第7話:解体される絆
「二人だけの家」の骨組みが立ち上がり、垂木が夕陽を浴びて影島の高台に長い影を落とす頃。
ハン・ジアンの日常は、砂で築いた城が満ち潮に洗われるように、足元から音もなく崩壊し始めていた。彼女が必死に繋ぎ止めようとしていた「世界」が、今、修復不可能なほどに解体されようとしていた。
ある朝。ジアンが重い身体を引きずるようにリビングへ向かうと、そこには父・ギテクが一人、静かにコーヒーを飲んでいた。
朝の光が差し込み、新聞をめくる乾いた音が部屋に響く。
「ジアン、顔色が悪いな。ちゃんと眠れているのか? 影島まで通うのは、やはり身体に障るんじゃないか」
父の、いつものぶっきらぼうだが温かい声。しかし、ジアンはその声を聞きながら、心臓が凍りつくような奇妙な不気味さに襲われた。
彼女は立ち止まり、テーブルの向こうに座る男を凝視した。
(この人は……誰だろう? うちの会社の社員か? それとも、取引先の……?)
ジアンの脳内で、人物の「顔」という視覚データと、「名前・関係性」という属性データが完全に断線していた。目の前にいるのは「見知らぬ中年男性」という記号。
「……あの。どちら様ですか。勝手に上がられては困るのですが」
その一言に、ギテクの手からカップが滑り落ち、磁器の割れる甲高い音が響いた。黒い液体がテーブルクロスに染み込んでいく。
「ジアン……お前、何を言っているんだ。冗談でも笑えないぞ。父親だ……お前の父親だぞ」
ギテクの悲痛な叫び。その瞬間、ジアンの脳の片隅で、古びたアルバムのページがバサリと開くように記憶が繋がった。
「……あ。ごめんなさい、お父さん。寝ぼけていて……変な冗談を言ってしまいました」
ジアンは引きつった笑みを浮かべたが、背中を冷や汗がドロリと伝っていた。実の父親の顔が、数秒前まで「初対面の他人」に見えた恐怖。それが明日には、一時間後には二度と繋がらない暗黒の回路に沈んでしまうかもしれない。
彼女は逃げるように家を飛び出した。
*
不安という名の重力に押し潰されそうになりながら、ジアンは導かれるように影島の現場へ向かった。そこには、自分を待っているはずの男、チェ・ジュウォンがいる。
建設途中の骨組みの間に立つ彼の背中を見て、ジアンは安堵のあまり駆け寄ろうとした。しかし、数歩手前で、まるで透明な壁にぶつかったように足が止まった。
「……チェ・ジュウォンさん……? そこで、何をしているんですか?」
「なんだ、そんな幽霊を見たような顔をして。今日は遅いから、一人で柱の垂直を見てたんだ」
「……名前。名前、合っていますか? あなたは、チェ・ジュウォンさんで、合っていますよね?」
ジアンは震える手で、作業着のポケットから一冊の掠れたノートを取り出した。それは彼女が肌身離さず持ち歩いている「人生の仕様書」だった。
そこには、びっしりと人の名前と特徴が、のたうち回るような筆跡で書き込まれている。
『チェ・ジュウォン。ぶっきらぼう。声が大きい。腕のいい大工。私に……』
その後の文字が、何度も流された涙で滲んでしまい、読めない。
「ジュウォンさん。怖いんです……。さっき、お父さんの顔がただの『景色』に見えました。次はあなたの顔が、ただの『動く物体』に見える日が来るのでしょう? 目の前にいるのに、手が届かなくなる日が来るのでしょう?」
ジュウォンは何も言わず、持っていた下げ振りを置くと、ジアンの身体を強く抱き寄せた。
使い込まれた作業着に染み込んだ、木の屑と、古い油と、汗の匂い。
ジアンはその匂いを、肺が千切れるほど必死に吸い込んだ。
視覚が裏切り、記憶が逃げ去り、自分が自分という構造体の所有権を失ったとしても、この鼻を突く「現場の匂い」だけは、どうか魂の底に留まってくれと祈るように。
*
その日の午後。ジアンはノミと金槌を握りしめ、建設途中の家の中心にある、最も太いヒノキの通し柱に向き直った。
「ジアン。何をしている」
駆け寄るジュウォン。ジアンは彼を振り返りもせず、ノミの刃先を美しい木肌に深く突き立てた。
「刻むんです! 私の頭の、崩れかけた柱を支えるための補強工事です!」
カン、カン、カンと、激しい金属音が静かな高台に響き渡る。
ジュウォンはそれを止めようとはしなかった。彼は無言で自分の腰から研ぎ澄まされた細身のノミを抜くと、ジアンの手元に静かに添えた。
「彫るなら深くだ。仕上げのカンナをかけても消えないくらい、深く刻め」
ジアンは涙で視界を濡らしながら、ノミを打ち続けた。
彼女がその柱に刻み込んだのは、デザインでも記号でもない。自分を愛してくれた人の名、そして自分を現場に繋ぎ止めてくれた男の真実だった。
『ハン・ギテク:私を愛した父』
『チェ・ジュウォン:私に現場をくれた男』
「目で見えなくなっても、脳が忘れても、指でなぞれば解る……。職人は、手が覚えているんでしょう? あなたがそう言ったんじゃないですか……! だったら、私が忘れる前に、この家そのものに刻み込んでおきます……!」
ジアンは、彫りたての凹凸を指先でなぞった。木のトゲが指に刺さり、一筋の血が文字の溝を赤く染める。
しかしその時、ふと、彼女の手がピタリと止まった。
「……ハン……ギ……。……テ……」
ジアンは、自分が刻んだばかりの文字を凝視し、絶望に顔を歪めた。
「……これ。これ、何て読むんだったかしら。……『テ』の次は……何という文字だっけ……」
文字という記号の意味すら、彼女の脳内で解体され、ただの「木肌の溝」へと変わろうとしていた。
補強したはずの記憶の柱が、彫っている最中から腐り落ちていく。
その夜。
自室に戻ったジアンは、扉に鍵をかけると、洗面台の鏡の前に立った。
そこには、一級建築士として名を馳せた、あの誇り高い女の面影はなかった。
恐怖に怯え、涙でマジックの汚れを洗面台に散らしている、ただの迷子が立っている。
「……あなたは、誰ですか?」
鏡の中の自分に問いかける。
「ハン・ジアンですか……? それとも、ただの空っぽの廃墟ですか……?」
問いかける声は、構造を失った館のように、静まり返った部屋の中に虚しく響き渡った。




