表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潮風の設計図  作者: 水前寺鯉太郎
潮風の設計図

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/54

第8話:解体される地図

ジアンの世界は、もはや「線」を失い、「点」でしか存在しなくなっていた。

昨日と今日が繋がらず、今歩いているこの景色がどこへ続くのかも分からない。かつて数ミリの誤差も許さず、何層もの構造を完璧に把握していた彼女の脳内の「設計図」は、今やシュレッダーにかけられた後のように、意味を持たない紙片となってバラバラに散らばっていた。

【母親:写真の中の他人】

リビングの飾り棚には、一枚の古びた写真が飾られている。若かりし頃の母が、まだ幼くふっくらとした頬をしたジアンを抱き、満開の桜の下で眩しそうに笑っている。

ジアンはその写真を手に取り、レンズの汚れを拭うように指でなぞりながら、不思議そうに首を傾げた。

「お父さん。この綺麗な人、誰? 父さんの昔の彼女?」

台所で茶を淹れていたギテクは、その言葉を聞いた瞬間、凍りついたように動きを止め、持っていた湯呑みを床に落とした。陶器が砕ける鋭い音が、静まり返った部屋に空虚に響く。

「ジアン……お前、何を言うてるんや。お母さんや。お前を産んで、お前が中学生の時に病気で亡くなった、お前のたった一人のお母さんやぞ……」

ギテクの声は震え、必死に娘の瞳の奥にあるはずの記憶の種を探そうとした。しかし、ジアンは「お母さん」という言葉を反芻するように口の中で転がしたが、その言葉に対応する感情のデータは、彼女の脳内からは完全にデリートされていた。

「……お母さん? そうなんや。綺麗な人やね。でも、うちは知らん人やわ。ごめんね、父さん。そんなに悲しい顔せんといて」

悪びれもせず、しかしどこか虚ろに、慈悲深くさえ見える微笑みを浮かべる娘。ギテクは、娘の心から「家族の歴史」という最も深い土台が消え去ったことを悟った。彼は飛び散った湯呑みの破片を拾うふりをして、一人、声を殺して泣いた。土台を失った家がどうなるか、建築屋の彼には分かりすぎるほど分かっていたからだ。

【修学旅行:消えた青春の光】

その日の夜。テレビの紀行番組で慶州キョンジュの仏国寺が映し出された。ライトアップされた石造の美しさに、ギテクは藁をも掴む思いで話しかけた。

「あ、ここ。中学の修学旅行で行ったやんか。ジアン、あの時お前、夜にこっそり宿舎を抜け出して、多宝塔を見に行こうとして先生に大目玉食らったよな。あの時にお前が『将来はこういう石の積み方を仕事にする』って言い出したんやぞ」

父の必死な問いかけに、ジアンは画面をじっと見つめる。

「……仏国寺。有名な場所やね。修学旅行? うち、そんなん行ったことあったっけ? 綺麗な石積みやね。でも、初めて見たわ」

友人と笑い転げた夜の匂い、古都の冷たい空気、初めて巨大な建築物の美しさに圧倒されたあの原体験。彼女を「一級建築士」という過酷な道へと突き動かした情熱の源泉さえも、白い消しゴムは跡形もなく消し去っていた。

【迷宮:職場へのルート消滅】

そして、最も残酷な瞬間は、日常の何気ない動作の中に潜んでいた。

ジアンはいつものように、現場へ向かおうと身支度を整え、家を出た。

しかし、玄関のドアをカチリと閉めたその瞬間、彼女は石像のように立ち尽くした。

(……どっちやっけ? 右に曲がるんか、左に曲がるんか……)

十数年、それこそ何千回と通い続けた道。釜山の見慣れた街並み、坂道、錆びた手すり。それらが突然、色彩と意味を失い、**「異国の迷路」**に変貌した。

「職場に行かなあかん。ジュウォンさんが待っとる。うちは一級建築士やから。図面を確認して、墨出しをして……」

必死に自分に言い聞かせるが、足が一歩も前に動かない。信号の赤と青が何を意味するのか。バスの番号がどこへ運んでくれるのか。街を構成する「ルート」という概念そのものが、彼女の脳から蒸発していた。

彼女は釜山の雑踏の真ん中で、自分が誰で、どこから来て、どこへ行こうとしているのかさえ分からなくなり、迷子になった幼児のように震え、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。

【現場:残された最後の手触り】

数時間後。ジアンが現場に現れないことを不審に思い、彼女の家までの道を必死に探し回ったチェ・ジュウォンが、道端でうずくまる彼女を見つけ出した。

「ジアン! 何しとるんや、こんなところで! 現場はもう始まっとるぞ!」

怒鳴りながら肩を掴むジュウォンに対し、ジアンは怯えたような目で彼を見上げた。

「……あんた、誰?」

一瞬、ジアンの瞳に冷たい、そして純粋な「拒絶」の色が走る。ジュウォンは心臓を素手で掴み潰されたような衝撃を受けたが、奥歯を噛み締め、強引に彼女の手を引いた。

「誰でもええ。今は黙ってついてこい。お前の体が知っとる場所へ連れてったる」

ジュウォンが半ば引きずるようにして彼女を連れて行ったのは、影島の崖っぷちに建つ、建設中の「二人だけの家」だった。

まだ外壁も完全ではなく、夕暮れの光が剥き出しの骨組みを透過する、未完成の空間。

ジュウォンはジアンの両手を取り、彼女が自らの手でノミを打ち込み、削り出した「主柱」の表面に無理やり触れさせた。

「思い出せ。頭やない、指先や。お前が削ったこのふし、この角度、この手触り。お前の体は、脳みそが裏切っても、ここを『自分の場所』やと覚えとるはずや。この傷跡が、お前の生きた証拠やろ!」

ジアンは拒絶を止め、ゆっくりと柱をなぞった。

指先に伝わるヒノキの微かなざらつき、そして温もり。鼻をくすぐる削りたての木の香。自分が確かにこの場所に立ち、怒り、泣き、そして家を建てようとしていた時に刻んだ「ノミの跡」。

その瞬間、ジアンの虚ろだった瞳に、ダムが決壊するように一筋の光が戻った。

「……ジュウォン、さん……?」

「せや。俺や。現場監督の、チェ・ジュウォンや。お前の最高の相棒や」

ジアンは足の力が抜け、崩れ落ちるように彼に抱きついた。ジュウォンの厚い胸板に顔を埋め、声を上げて泣いた。

「ごめん……ごめん。もう、何もわからん。地図が、全部真っ白なんや……! 家に帰る道も、あんたの顔も、消しゴムが全部消していくんや!」

沈みゆく釜山の巨大な夕陽が、骨組みだけの家を真っ赤に染め上げていた。

ジュウォンはジアンを抱きしめ続け、彼女がもう二度と「点」の世界で迷わないように、自分の作業着の腰袋から出した太い「赤い水糸」を取り出した。

彼はその糸の一方をジアンの手首に、もう一方を自分自身の腕に、固く、解けないように結びつけた。

「ええか、ジアン。明日、道に迷ったらこれを辿れ。俺がこの糸の先におる。たとえお前が俺の名前を忘れても、俺がこの糸でお前を釣り上げてやる。絶対や。……この糸だけは、消しゴムでも消させへんぞ」

ジアンは赤い糸を見つめ、ジュウォンの温かい手を握り返した。記憶の設計図はなくても、この赤い一本の線だけが、彼女にとっての新しい「人生の基準線」となった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ