸ばすわずか数秒の間に、目に見えない消しゴムで削り取られてしまったのだ。彼女の頭の中では、二段目もまた「最初の箱」だったのだ。
誰も言葉を発することができなかった。
ジュウォンは何も言わず、箸を取った。そして、仲間たちから背を向けるように身体を丸めると、おかずの欠片もない、湯気の立つ真っ白な飯を口に運んだ。
噛みしめる。何度も、何度も。
炊きたての米の甘みが広がるはずなのに、喉を通るそれは、冷たい砂を噛むように苦く、喉の奥を突いた。
ジュウォンは一言も発しなかった。言い訳も、強がりも言わなかった。
ただ、ひたすらに、猛烈な勢いで白飯を喉の奥へ流し込んだ。
零れ落ちそうになる熱いものを、一粒の米と一緒に飲み込む。
ジアンの病魔は、彼女の「建築士としての知性」だけでなく、愛する男のために料理を作るという「日常の優しさ」さえも削り取り、何も存在しない白濁した世界へ引きずり込もうとしていた。
その日の午後、高台に響くジュウォンの槌音は、酷烈なほど激しく、狂気じみた速さで刻まれた。
ジアンの中から消えていく言葉を、記憶を、愛の断片を、ヒノキの骨組みの中に釘で無理やり打ち付け、永遠に留めようとするかのように。
*
夕闇が影島を包み始める頃、ジアンが少し誇らしげな足取りで現場へやってきた。
「ジュウォンさん。お弁当、足りたかしら? 私、今日は特別に頑張って、おかずをたくさん詰めたのだけれど……」
ジュウォンは作業の手を止め、ジアンの前に立った。
そして、腰袋から綺麗に空になった二段の弁当箱を取り出し、彼女の手の中に静かに返した。
「……綺麗に平らげた。美味かったよ」
「本当……? よかった。明日はもっと豪華にするわね。何がいいかしら、唐揚げ……それとも……」
満足そうに、少女のような純粋な微笑みを浮かべるジアン。
ジュウォンは彼女の華奢な肩を引き寄せ、壊れものを扱うように、強く、強く抱きしめた。
「ああ。明日も待っている」
ジュウォンの肩越しに、完成へ向かって夕陽の中に佇む「二人だけの家」が見えた。
設計図は消え、献立は白に染まっても、この構造体を支える「柱」だけは、ジュウォンがその腕に刻み込んだ情熱で立ち続けていた。
しかし、抱きしめられたジアンの瞳は、ふとした瞬間に、またどこか遠い「出口のない空白」を見つめていた。




