第8話:解体される地図
ジアンの世界は、もはや「線」を失い、「点」でしか存在しなくなっていた。
昨日と今日が繋がらず、いま歩いているこの道がどこへ続くのかも解らない。かつて数ミリの誤差も許さず、何層もの立体構造を脳内で完璧に組み立てていた彼女の設計室は、シュレッダーにかけられたように意味を持たない紙片となって散らばっていた。
リビングの飾り棚に、一枚の古びた写真が飾られている。若かりし頃の母が、幼いジアンを抱き、満開の桜の下で眩しそうに微笑んでいる。
ジアンはその写真を手に取り、ガラスの汚れを拭うように指でなぞりながら、不思議そうに首を傾げた。
「お父さん。この綺麗な人……どなた? お父さんの昔のお知り合い?」
台所で茶を淹れていたギテクは、その言葉を聞いた瞬間、凍りついたように動きを止めた。手から滑り落ちた陶器の湯呑みが床で砕け、甲高い音が部屋に虚しく響き渡る。
「ジアン……お前……」
ギテクの声が途切れた。娘の瞳の奥にあるはずの「記憶の芽」を必死に探そうとしたが、そこにあったのは初対面の相手に向けられる、行儀の良い無関心だけだった。
「お母さん」という言葉を脳内で反芻しても、それに対応する愛着のデータは完全消去されていた。
「……綺麗な人ですね。でも、私の知らない人です。ごめんなさい、お父さん。そんなに辛そうな顔をしないで」
申し訳なさそうに、けれど完全に冷め切った微笑みを浮かべる娘。
ギテクは飛び散った湯呑みの破片を拾い集めるふりをしながら、深く頭を垂れ、一人静かに声を殺して涙を流した。
土台を失った家がどうなるか。一代で建設会社を興した男には、痛いほど解りすぎるのだった。
*
その夜。テレビの画面に、古都・慶州の仏国寺が映し出された。ライトアップされた石造の多宝塔の気品ある美しさに、ギテクは縋るような思いで声をかけた。
「ここ……中学の修学旅行で行っただろう。あの夜、お前は宿舎を抜け出して、この石塔を見に行こうとして大目玉を食らった。あの時だよ。『将来はこういう確かな石を組む仕事をする』と言い出したのは」
父の必死の問いかけに、ジアンは画面を凝視した。
「……綺麗な石積みですね。でも、初めて見ました。修学旅行なんて、行った記憶がありません」
友人と笑い転げた夜の匂い、古都の冷たい空気、巨大な建造物の美しさに初めて圧倒されたあの原体験。彼女を「一級建築士」という酷烈な道へ突き動かした情熱の源泉すら、目に見えない消しゴムは跡形もなく消し去っていた。
*
そして、最も残酷な喪失は、日常の何気ない足取りの中に潜んでいた。
ジアンはいつものように身支度を整え、影島の現場へ向かうため家を出た。
だが、玄関の扉を閉めた瞬間、彼女は石像のように立ち尽くした。
(……どちらだ? 右か、左か……?)
二十数年、何千回と歩き慣れた釜山の坂道。錆びた鉄製の手すり、ハングルの立ち並ぶ看板。それらが突如として色彩と意味を失い、「未知の迷宮」に変貌した。
「現場へ行かなければ。ジュウォンさんが待っている。私は一級建築士だから……図面を確認して、墨出しをして……」
必死に言い聞かせるが、足が一歩も前に出ない。信号の赤と青が何を意味するのか。路線バスの番号がどこへ向かうのか。都市を構築する「構造」という概念そのものが蒸発していた。
彼女は釜山の雑踏の真ん中で、自分が誰で、どこから来てどこへ行くのかすら失い、迷子のようにその場にしゃがみ込んだ。
*
数時間後。ジアンが現れないことを不審に思い、影島から釜山の街中を捜し回ったチェ・ジュウォンが、道端で丸くなっている彼女を見つけ出した。
「ジアン! 何をやっている、こんなところで!」
肩を掴むジュウォンに対し、ジアンは怯えた目で彼を見上げた。
「……あなたは、誰ですか?」
純粋な「拒絶」の視線。ジュウォンは胸を素手で抉られたような衝撃を受けたが、奥歯を噛み締め、強引に彼女の手を引いた。
「誰でもいい。黙ってついてこい。お前の身体が知っている場所へ連れて行く」
半ば引きずるようにして連れて行ったのは、影島の断崖に建つ、未完成の「二人だけの家」だった。
夕暮れの赤い光が、剥き出しの骨組みを透過する空間。
ジュウォンはジアンの手を取り、彼女自身がノミを打ち込んで刻んだ通し柱の表面に、強く押し当てた。
「思い出せ。頭じゃない、指先だ。お前が削ったこの節、この角度、この手触り。お前の身体は、ここが自分の場所だと覚えているはずだ。この傷跡が、お前の生きた証拠だろう!」
ジアンは柱の表面を、ゆっくりとなぞった。
指先に伝わるヒノキのざらつきと温もり。鼻をくすぐる削りたての木の香り。自分が確かにここに立ち、泣き、怒り、家を建てようとして刻んだ「ノミの跡」。
その瞬間、ジアンの虚ろだった瞳に、ダムが決壊するように一筋の光が宿った。
「……チェ……ジュウォンさん……?」
「そうだ。俺だ。お前に図面を引かせた大工だ」
ジアンは崩れ落ちるようにジュウォンに抱きついた。作業着の胸板に顔を埋め、声を上げて泣いた。
「ごめんなさい……もう何も解らないの。地図が全部真っ白で……! 家に帰る道も、あなたの顔も……消しゴムが全部消していくの……!」
沈みゆく釜山の巨大な夕陽が、骨組みだけの家を鮮血のような赤に染め上げていた。
ジュウォンはジアンを抱きしめたまま、腰袋から束になった太い「赤い水糸」を取り出した。
彼はその糸の端をジアンの手首に、もう一方を自分自身の腕に、現場の結び目で固く、決して解けないように縛り付けた。
そして、ピンと張った赤い糸を、指先で一度だけ弾いた。
——バシィン!!
硬く乾いた音が、未完成の吹き抜けに響き渡った。
「いいか、ジアン。明日、道に迷ったらこの糸を辿れ。俺がこの糸の先で作業をしている。たとえお前が俺の名前を忘れても、俺がこの糸でお前を引き戻してやる。絶対だ。……この基準線だけは、消しゴムでも消させやしない」
ジアンは手首に結ばれた赤い糸を見つめ、ジュウォンの温かい手を握り返した。
記憶の設計図は消失しても、この赤い一本の線だけが、彼女にとっての新しい「人生のベンチマーク」となった。




