第10話: 開かない入口
釜山の海を見下ろす影島の高台。そこには、潮風に洗われながらも新しいヒノキの香りが立ち上る、小さな一軒の家が佇んでいた。
ジアンが狂おしいほどの執念で鉛筆を走らせ、ジュウォンがその震える線を実体化させるために一本ずつ柱を立てた、二人の情熱と祈りの構造体。
「できた……。本当に、完成したのね」
西空を焼き尽くす夕陽を受け、無垢材の壁面が黄金色に輝いている。その光景を前に、ジアンは絞り出すような声で呟いた。隣に立つジュウォンは、泥と汗、そして木の屑にまみれた大きな手で、彼女の肩を静かに抱き寄せた。
「ああ。お前が引いた図面の通りだ。一ミリの狂いもない、世界で一番頑丈な家だ」
「……中を見てくるわ」
ジアンは無垢な笑みを浮かべ、完成したばかりの家に向かって足を進めた。
しかし、建物の手前数メートルのところで、まるで透明な壁に弾き飛ばされたかのように、彼女の足がピタリと止まった。
ジアンは困惑した様子で、家の周囲をうろつき始めた。
右へ三歩、左へ五歩。建物の外壁を、壊れ物に触れるような不審な手つきでなぞりながら、一周、また一周と周回する。
「……あれ? ジュウォンさん、おかしいの。この家、どこから入るのかしら。どこまで歩いても、壁しか見当たらないわ」
ジュウォンは最初、彼女が冗談を言っているのだと思い、言葉を呑んだ。
「何を言っている。正面だ。お前が『これじゃなければダメだ』とこだわって、特注の真鍮の取っ手を付けた、あの分厚い扉だろう」
「正面……? 正面って、どちら……? どこを見ても、ただの木目が並んでいるだけよ。壁しかない。どこにも、開いている場所がない……!」
ジアンの声が急速に湿り気を帯び、激しく震え出した。
彼女の脳内から、空間と空間を繋ぐ「開口部」という概念の形が完全に消去されていた。
健常な人間の目には立派な玄関扉として映っているものが、今の彼女の目には、周囲の壁と同化した「決して開くことのない、閉じられた箱の一面」にしか見えていないのだった。
「ここだ、ジアン! 目の前にある! これがドアだ!」
ジュウォンは焦燥に駆られ、真鍮の取っ手を掴むと、ガチャガチャと強い音を立てて引き寄せた。
だが、ジアンはその光景を目にした瞬間、未知の怪物に襲われたかのように悲鳴を上げて後ずさった。
「嫌……! 私を閉じ込める気でしょう!? どこにも入れない……! 私が設計したのに、私がすべてを決めたのに……この家が私を拒絶している……! 私はもう、ここには住めないんだわ……!」
彼女はその場に膝から崩れ落ち、影島の乾いた土を掴みながら激しく泣きじゃくった。
どの柱がどの太さで、どの釘がどこに打ち込まれているかまで、かつてはすべてを暗記していた己の作品。その「入り方」という、生きるための基本的な構造すら理解できなくなった絶望。
建築士にとって、建物の機能を見失うことは、己の知性と魂が死絶したことを突きつけられるに等しかった。
「ジアン! 見ろ!」
ジュウォンは泣き叫ぶジアンを背後から力任せに抱き起こすと、彼女の冷たくなった手を掴み、真鍮の取っ手の上に強く重ねさせた。
そして、体重をかけて扉を思い切り引き倒した。
——ギィィ……
乾いたヒノキの香りと、影島の夕暮れの風が、開かれた開口部から一気に内部へと流れ込んだ。
「ここが開く。ここから入るんだ。お前が選んだ柱があって、お前が座りたがっていた大きな窓がある。お前が入口を忘れたなら、俺が何度でもこの扉を開けてやる。お前が迷うたびに、俺が何度でも中へ引き入れてやるから……!」
ジアンはジュウォンの作業着に顔を埋め、子供のように声を上げて啼いた。
「ジュウォンさん……恐ろしいの。いつか、あなたの顔も……この家みたいに冷たい『壁』に見えてしまうのかしら。どこから入ればいいのか……どうやって愛せばいいのか、解らなくなってしまうのかしら……」
*
その夜。二人は完成したばかりの、まだ家具のない静かなリビングに座っていた。
ジアンは、残された僅かな感覚を留めようとするように、玄関ドアの裏側に、震える手で太字のマジックを走らせた。
『入口/ハン・ジアン』
それは、彼女が自分自身に宛てた、最後の設計指示だった。
しかし、ほんの数分後。
お茶を淹れようと立ち上がったジアンは、扉の前に立ち、不思議そうにその文字を見つめた。
「……不思議な文字。誰がこんなところに書き込みをしたのかしら」
ジアンは自分がそれを書いたという記憶も、そこに刻まれた意味さえも、もう繋ぎ合わせることができなくなっていた。
だが、ジアンはその黒い文字の上にそっと自分の手のひらを重ねた。そして、理由も解らないまま、溢れ出てくる熱い涙を静かにこぼした。脳は忘れても、手のひらが、魂が、そこに刻まれた愛を覚えているかのように。
ジュウォンは胸を深く抉られながらも一言も発せず、ただジアンの痩せた手を、強く、強く握りしめた。
家の外では、釜山の海が暗闇の中で静かに海鳴りを上げていた。
明日、彼女はこのリビングから出る方法すら失っているかもしれない。
けれど、ジュウォンは心に決めていた。彼女が忘却の荒野に迷い込むたび、自分という絶対的な「基準線」を、何度でも彼女の前に打ち立てるのだと。
たとえその瞳が、自分をただの「壁」としてしか映さなくなったとしても。




